グレアスは重い沈黙の中、彼らを迎え入れた。
広々とした応接室に通されたシークエンス家の者たちは、どこか落ち着かない様子だった。
クレアの父と母は、それぞれ気まずそうに視線を彷徨わせ、妹のレイルは明らかに不安そうに唇を噛んでいた。
「これはこれはシークエンス侯爵、侯爵夫人、そしてレイル嬢」
グレアスは一礼し、丁寧な言葉を選んで挨拶をした。
しかし、その瞳は冷ややかだった。
感情を抑えているつもりでも、内心の苛立ちは抑えきれない。
「こちらこそ、ご無沙汰しております、グレアス殿下……」
クレアの父は、どこかぎこちなく返した。
母も隣でうなずくが、落ち着かない表情は隠せていない。
レイルだけはグレアスの顔をじっと見つめ、少し迷った後、おずおずと口を開いた。
「……クレア姉様の様子は……?」
グレアスの表情が一瞬、険しくなったが、すぐに平静を装ったまま答えた。
「意識はまだ戻っていません。しかし医師の話では、命に別状はないとのことです。」
「そう……」
レイルの表情には心からの心配が浮かんでいた。
一方で、クレアの両親は居心地の悪そうな様子で言葉を探している。
クレアを過去に捨てた彼らが、今さら娘を心配する資格があるのか。
グレアスの中で、冷たい怒りがくすぶっていた。
「それで、今日はどのようなご用件で?」
グレアスはあくまで礼儀正しく問いかけた。
クレアの父は目を伏せたまま、低い声で答えた。
「……クレアのことが、心配で」
「そうですか」
グレアスの声は淡々としていた。
そのまま静かに彼らを見つめる。
その瞳には、明らかに彼らの言葉を信用していない光が宿っていた。
「彼女に会うことはできるでしょうか?」
母が恐る恐る尋ねる。
グレアスはわずかに考えるふりをした後、ゆっくりと頷いた。
「……クレアが記憶を取り戻したら、判断は彼女に委ねます。」
それはつまり、今は会わせるつもりがない、ということだった。
クレアの意識が戻るかどうかも不明な中で、この言葉が意味するものを、彼らは悟ったようだった。
父と母の顔が少し強張る。
「そ、そう……ですね」
母が小さく呟く。
レイルは不満そうな顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
ただ、何かを決意したように、拳をぎゅっと握りしめた。
「……では、今日はこれで失礼します」
父が立ち上がり、母もそれに倣った。
レイルは最後まで名残惜しそうにグレアスを見つめていたが、やがて小さく頷いてついていった。
彼らが去った後、グレアスは深く息をついた。
「今さら何を……」
独り言のように呟いた声は、静かな怒りを帯びていた。
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馬車の中は、冷え冷えとした空気が満ちていた。
最初に口を開いたのはクレアの母だった。
深いため息とともに、忌々しげに言う。
「まったく……あの子、王太子殿下に甘やかされて、いい気になっているんじゃないかしら?」
「どうせそうだろうな」
父も鼻を鳴らす。
「拾われた分際で、王族気取りか。身の程知らずもいいところだ。」
「本当にね」
レイルも冷たく笑った。
「私はてっきり、もっと惨めな姿になっているかと思ったのに、思ったよりも良い暮らしをしていて驚いたわ。まるで王族の一員にでもなったつもりなのかしら?」
「図々しいにもほどがあるわ。」
母が吐き捨てるように言った。
「シークエンス家の恥さらしのくせに、王族に庇護されるなんて」
「まあ、使い道がないわけじゃないわよ」
レイルは皮肉げに微笑んだ。
「王太子殿下に媚びへつらっていれば、それなりに価値もあるでしょうけど……どうせなら、もっと有益な形で利用すればいいのに。今のままじゃ、あの子はただのお飾りじゃない?」
「ふん、まさか本当に王太子妃になれると思っているのか?」
父が嘲笑する。
「そんな未来が訪れるとでも?王家が貴族から見放された娘を正式に迎えるはずがない」
「ええ、だからこそ――今、あの子を回収してしまうのが最善なのよ。」
母は鋭く目を細める。
「ロレアス王国のために、シークエンス家のために、役に立ってもらわないとね。」
「そうね」
レイルは指先で髪を弄びながら、薄く微笑んだ。
「王太子殿下のお情けに甘えてのうのうと生きるなんて、姉様らしくないわ。どうせなら、もっと相応しい場所で働いてもらわないと。例えば――ロレアス王国のために、身を粉にして尽くすとか?」
「それがあの子の本来の役目なのよ。」
母は冷酷に言い放った。
「今の暮らしは、ただの幻想。私たちがその幻想を終わらせてあげましょう。」
「ふん、王太子殿下が邪魔になるかもしれんが……まあ、手はある。」
父は考え込むように腕を組んだ。
「問題はどうやってクレアを取り戻すか、だな。」
「簡単よ。」
レイルは余裕の笑みを浮かべる。
「姉様の弱みを突けばいい。記憶を失っているなら、過去のことを吹き込んで誘導することだってできるでしょう?」
「……ふふ、なるほどね。」
母は満足げに微笑んだ。
「やっぱり、レイルは私たちの誇りだわ。」
レイルは得意げに笑い、馬車の窓から屋敷を振り返った。
「(――姉様、甘い夢を見ているのも今のうちよ。私たちが、その夢を終わらせてあげるから)」
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グレアスは執務室の椅子にもたれかかりながら、静かに目を閉じた。
シークエンス家――クレアを捨てた家族。
そして、彼女を取り戻そうと目論んでいる連中。
彼らがクレアに対してどんな態度を取るのか、今日の面会で改めて確認できた
表面上は心配するふりをしながらも、その視線は冷たく、どこか値踏みするようなものだった。
「クレアを『回収』するつもりか……」
低く呟き、机の上を軽く拳で打つ。
今さら家族面をして、彼女を迎えに来る?
ふざけるな。
これまでずっと放置しておきながら、利用価値があると分かった途端に手を伸ばしてくるとは――。
グレアスは苛立ちを覚えながらも、冷静に状況を整理する。
シークエンス家の目的は明白だ。
彼らはクレアを王太子妃として迎え入れるためではなく、ロレアス王国のための「道具」として使うために連れ戻そうとしている。
それが政治的な交渉の材料なのか、あるいは単なる労働力なのかは分からないが、いずれにせよ、クレアの意思など微塵も考えていないことは確かだった。
「……誘拐事件も、やはりあいつらの仕業か。」
グレアスは以前の報告を思い出す。
シークエンス家が雇った輩がクレアをさらった――だが、目的ははっきりしなかった。
単なる脅迫か、それとも本当に奪い去るつもりだったのか。
「クレアがいなければ、王太子の私がどう動くか……試すつもりだったのか?」
彼女が記憶を失った今、シークエンス家はさらにつけ入る隙を見つけたと思っているかもしれない。
優しく言葉をかけ、家族の情をちらつかせて、クレアを自ら従わせようとする可能性もある。
だが、そんなことをさせるつもりはない。
「……クレアは、俺のものだ」
グレアスは静かに、だがはっきりとした意志を込めて呟いた。
彼女は俺が守る。
あの偽善的な家族の元へ戻すなど、断じて許さない。
グレアスは視線を机の上に向けると、手元にあった書類を一枚取り上げた。
それはシークエンス家の財務状況についての報告書。
――金に困っているのか、それとも別の事情があるのか?
彼らがクレアを取り戻そうと躍起になる理由が、単なる「家族の情」などではないことは明らかだ。
「……調べる必要があるな。」
グレアスは手元の書類を整えると、執務室の扉を開けた。
クレアを守るために。
そして、シークエンス家の企みを潰すために。
彼は静かに立ち上がった。
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ミーシャは静かに椅子に座り、眠るクレアの顔をじっと見つめていた。
寝息は穏やかで、まるでただ深い眠りについているだけのように見える。
だが、どれだけ呼びかけても、その瞼が開かれることはない。
「クレア様……」
ミーシャは小さく呟きながら、そっとクレアの手を握った。
ほんのりと温かい。
確かに生きていることを感じられる。
けれど、それでも彼女は目を覚ましてくれない。
「(どうか……どうか、目を覚ましてください……)」
心の中で何度も願う。
あの日、ミーシャがもう少し注意深く行動していたら、こんなことにはならなかったのではないか——
そう思わずにはいられない。
「クレア様……申し訳ありません……」
自分のせいだという思いが、胸を締め付ける。
何度もグレアスに「事故だった」と言われても、そう簡単に気持ちを切り替えることはできなかった。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
ふと、部屋の扉が静かに開いた。
「ミーシャ。」
低く、落ち着いた声。
顔を上げると、そこにはグレアスが立っていた。
「そろそろ休め。交代する。」
「……ですが……」
ミーシャは一瞬、迷いの色を浮かべた。
ずっとクレアの傍にいたい。彼女が目を覚ましたとき、すぐに駆け寄りたい。
そう思ったが——
グレアスの真剣な眼差しを見て、小さく頷いた。
「……分かりました。」
ゆっくりと立ち上がり、クレアの手をそっと離す。
「クレア様のこと、お願いします。」
「ああ。」
グレアスは短く答え、ミーシャの座っていた椅子に腰を下ろす。
彼の大きな手が、クレアの手を包み込むように握られるのを見て、ミーシャは静かに頭を下げ、部屋を後にした。
静寂が訪れる。
グレアスはじっとクレアの寝顔を見つめた。
「……戻ってこい、クレア」
それは誰にも聞こえないほどの、小さな囁きだった。
部屋には静かな空気が流れていた。
カーテン越しに差し込む月明かりが、クレアの白い肌を照らし、彼女の静かな寝顔を浮かび上がらせる。
グレアスはクレアの手を握ったまま、その顔を見つめ続けていた。
彼女の呼吸は穏やかで、時折まつ毛が微かに揺れる。
けれど、彼女の瞳が開くことはない。
「……クレア。」
囁くように名前を呼ぶ。
当然、返事はない。
(何を見ている? 何を聞いている? 俺の声は、お前に届いているのか……?)
グレアスの胸に、どうしようもない焦燥感が広がっていく。
これまで、どんな困難があろうと、クレアは乗り越えてきた。
だが今回は、彼女自身の意思ではどうしようもない壁に閉じ込められているのではないか。
そんな気がしてならなかった。
彼はそっと、クレアの頬に触れる。
温かい。
だが、それはまるで遠い場所にいるような感覚だった。
「お前がいないと、つまらないな。」
グレアスは苦笑するように呟いた。
クレアが目を覚まさない日々が続く中で、彼はふと気づいた。
自分がどれほど彼女に心を奪われていたのかということに。
クレアが話すときの声音。
笑うときの表情。
少し不機嫌なときの顔さえも。
それらすべてが、今はただ静かに眠っている。
「……早く帰ってこい、クレア。」
もう一度、その名を呼ぶ。
グレアスの手のひらに、わずかに力が込められる。
しかし、その願いに応えるかのような変化はなかった。
彼はただ、いつまでも眠り続けるクレアの傍に、静かに座っていた。
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グレアスは深く息を吐き、苛立ちを押し殺しながら応接間の扉を開けた。
そこには、堂々とした態度でソファに腰掛けるシークエンス公爵とその妻、そして妹のレイルがいた。
昨日と同じ顔ぶれ。
しかし、今日はさらにしつこく居座るつもりなのか、全員がまるでこの屋敷の主であるかのような振る舞いをしていた。
「(本性を現したか)」
「やあ、ジュベルキンの王太子殿下。」
シークエンス公爵は余裕のある笑みを浮かべながら言った。
「昨日はお邪魔したばかりだというのに、また押しかけてしまって申し訳ない。だが、どうしても話しておきたいことがあってね。」
グレアスは何も言わずに席に座る。
シークエンス家が何を目論んでいるのかは、すでに察していた。
「……何の用だ?」
単刀直入に尋ねると、公爵夫人がわざとらしくため息をついた。
「もちろん、クレアのことよ。彼女の様子を見に来たのだけれど……」
「それにしても、ずいぶん長く寝込んでいるようだな。」
レイルが嘲るような口調で言う。
「もしかして、本当に目を覚まさないんじゃない? そうなると困るのよねえ。せっかく『回収』しに来たのに、使えないんじゃ意味がないもの。」
グレアスの目が鋭く光る。
「回収……? まるでクレアが物のような言い方だな。」
「ええ、物よ。」
レイルはあっさりと言い切った。
「だって、姉さんは私たちシークエンス家にとって貴重な駒だもの。王国のために役立ってもらわなきゃね。姉さんは昔からそういう立場だったのよ。自分がどう思おうと関係ないわ。」
グレアスは無言で彼女を見つめる。
「何よ、その目。」
レイルは腕を組みながら言った。
「私たちは当然のことをしているだけよ? 王族であるあなたも理解できるでしょう? クレアは有用な人材なの。だから、シークエンス家が管理するのが当然でしょう?」
「……ふざけるな。」
低く、しかし確かな怒気を帯びた声だった。
グレアスがゆっくりと立ち上がる。
「クレアはお前たちの道具ではない。」
「道具かどうかを決めるのは私たちよ。」
シークエンス公爵が落ち着いた口調で言う。
「王太子殿下、あなたはクレアを庇っているようだが、彼女はシークエンス家の人間なのだ。私たちがどう扱おうと、あなたに口出しする権利はない。」
「いや、ある。」
グレアスはシークエンス公爵を睨みつけた。
「クレアは俺のものだ。」
シークエンス家の面々が目を見開く。
「俺が彼女を守る。そしてお前たちには絶対に渡さない。」
その言葉に、応接間の空気が一気に張り詰める。
シークエンス公爵の笑みが消えた。レイルの表情も歪む。
「……ふふっ、なるほどね。」
レイルは皮肉げに笑った。
「そんなに姉さんが大事なの? じゃあ、せいぜい気をつけることね。」
「何のつもりだ?」
「さあ?」
レイルは立ち上がりながら肩をすくめた。
「ただの忠告よ。私たちの手を煩わせるようなことにならなければいいわね?」
シークエンス公爵と夫人も立ち上がる。
「今日はこの辺で失礼しよう。」
公爵は冷ややかに言った。
「だが、王太子殿下。忘れないでくれ。我々はクレアをあきらめるつもりはない。」
そう言い残し、シークエンス一家は応接間を後にした。
グレアスは静かに息を吐き、拳を握る。
(クレア……絶対に、お前をあんな奴らの元へは戻させない。)
彼の瞳には、決して揺るがぬ強い決意が宿っていた。