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第六章 第5話「闇の水音」

 コンクリート製の大きな蓋が引き上げられて、まず最初に下水道局の職員が長いチューブを中に下ろして何かをやっていた。

 前にエリカとゴールデン街を見に来てからもう10日経っていた。許可が出るまでやたらに時間がかかったとエリカがぼやいていたけど、下水道局のバンにはガスマスクやボンベまでが物々しく積み込まれていた。それでこんなに時間がかかったらしい。

「硫化水素の濃度を測っています。10ppm以上だと換気しながらじゃないと入れません」

 局の人が説明してくれた。俺とエリカは薄っぺらい使い捨ての白いツナギと東京都のマークがついたヘルメットをかぶって、測定が終わるのをじっと待った。

「0. 1ですー」

 引き上げたチューブの先についていた何かを見た人が声を上げた。

「けっこう臭いますけど、安全です。私が先に降ります」

 マンホールから見える「アンキョ」は結構深くて、底には水の反射が見える。

「どうぞー」

 下から声が響いてきた。エリカがヘルメットに取り付けたライトを点けてハシゴを下りていく。マンホールの下にエリカの姿が見えなくなってから、俺も慎重にハシゴを下りた。背負ったハンマーがハシゴにあたって、かん高い音が出てしまった。

「新宿駅は、あっち?」

「そうです」

 下水道局の人とエリカと俺は、1センチぐらいの水がたまっているアンキョの中を歩き始めた。ライトに浮かび上がるアンキョの床も壁も、コンクリートじゃなくて大きな石を並べたものだ。かなり古いものらしい。

「100メートル、それくらいで何かあるかも知れません」

「何が……あるんですか?」

 エリカの言葉に、下水道局の人が不安そうに聞き返す。

「行ってみないとわかりません。そのためにダンボのスイーパーに来てもらっています」

 エリカが言った。俺のことだ。17歳で高校休学中だってことまでは当然言わない。

「50歩」

 しばらく歩いて、俺はエリカに声をかけた。ダンジョンの中を歩くときはだいたい1歩が60センチ、だから30メートル進んだことになる。

「ちょっと、止まって」

 さらに40歩進んだとき、俺は先頭を行く下水道局の人に声をかけた。

「壁がおかしい。先頭代わります」

「危険かも知れません、彼に行かせてください」

 エリカも異常を察知したのだろう、そう言ってくれた。元がその色だったのかはわからないけど、ここまでは黒っぽかった壁の石が気味の悪い深緑色に変わっているのだ。そして足元の水におかしな物が流れてくる。

「う……」

 壁と地面の間で見つけた物体に、俺は思わず声を漏らした。赤い触手のようなものが固まってウネウネとうごめいている。

「何だこれ?」

 今にも触手が延びてきて、足に絡みついてきそうで近寄れなかった。

「あれは。とんでもなく大きいけど、形状はイトミミズですね。ダンゴになってます」

 下水道局の人が言った。

「普通……どんな大きさなんですか?」

「単体は2センチから3センチ……大きくても5センチですねー」

 ワームじゃなくてイトミミズなら危険はないだろうけど、このアンキョがダンジョン化しているのは間違いなくなった。

 ほかにも巨大イトミミズの固まりはあっちこっちにあって、俺はすぐに慣れたけどエリカはそうは行かなかったらしい。イトミミズからできるだけ離れて歩こうとしている。

「そこ、壁の光ってるの。スライムですから触らないでください」

 アンキョの中はいよいよダンジョンらしくなってきた。

「エリカ……少し先、何か変なものがある」

「なに?」

「左の壁に……どう見ても作った物、箱かな? 積んだみたいなもの」

 エリカが俺の横に出てきた。エリカが近くにいると、香水で下水のニオイが少しだけましになる。

「ビンゴかなー。先のほうにイトミミズかスライム見える?」

「ここからだとよく見えないけど、イトミミズはいない」

「オッケー」

 エリカはヘッドライトを消して、手持ちのキーホルダーみたいなマグライトを点けた。

「これから行きますよって、教えてやることはないからね。二人ともライトは消して、音は出さないようについてきて」

 ちょっと心配だけど、エリカに任せる以外なかった。

「あ……」

 少し進んで行って、俺はまた変な物に気がついた。積んである石の壁、その隙間に鉄の杭が打ち込まれている。これと同じものを、俺はどこかで見たことを思い出した。

「エリカ」

「声出すな!」

 エリカが立ち止まって小声で言った。俺は黙って石の隙間に突き刺さっている杭を刺した。

「なに?」

「これ……西3の、24のホールで見なかった?」

 エリカが振り返って、杭を照らして顔を近づけた。

「うん。何か……似てる。何でここに?」

 そのとき俺はもうひとつ思い出した。エリカと入ったときには、この杭はホールの壁にも天井にもたくさん打ち込まれていた。なのに、そのあとりりんと入った時に杭は一本もなくなっていた。

 俺はそれをエリカに説明した。

「何でりりんと?」

 エリカが突っ込んだのはそこだった。

「あの、頼まれて……あの。日影沢で、スライム溶かした声、もう一度確かめたいからって」

 俺はおろおろしながら説明した。

「あんな時間に?」

「りりんの仕事……押して……でも、何で知ってるの?」

「牧原雅道の家から出てきた怪しい3人組を尾行していったら、西3に入って行ったのよ。杉村さんが止めようとして机ひっくり返されたの、そこで入場名簿見たらあんたの名前があった」

 俺は耳の中で「ざーっ」と血の気が引く音がした、ような気がした。もしかして、りりんに庇われたところをエリカに見られてしまったのだろうか。

「エリカも、入った?」

「中に何もないのは知ってるから、外で出てくるの待ってたわよ……いまそんな話ししてる場合じゃないから、行きましょう」

『ぷいっ』とエリカは俺に背を向けて歩き出した、「そんな話し」を始めたのはエリカの方だ。俺はため息をつきたくなるのを我慢してついて行く。

 向こうに見えていた『作ったもの』は、まさに100均で売っていそうなプラスチックの組み立て棚だった。そこに100均で売っていそうなプラコンテナがいくつも並んでいる。

 プラコンテナの上はガーゼで覆われていて、中がどうなっているのかよく見えない。エリカがプラコンテナのガーゼを引き剥がすと、中にはヒョロヒョロした白っぽいキノコが生えていた。

「やっぱり……キノコね」

 エリカが言った。

「それが、ダンジョンマッシュルーム?」

「そう」

 エリカが、壁沿いに並んでいる棚の間に視線を向けていた。そこの壁には、ようやく人が通れるくらいの穴があった。積んだ石を外して作ったのだろう。

「暗渠がダンジョンになった……それを知ってここに穴開けたなんてこと、考えにくいわよね」

 エリカが独り言のようにつぶやいた。

「この暗渠、定期的に清掃や点検はするんですか?」

 エリカに聞かれて下水道局に人はすぐ首を振った。

「水があふれたりとか、特に問題が起こらない限りは何もしないと思います。特にこの暗渠は使われていないに等しいものですし」

 誰も知らないアンキョがダンジョンになっても、当然誰も気がつかないだろう。

「って、ことは……」

 何だか、解ったようなわからないような状態で俺はつぶやいた。

「ダンジョンを作った……とも、考えられるわね」

 エリカが言った。

「作ったって……どうやって?」

「こいつ、かも知れないわね」

 エリカが、石の隙間に打ち込まれた杭を指先で突きながら言う。

「24のあのホールで、あんたも見たでしょ?」

 俺は頼りない記憶をたどって、何とか思い出した。エリア24の、行き止まりだったホール。壁に打ち込まれたこの鉄の杭がダンジョンの壁を溶かすみたいに拡げていた。あの杭がここの壁に打ち込まれているとしたら……。

「ここで待っていてください」

 そう言ってエリカは石を取りのけた穴に入ろうとしていた。

「ちょっ……」

 エリカはちょっと俺を振り返って、唇の前に指を立てて見せた。

「中見たらすぐ戻ってくるから」

 囁くような声で言うと、エリカはまっ黒い隙間の中に姿を消した。


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