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第六章 第4話「Sprinter of Fearless」

 ダンジョン化したかも知れない歌舞伎町の暗渠は、建設局の河川課ではなく下水道局に問い合わせてやっと正体がわかった。かつて「蟹川」という生活用水や農業用水に使われていた川の名残だと言う。

「文京区関口の、首都高速早稲田ランプのあたりで神田川に注いでいる出口がありますよ」

 経路図を閲覧しにきたエリカに下水道局の職員が教えてくれたが、そこから歌舞伎町まで歩いて行けるかどうかはわからないと言う。

「歌舞伎町のあたりで、暗渠のマンホールを開けてもらうことはできますか? 中を調べたいのですが」

 そう聞いたエリカに職員はちょっと困った様子で聞き返した。

「暗渠を調べる目的は何ですか?」

「あの付近の暗渠で、違法な薬物原料が栽培されている疑いがあります」

 エリカは『関東甲信厚生局特別捜査官』の身分証明書を見せて説明した。だが作業を行わない調査だけでも下水道暗渠等使用許可申請を出して許可を貰わなくてはいけないらしい。

 エリカは早くもうんざりしながら、申請様式の書類を貰って引き上げるしかなかった。


 空吹硝子工房では、何だかわからないうちに見習い職人みたいなものを抱え込むことになってしまった。

 森元彩乃ちゃんがスライムガラスの製造を体験したいと、毎日亀戸から電車を乗り継いでほぼ1時間かけて通ってくるのだ。

 もともと家業のガラス工芸に興味を持っていたそうだけど、もしこっちで本格的に仕事をしたいと言いだしたら森元さんはどうするのだろう。

 ともかく俺は彩乃ちゃんが使う分のスライム粉を採るために、2日続けて西3丁目公園ダンジョンに入らなくてはならなかった。

 ダンジョンに入る人間が減ったせいなのか、エリア8あたりでもまたスライムが出るようになったのがありがたい。

「もしこっちで仕事することになったら、彩乃ちゃんも連れてくることになるのかな……」

 俺はスライム粉を掃き集めながら独り言をつぶやいた。

 もし彩乃ちゃんが本気でスライムガラスの職人を目指すなんてことになったら、材料調達から全部一人でできるようになる必要がある。でも彩乃ちゃんがモンスターガラス化のスキルを手に入れられるとは限らない。

「前ほど危険じゃないけど、やっぱ危ないよな……」

 一度見ただけだが、ここにはすごく大きなモンスターもいるのだ。対抗できるスキルがなければ命にもかかわる。

 俺は重くなったカートを曳いて本ルートに戻った。更新されたダンジョンマスターには、いま俺が歩いている行き止まりの横道が表示されている。凄いことに電波が来ないのに現在位置まで表示されている。歩数計とリンクして予想位置を表示しているのだ。

「確かに凄いことだけど。ここまでやる必要ってあるのかな?」

 ダンジョンの中には今まであったDQの通信ケーブルと電源を通す鞘管のほかに、もう一本太いケーブルが増えていた。新しいドローンが入って、更新マップ用のデータを取っているらしい。もうダンジョンじゃなくて鉱山か工事中のトンネルみたいだ。

「今度の機械は、行き止まりから何から全部マップに表示できるんだってよ」

 スライム粉を乗せたカートを曳いて出ると、杉村のおっちゃんが話しかけてきた。

「ああ……見た。エリア13に行くショートカットも出てた」

 これまでダンジョンスターは行き止まりやループになる脇道なんかは表示しないで、間違いのないルートだけを案内していた。

 それが更新されて、エリア15までは通ることができる全部の通路が表示される。そのうちエリカが言っていた3Dマップになるのだろう。

「いまダンジョンスターで一番奥が25だろ? 今月中にその奥まで行くんだってよ」

 前に大型のモンスターが一度だけ出現したのだが、あいつはその後どうしたのだろう。退治されたなんて話しは聞いていない。

 重いカートを引いて工房に戻る。スライム粉をふるいにかけてゴミを取り除き、水洗いしてできるだけ不純物を取り除く。今はぜんぶ彩乃ちゃんと二人での作業だ。

「あの……正式に、弟子に、なれたら。ダンジョンにも、連れて行って、もらえますか?」

 彩乃ちゃんが、俺が心配していたことを言いだした。

「え? 何で……ダンジョン、まで?」

 妹の珪子と同じ中2の女の子がダンジョンに興味を持つなんてあり得ないけど、本気で職人を目指しているからそんな言葉が出るのだろう。

「父は……あの。工芸の、ガラスは、作る土地の、風土だって。言ってました」

 動かない口を、むりに動かして喋っているような感じだった。普段からこれで背はものすごく大きいのだから、学校ではいじめの対象になっているのかも知れない。俺はそんなことも考えてしまった。

「だから。ダンジョンの……ダンジョンで。とれた、材料で、作るガラス。だから、それを、作るのには、ダンジョンのこと。知っておくのが、いいって……」

 その考えかたは、俺も何となく納得はできた。でも彩乃ちゃんが、ダンジョンは危険であることを全く知らないこともわかった。

「この砂は、歩いて10分ぐらいの公園にあるダンジョンから採ってくるんだ」

 俺は洗ったスライム粉を乾燥用のさらし布に移しながら話した。

「前はかなり危険な場所で、探検に入って死んだ人が何人もいる……俺の親父も」

 彩乃ちゃんがこわばった表情でかすかに頷いた。

「スライム……どんな物だか知ってる?」

「いいえ……」

「ほとんど透明な、ゼリーみたいなものがダンジョンの壁や地面にはりついているんだ。うっかりそいつに触ると皮膚にくっついて、だんだん体を溶かす。危険なものなんだ」

 彩乃ちゃんが、手にしたスライム粉を気味悪そうに見た。

「俺がハンマーで叩くとスライムがガラスみたいに固まって、もう一度叩くと粉々に砕ける。それがその粉」

「どうして、ガラスに?」

「それが、ダンジョンに入った人間に出てくるスキルって特殊能力」

「私にも、出ますか?」

「彩乃ちゃんがお父さんと来たときに話したけど。スキルが身についたかどうかは、本人にもわからないんだ。その人が得意だったことなんかが特殊能力になるみたいだけど……何か得意なこと、ある?」

 彩乃ちゃんは自信なさそうに首を振った。

「スキルがないと、いざってときにダンジョンで危険に対応できないかも」

「こんにちはー!」

 工房の引き戸が開く音と一緒に、聞き慣れた元気な声が飛び込んできた。りりんだ。

「圭太さーん! 聞いてー!」

 と言ったところでりりんが固まった。しゃがみこんで何かをやっている俺と、俺にほとんどくっついているような彩乃ちゃんに気がついたのだ。

「彩乃さんって言って。親父の、友達の娘さん。いまガラス職人の体験で来てるんだ」

 俺は立ち上がって、手についたスライム粉を叩き落としながら言った。彩乃ちゃんも立ち上がってりりんに頭を下げた。

 りりんがさらに固まった。彩乃ちゃんは中学2年だけど、りりんより頭ひとつ背が高いのだ。

「あ……蟹沢って、いいます」

 りりんが本名の方を名乗った。

「どうしたの?」

 ぎこちない様子のりりんに聞いた。

「あ……えーと。お邪魔じゃ、ない……ですか?」

「まだ砂洗ってるところだから、大丈夫」

 りりんが時々彩乃ちゃんをチラ見しながら、リュックから封筒を引き出した。それから取り出したのは薄い大きな本。

「あたしの……歌」

「え?」

 りりんが開いて見せてくれたのは、本じゃなくてカバーがかかった楽譜だった。『Sprint of Fearless(恐れ知らずの疾り屋)』とタイトルが書いてある。

「契約……今日だったんです! もう、新しい歌、できてて……」

 『どっ』とりりんの目から涙があふれ出してきた。

「圭太、さんに……最初に、しらせよ、って……」

 俺はやっと理解できた。前に聞いた何かのテレビコマーシャルの契約が今日あって、そのための曲がもう用意されていたのだ。

「あ……もしかして。これ、初めての。りりんの、歌?」

 りりんが涙をまき散らしながら何度も頷いた。楡坂46を卒業したあと、りりんは自分の持ち歌がなかった。だから歌手じゃなくてバラエティータレントとしか扱われなかったのだ。

「おめでとう。これで、歌手?」

「まだ……これから、レッスン受けてからです」

 りりんがぐじゅぐじゅな声で言いながら、ハンカチで顔を拭った。

「下読みしただけで……まだ、あんまり頭に入ってなくて、ホントはダメなんですけど。いま、あたし、勝手に。練習でちょっとだけ歌います。いちばん最初に、圭太さんに、聞いて欲しいから」

 りりんが呼吸を整えた。

「たとえ明日が見えなくって、涙がこみあげるときも、アイアムジャストフェアレスハァート、ちっかっらの、限りはっしーりーだっすーっ!」

 さっきまで泣き顔だったりりんが、まだ涙を浮かべたままの笑顔でガッツポーズを見せた。

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