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第七章 第6話「撤退」

「うわ! 馬鹿デカ蜘蛛か?」

 有藤さんが言ったけど、そいつはクモじゃなかった。どうやら足は4本だ。それに、虫みたいに素早くは動けないらしい。

「キノコを食ってやがる」

 有藤さんがスマホで写真を撮りながら呻いた。

 そいつはボンボン投げつけられる物を無視して、気味悪く長い手でプランターからキノコをむしり取って黒い毛で覆われた頭に運んでいる。確かにキノコを食べているようだ。

 ダンジョン出入り口の反対側にあったシャッターがいやな音を立てながら開き始めた。その向こうに何人も待ち構えているようだ、足が見える。

「隠れろ!」

 有藤さんに続いて、俺と牧原雅道は壁際の棚の後ろに身を隠した。シャッターの隙間から漏れてくる光が目に痛い。気味の悪い呻き声、馬鹿デカ蜘蛛みたいなアイツも光には弱いらしい。

 シャッターが半分くらい開いた。長い棒を持った奴らが5人くらい、シャッターを潜って入ってくる。そして何か声を掛け合いながら、馬鹿デカ蜘蛛みたいなあいつが潜んでいる棚の隙間に慎重に近づいていく。

「今だ。とっとと逃げるぞ、そのカートは捨てろ」

 俺たちは体を屈めて壁の際を走って、シャッターの隅から外に出た。

「やっぱり。ここ、お寺の墓地だ」

 高い塀の向こうを、電車が走っている音が聞こえた。

「やったぜ。パスルート制覇じゃねーか」

 でも安心するのはまだ早かった。栽培場からはまだ怒声と悲鳴が響いてくる、この混乱が続いているうちにお寺の敷地から脱出しなくてはいけなかった。

 お寺の門に向かって走り出したとたん、脇の建物からメガネを掛けた太った男が出てきた。俺たちを指さして何だかわからない言葉でわめいている。

「逃げろ!」

 本堂の横にある建物からも人が出てきた。門は扉が閉まっていたけど、横の小さなくぐり戸は中から開けることができた。通りに出ると右は中央線の陸橋、左の交差点の向こうは諏訪ノ森公園だ。

「公園に!」

 俺たちは必死のダッシュで逃げようとした。公園の中は樹や植え込みがあるから隠れる場所もある。後ろを振り返ると、やっぱり門から何人も人が出てきて追ってくる。牧原雅道がモタモタしていて、これじゃすぐに追いつかれて捕まる。

「雅道! 死ぬ気で走れ!」

 そのときリムジンみたいな黒い車がすーっと俺たちの横を通り過ぎて、交差点の向こうで止まった。俺たちが必死で公園に駆け込んだとき、男が車から降りてきて入口を塞ぐように立ち止まった。

「有藤さん! あれ!」

 お寺から俺たちを追いかけてきた3人が、車から降りてきた一人ともみ合っている。そのうちに3人が次々と崩れ落ちるようにして倒れた。

「何かわからないけど、いまのうちだ!」

「あっちに! まっすぐ行けば大きい通りに出る!」

 牧原雅道だけじゃなく俺も体力が終わりかけていたけど、公園を南から北に抜けて立川南通りに出た。

「あんた、金持ってるか?」

 有藤さんが牧原雅道に訊くと、済まなそうに首を振った。

「スマホも、全部取られた」

「それじゃクレカでタクシー乗っていくしかねーぞ。後で取り立てるからな……おっ?」

 さっきの、リムジンみたいな黒い車がまたやって来て俺たちの前で停まった。後ろのドアが開いて、中から出てきたのはさっきの男じゃなくてハイヒールをはいた脚だった。

「おーっと! 今度は何だぁ?」

 有藤さんが声を上げた。

 ちょっと視線を外すのが惜しいくらいの凄い美脚に続いて、タイトスカートのスーツを着た美女が車から降りてきた。もう俺の乏しい表現力じゃムリな美人で、有藤さんも牧原雅道も固まっている。

「工藤明日香と申します。皆さま方は、先ほど高琳寺こうりんじから出ていらしたようですが。間違いありませんか?」

 その美脚の美人がうっすら笑みを浮かべながらそう言った。

「はい……あっ」

 うっかり俺は答えてしまい、有藤さんに足を蹴られた。

「確かに。ダンジョンを探査しているうちにあそこに出ちまったんだが、あんたはお寺の関係者かい?」

 無愛想な有藤さんの返事にも、美脚の工藤明日香さんは表情を変えなかった。

「いいえ、私は高琳寺を調べている会社の者です」

 髪をアップにして、まるでどこかの秘書みたいな工藤明日香さんは相変わらずうっすら微笑んでいる。仕事用の表情なのかも知れないけど、この笑顔で質問されたら俺なら何でも喋ってしまいそうだ。

探偵社たんていしゃ興信所こうしんじょか? それにしては豪華な社用車だな」

「そっちの関係ではありません。あの……失礼ですが。そちらは、もしかして牧原雅道さまではありませんか?」

「はあ……」

 牧原雅道が気の抜けた返事をしたけど、有藤さんは蹴飛ばさなかった。

「ご一緒に、ダンジョンに入られたのですか?」

「俺たちとご一緒にダンジョンから出てきたが、事情は説明できない」

 牧原雅道の代わりに有藤さんが答えた。

「そうですか。牧原様はかなりお加減がよろしくないようですが。これからどちらへ?」

「こいつはお加減も悪けりゃ頭も悪い上に現在訳アリの身でね、もう家に帰そうとしていたところだよ」

「タクシー代も、あっ……」

 俺はまた余計なことを口走って、また有藤さんに足を蹴られた。

「お困りでしたら、牧原様を送ってさし上げることができますが」

 そう言った工藤さんの目に、俺は何か嫌なものを感じた。

「おい、この美人が豪華な車で送ってさしあげるだとよ。俺たちは電車で帰るぞ、お前はどーすんだ?」

「あ、ああ……」

 牧原雅道が虚ろな目で俺たちと工藤さんを交互に見た。

「それでしたら、牧原さま。どうぞ」

 工藤さんが車の後ろドアを開けて妖しく微笑んだ。その笑顔にも何だか嫌なものを感じて、俺は有藤さんに囁いた。

「いいんですか?」

「ほっとけ」

 有藤さんは冷たく答えた。牧原雅道は危なっかしい足取りで車に乗り込む。後ろの座席はほとんど応接室のソファみたいで、でかい車なのに後ろは二人しか乗れないらしい。

「それでは、牧原さまをご自宅まで送り届けさせていただきます」

 ドアを閉めて、工藤さんは笑顔を浮かべながら俺たちに深くお辞儀をした。

「何だったんですか……今の」

 牧原雅道を乗せた車をボケッと見送りながら、俺は有藤さんにきいてみた。ぜんぜん訳がわからない。

「あれはメルセデスのマイバッハ62ってケッタクソ悪い車でな。新車で4千か5千万するヤツだ」

 凄いけど、俺が知りたいのはそんなことじゃなかった。

「こんな状態であんなモノが出てくるのをヤバいと思わないんじゃ、あのバカはもう救いようがないな」

 有藤さんは手を上げて、走って来たタクシーを止めた。やっぱりあの美脚美人も豪華な車も『ヤバイもの』なのだ。

「そんなハンマー担いで電車は乗れないぞ。送ってやる……あ、杉村さんとこで出場アウトやっといてくれ。それから、カート取りに戻ったりするなよ」

「はい」

 カートがなくなるのは困るけど、それよりダンボから預かったボディバッグはどうしたらいいのだろう。なくしたと説明して、杉村のおっちゃんが納得してくれるだろうか。そして俺はもうひとつ面倒なことを思い出した。

「あの。牧原理恵子さんには……何て?」

「ああ……そうか」

 有藤さんはタクシーのシートに座って、天井を見上げてため息をついた。

「俺が電話して、説明しておく。ダンジョンから救出したのは確かだからな」

「すいません……」

 スマホを出しながら、有藤さんは意地悪そうなうすら笑いを浮かべた。

「まあ……理恵子さんも、甥っ子のことを心配している場合じゃなくなるかも知れないけどな」

「どうしてですか?」

「もしかするとだけどな、状況次第で伯母さんの足元にも火がつくかも知れない」

「火、って……何ですか?」

「コトの起こりはあの人だからな。甥っ子のやったことから飛び火ってこともある」

 もしかするとりりんが関係していることかも知れないけど、有藤さんはそれ以上説明してくれなかった。

「お寺のことも車のことも忘れろ。誰に聞かれても喋るなよ」


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