クレアの心は深い霧の中に迷い込んでいた。
自分はいったい何者なのか。
シークエンス家の娘として生まれ、道具のように扱われ、そして今はグレアスに拾われて彼の屋敷で過ごしている。
だが、それは本当に自分の意志で選んだことなのか?
何をなすべきなのか。
過去の記憶を取り戻し、シークエンス家と向き合うべきなのか、それともグレアスの庇護のもとで新しい自分を見つけるべきなのか。
だが、もし記憶を取り戻したとして、それが自分にとって幸せなものだったとは限らない。
自分の存在価値とは何なのか。
シークエンス家にとっては「利用価値のある駒」でしかなかった。
では、グレアスにとって自分は何なのか?
ただの「守るべき存在」なのか、それともそれ以上の何かがあるのか?
自分はただ守られるだけの存在でいいのか?
自分にいったい何ができるのか。
何かを変える力があるのか?
それとも、自分はただ運命に流されるだけの存在なのか?
クレアは、ふと自分の手を見つめた。
この手は何かを掴めるのだろうか。
それとも、何も掴めず、ただ誰かの手に引かれるだけの存在なのか。
「……私は、どうしたいんだろう……?」
ぽつりと零れた言葉に、答えは返ってこなかった。
クレアがふと顔を上げると、周囲の前世たちが静かに彼女を見つめていた。
「私たちは、あなたの迷いが分かるわ。」
最初に口を開いたのは、クレアにそっくりな女性――記憶を失う前のクレア自身だ。彼女は優しく微笑みながら、クレアに歩み寄った。
「私もずっと悩んでいた。自分が何者なのか、何をすべきなのか……。シークエンス家にいた頃は、生きる意味なんて考えたこともなかった。ただ命じられたことをこなしていただけ。でも、グレアス様に拾われて、ミーシャやフェルと過ごすうちに、私は少しずつ『自分』を取り戻せた気がしていたの。」
「でもね、それでも時々思ったの。私は本当にこの場所にいていいのかって。」
クレアは唾を飲み込んだ。
それは、まさに今の自分が抱えている感情そのものだった。
「私もそうだったよ。」
続いて声を上げたのは、医師だった前世の女性。
白衣をまとい、理知的な瞳をした彼女は、穏やかにクレアを見つめた。
「私は生涯、患者を救うことだけを考えていた。でも、時には助けられない命もあった。そんなとき、自分の無力さに打ちひしがれた。『自分は何のために医者になったのか?』ってね。けれど、あるとき気づいたの。私は何か大きな使命を果たすために生きていたわけじゃない。ただ、目の前の人を救いたかったから医者になったのよ。」
「目的なんて後からついてくるの。まずは、自分が『何をしたいか』を知ることが大事よ。」
次に口を開いたのは、農家だった前世の女性。
陽に焼けた肌と逞しい腕を持つ彼女は、クレアに優しく微笑んだ。
「私はね、ただ土を耕して、作物を育てて、食べることが好きだった。それが私の生きがいだった。何か大それたことを成し遂げなくても、誰かに感謝されなくても、私が幸せならそれでよかったの。」
「生きる理由なんて、そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないかな?」
「そうそう!」
明るく笑ったのは、司書だった前世の女性。
彼女は大きな本を抱えながら、目を輝かせていた。
「私はね、ただ本が好きで、本に囲まれて生きたいと思ったの。世の中にはいろんな考え方があって、いろんな生き方がある。それを知ることが、私にとっての幸せだったのよ。」
クレアは静かに彼女たちの言葉を聞きながら、心の中に温かいものが広がっていくのを感じた。
「私たちは、あなたなのよ。」
最初に話したクレアそっくりの女性が、そっとクレアの手を取った。
「そして、あなたは私たちの延長線上にいる存在。だから、何を選んでもいいの。ただ、あなたが心から望む道を選んで。」
「……私が、望む道……。」
クレアは、自分の胸に手を当てた。
何を望んでいるのか、まだはっきりとは分からない。
でも――少しだけ、答えが見えた気がした。
クレアは前世たちの言葉を胸に、静かに座り込みながら再び自問自答を繰り返していた。
「私が望む道って、何だろう…?」
彼女の頭の中で、前世たちの言葉が繰り返される。
医師だった自分が「目の前の人を救いたい」という気持ちから生まれたこと、農家だった自分が「土を耕し、作物を育てることで幸せを感じた」こと、司書だった自分が「知識を広げることで喜びを得た」こと。
そして、今の自分――記憶を失い、何もかもが不確かな状況で生きているクレアが、心の中で感じている「空虚さ」や「迷い」。
彼女はそのすべてを一度心の中で整理しようとしたが、答えはすぐには見つからなかった。
「私は、何を求めているんだろう…?」
クレアは深くため息をついた。
目の前に広がる景色を眺めながら、何かを探し続けるような視線を向ける。
その中で、ふとグレアスの顔が浮かんだ。
彼と過ごしてきた時間、彼の優しさ、そして何より、彼がずっと側にいてくれたこと。
それだけで心が温かくなるのに、なぜだろうか、何かが満たされないような感じがする。
「グレアスさんは、私をどう思っているんだろう…」
彼の瞳の奥にある感情が、クレアにはまだ完全に読めない。
確かに彼は彼女を支え、助け、そして大切にしてくれる。
でも、何度も言われた「何も覚えていないのに…」という言葉が、彼女の胸を痛ませる。
「私は、彼のことを覚えていないのに。こんな私を、どうして…?」
彼の優しさに包まれているのに、どうして心の中に不安が残るのだろうか。
クレアはその答えを探すように、ただじっと自分の内面を見つめ続ける。
何か大切なことを忘れているような気がして、それがどうしても不安にさせていた。
前世たちの言葉が、また浮かぶ。
あの時、自分が生きるために選んだこと、全てが自分の一部だったことを思い出させてくれる。
何をしても、何を選んでも、どんな自分でもそれは自分の一部だということ。
「私は、私でいいんだ…」
クレアは少しずつ、自分の中に答えを見出していくような気がしてきた。
全ての過去の自分が集まっている、今の自分。
それこそが「私」だということに気づき、安心感が広がる。
そして、少しだけ微笑んでみる。
心の中で、何かが解けたような気がした。
「私は、どんな自分でも、大丈夫なんだ。」
自分が何をすべきか、それはこれからの自分が選ぶべき道だと、クレアは確信し始めていた。
クレアは、静かに目を閉じて深呼吸をした。
その冷たい空気が、彼女の肺を満たすと、心の中に新たな決意が芽生えてきた。
自分がこれまで迷っていたこと、悩んでいたこと――すべての答えは、一つに集約される気がした。
「記憶を取り戻すこと。」
それが、彼女の出した答えだった。
過去の自分、どんな役割を果たしていたのか、どんな人間だったのか――その全てを知ることこそが、今の自分を理解するために必要なことだと、クレアは感じた。
過去を知らないまま、今を生きるのは、まるで暗闇の中で手探りをしているようなものだった。
彼女は、もうその状態に耐えることはできないと感じた。
「私は…私自身を取り戻さなきゃ。」
クレアは、心の中で強く誓った。
自分がどんな人間であったのかを知ることで、前に進む力を得られるのだと、確信した。
そして、その過程で自分を取り戻せるかもしれないという希望を胸に、少しずつ心が軽くなっていった。
「私は、戻す。全部を。」
クレアは、心の中で再び強く決意を固めた。
記憶を取り戻し、過去の自分を取り戻すこと。
それが、彼女にとって最も大切なことだと気づいた瞬間だった。
まだ迷いを感じる部分もあったが、その景色を見て、少しだけ心が穏やかになった気がした。
「これから、進んでいくのよ。私は、私を取り戻す。」
クレアが出した答えを聞いた瞬間、記憶をなくす前のクレアは満足げな表情を浮かべた。
まるでそれが最初から決まっていたかのように、記憶をなくす前のクレアは微笑んでクレアを優しく抱きしめた。
その腕の中で、クレアは驚きとともに感じる温もりに包まれた。
「それが、あなたの答えなのですね。」
記憶をなくす前のクレアの声は、まるで優しく導くような穏やかなもので、クレアの心にすっと沁み込んできた。
クレアの心臓がゆっくりと落ち着きを取り戻し、ふと肩の力が抜けるのを感じる。
その瞬間、記憶をなくす前のクレアはクレアをさらに強く抱きしめ、そして、静かに囁いた。
「記憶を取り戻したいのですね。あなたは、自分を取り戻したいのでしょう?」
その言葉に、クレアは黙って頷く。
記憶をなくす前のクレアは静かに微笑むと、クレアの額に優しく手を添えた。
次の瞬間、クレアの目の前で、記憶をなくす前のクレアの姿が次第に光に包まれていく。
その光は徐々に強く、まばゆく輝き始め、クレアの目を眩しく照らした。
「私は、あなたそのもの」
記憶をなくす前のクレアの言葉が、クレアの耳に響いた。
その瞬間、記憶をなくす前のクレアの姿が消え、代わりに強い光となってクレアの体に吸い込まれていく。
光が彼女の体に入り込む感覚、まるで自分の中に何かが流れ込んでいくような、未知の感覚に包まれた。
クレアの頭の中が一瞬、空っぽになったような感じがした。
そして、次の瞬間、彼女の脳内に、無数の記憶が一気に流れ込んできた。
それはまるで、長い間閉ざされていた扉が開かれ、忘れていた過去の映像や声が、一度に溢れ出てくるかのようだった。
彼女の脳裏には、過去に起こった出来事が、色鮮やかに蘇った。
何度も繰り返した会話、過去の自分、かつての仲間たち、そして愛した人たちの顔が次々と現れ、クレアはその一つ一つを必死で追いかけるように感じていた。
「これが、私の過去…」
彼女は心の中で呟く。
記憶の一部が戻るたびに、クレアの目は細くなり、涙が頬を伝うのを感じた。
過去の自分と再び向き合い、今まで抱えていた不安が少しずつ解けていく感覚があった。
しかし、同時にその膨大な量の記憶に圧倒され、クレアはしばし息を呑んだ。
記憶の中で、彼女は再びグレアスの顔を見た。
彼との温かな思い出、そして彼を守りたいという想いが鮮明に蘇る。
その顔が心の中で微笑むのを見て、クレアは胸の奥から温かい感情が湧き上がるのを感じた。
「グレアス様…」
その名前を呼びたくてたまらなかった。
記憶が戻るたびに、心の奥で何かが呼び覚まされるような感覚があった。
そして、それが彼女を強くする力に変わった。
クレアは、ふと感じる安堵の中で、再び深呼吸をした。
だが、記憶が戻る過程で、彼女はその痛みや辛さを感じることもあった。
失った時間、過去の傷跡、そして何よりも忘れていたことが次々と蘇り、クレアはその重さに圧倒されそうになった。
それでも、彼女は今、しっかりとその記憶を受け入れる決意を固めていた。
「私は、私を取り戻す…」
そして、再び自分の強さを感じながら、クレアはその記憶の中に埋もれた自分を見つけた。
記憶を取り戻した今、自分が何をすべきか、何を守るべきかを再び知ったのだ。