新宿区歌舞伎町1丁目1番地、そこは外国人観光客がひしめく眩しい街ではない。通りの巾は2メートルほど、その両側に小さな飲み屋やバーが隙間なくひしめいている。
夜にもなればここも外国人観光客や馴染みの店巡りの客が行き来するが、昼間は営業する店もなく通りを歩くのはノラ猫だけだった。
大きな旅行用トランクを曳いた男がやってきたのは午後3時頃、何軒かの店は開店準備で掃除を始めているところだった。
トランクを曳いた男はマスクとサングラスで顔を隠すようにして足早にゴールデン街の路地に入り、店名も看板もない店のドアの前に立った。男は左右を見回して人目がないのを確かめると、素早く鍵を取り出してドアを開け店の中へ姿を消した。
店の中はカウンターとスツールでほぼ一杯だが、どこも薄くホコリを被っている。カウンターの向こうにある棚には、やはりホコリまみれのクラスが並ぶだけで酒瓶はない。
「俺だ。降りるぞ」
カウンターに置いてあるインターホンでそう告げると、男はカウンターの床にあるマンホールの鉄蓋を引き開けた。むっとするドブとカビの臭いに顔をしかめ、ヘッドライトをつけた男はマンホールの中へ姿を消した。
マンホールの下は深さ2メートルほどの狭い地下室で、その床にはコンクリートに穴が開いて嫌な臭いの空気が漂いだしている。その穴からハシゴで何メートルか降りると、畳一枚あるかどうかの狭い空間に出る。
その片隅にはまた穴があって、ハシゴで数メートル降りるようになっている。降りきったところでようやく、ひどく心細いが明かりが灯ったトンネルのようなところに出た。腕を左右に広げることもままならない狭い通路を進んで行くと、かすかに水が流れる音が聞こえる。
「お疲れ様です。濱田さん」
薄暗い洞窟のような中にいた男たちが挨拶する。そこは四角いトンネルのような空間で、地面には少しだけ水が流れている。
「順調か?」
濱田は……たびたびエリカを襲おうとして、圭太に散々な目に遭わされた男が聞いた。
「キノコの具合は良いんですが、ムシが多いんで困ってます。ぶら下げる防虫剤なんか効きゃしません」
汚れた水からわいて出るコバエは、餌にもなるダンジョンマッシュルームにたかってキノコを腐らせてしまうのだ。今は栽培ポットをガーゼで包むくらいしか対策がない。
「あとちょっとの辛抱だ、寺の乗っ取りがもうすぐ終わる。そしたらこんなひでえ穴倉ともおさらばだ」
俺は突然エリカに工房から引っ張り出され乗せられ乗せられ新宿に連れて行かれた。新宿に来たことなんて数えるほどしかない、ここ一年くらいは絶対来ていない。
「あ、ここ。果物屋……なくなってる」
かなり前の記憶しかなかったので新宿はいろいろと変わっていた。巨大なディスプレイから巨大な三毛猫が俺を見下ろしている。
「ひと月もあれば何か変るわよ、新宿は」
立川も人が多いけど、新宿と比べたらまだ人の密度が低い。車を伊勢丹の駐車場に入れて、エリカは歌舞伎町とは反対方向に歩いていく。やたらに外国人が多い。
狭い路地を何度か曲がってどこを歩いているのかわからなくなったころ、立川のWINSあたりの飲み屋街を圧縮したような場所に出た。
「何ですか? ここ」
『新宿ゴールデン街』と看板がついた屋根なしのアーケード。完全に場違いな場所に連れてこられた。
「ただの飲み屋街よ。ホテルはないから安心して」
飲み屋ばかりだからお昼前の今は人がいない、エリカはその超妖しい路地に平気で入って行く。
「それで、どこ……行くんですか?」
「ここのどこかが目的地らしいの」
俺は足を止めて狭いドアと看板だらけの路地を見回した。
「え? ここの、どこかに……ダンジョン?」
「ご名答」
エリカが俺を振り返って、乱れた金髪を手でなでつけながら言った。
「どこに?」
「それを探しに来たのよ」
「どうやって?」
一軒ずつドアをノックして『すいません、ここダンジョンありますかー?』と聞いて回るのはバカげている。
「そこはダンジョンスペシャリストたる、あんたの勘に頼る」
「え? マジで?」
「聞き込みしようにも、今は誰もいないからね。こうするしか方法がないのよ」
「夜に来ればいいじゃないか」
エリカが体ごと俺に向き直って、腰に手を当てて睨んだ。
「あたしが来るんだから、ただのダンジョン見物なはずがないでしょ!」
そうだった。ここしばらくエリカの本業でダンジョンに入ることがなかったので、うっかり忘れかけていた。エリカが俺をダンジョンに連れて行くのは『ヤバいこと』があるからだった。
「最近あんた、りりんに腑抜けにされてない?」
エリカに言われて否定も言い返すこともできなかった。顔が熱くなった。
「あんたが誰と交際しようと勝手だけど、あたしとパートナー組んでることは忘れないでね」
「こ……交際。じゃ、ないし……」
「じゃ何なのよ?」
そう聞かれても説明なんかできない。りりんからのお誘いで、デートみたいなことまでやっているのだ。でも、アイドルタレントと高校休学中のガラス職人見習いなんて絶対つり合わないとも思っている。
それに、俺はりりんを守り切ることができなかった。逆にりりんに助けられてしまったのだ。
エリカの視線に圧倒されて身動きも取れなくなっていると、俺はふと何か違和感を感じた。
『……何だ』
違和感ではあるけど、俺はこれを知っている。知っているけど、でも普通じゃないもの。
「ダンジョンだ」
意識していないのにポロっと口から出た。
「は?」
エリカが怒った顔のまま聞き返した。
「ダンジョンの……においだ」
土のかび臭さともドブ臭さとも違う、独特のにおいがダンジョンにはある。普通の人は気がつかなくても、ほとんど毎日ダンジョンに出入りしていたら嫌でも覚える。俺はあたりを見回して、微かな風に乗って漂ってくるにおいの元を目で探した。
ごちゃごちゃお店がひしめいているから、いくら見たってわからない。俺は路地の奥に向かって歩き出した。エリカも黙ってついてくる。
「ここかな?」
廃業してしまったのだろうか。ドアにも看板にも店の名前がない、スナックなのかバーと呼ぶのか、とにかくここにみっしり並んでいる似たような店の一軒だ。ここでダンジョンのにおいが濃厚になる。
「逮捕されたうちの誰かが、バーの空き店舗でキノコエキスを手に入れたと自白しているの。ここ、怪しいわね」
「どうするの?」
「まず、ここから離れる」
エリカはゴールデン街の路地を出て通りを渡り、階段を上った。上ったところに鳥居がある。
「ここは
大きな神社だった。お
「ここは
そう言ってエリカはうっすら笑みを浮かべて頭の上を指した。
「え?」
最初は何だかわからなかった。一歩さがって見ると、屋根を支えている梁の上に黒い木でできたバカでかい男性のアレが乗っている。
「あーあ、カップルでお参りしちゃった。これからホテル行く? 向こうにいっぱいあるよ」
「や、めろよ……」
俺は動悸がして、体中が熱くなってしまった。エリカが言うと冗談に聞こえない。
「冗談だ。未成年男子なんか相手にしたらあたしが犯罪者になる」
境内の隅っこでグーグルマップを開いて、さっきの「あやしい店」の場所を確かめた。
「こんな場所でダンジョンねぇ……」
エリカが難しい顔でスマホの画面を睨む。
「ここ…地下って、何かあるの?」
「地下街はない、地下鉄の駅は離れてるし……」
ゴールデン街の周りはビルだらけだ。俺が今まで入ったことがあるダンジョンは、どこも公園だったり山の中だったりで建物からは離れていた。どうしてこんなビルの谷間にダンジョンができるのだろう。
「これは……ちょっと調べてからじゃないと無理ね」
正面からあの店に入ったら、いきなりヤバいやつらとご対面してしまうかも知れない。町田の方正大学にあったダンジョンのように、どこかにもうひとつ出入りできる場所がなかったら無理だ。
「よし。今日はここまでだな……お昼行こう。何食べたい?」
俺が決めかねていると、エリカはバーガーキングの看板に目をとめて俺を引っ張って行った。
頼むメニューで迷っていると、勝手に『オニオンリングワイルドBBQワッパーセット』を頼まれてしまった。そして自分はBBQレタスバーガーとコーヒーだけだ。
どうやらエリカは食事よりもパソコンを使える場所が重要だったようで、テーブル席を確保するとすぐにパソコンを開いて何かを始めた。
険しい顔で、話しかけても無視されるか怒られる雰囲気だったので、俺は黙って二人分のハンバーガーを受け取ってきて勝手に食べた。
「何だよ……これ……」
包み紙を剥いて俺は思わず声が出た。エリカがパソコンに目を向けたまま口の端でニヤッと笑った。わざと一番凶悪なのを選んだに違いない。
オニオンって言うくらいで、大きなオニオンリングフライとぶ厚いパティが2枚もはさまっている。
「逆さまに持ったほうが食べやすいのよ」
エリカのアドバイスに従って、超ぶ厚いのを崩壊させないように慎重に包み紙を開けてハンバーガーを逆さにした。確かに、かぶりついても崩れない。
「アンキョか!」
突然エリカが大きな声を出したので、俺は口いっぱいのハンバーガーを噴きそうになった。
「あんわを?」
「口の中のモノ、ちゃんと飲み込んでから喋れ」
エリカはパソコンの画面を俺に向けた。何か図面のようなものが映っている。
「
「それが……」
俺はコーラでハンバーガーを無理やり飲み込んだ。
「何なの?」
「本当にあそこにダンジョンが存在しているなら、その暗渠がダンジョン化した可能性がある」