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第七章 第7話「エリカ誘拐」

 牧原雅道はバスローブ姿でベッドに横たわり、半ば夢心地で快感の余韻にひたっていた。ダンジョンの地中地獄から高級マンションのベッドルーム。しかも美女のフルサービス付と、今度はまるで天国だった。

 ドアが控えめにノックされた。雅道が物憂ものうい声で返事をすると、再びきっちりとスーツを着直した工藤明日香がワゴンを押して入ってきた。

 さっきまでたっぷりとその体を堪能していたのに、早くも雅道はむらむらと興奮が頭をもたげてきた。

「お待たせしました。お飲み物はいかがなさいますか? シャンパンをお持ちいたしましたけど、コーヒーもございますが」

 不自然なまでに至れり尽くせりすぎるサービスだった。しかし元々生活のほとんど全てを誰かにサービスさせていた上に、ここまで過酷の上に過酷が積み上がったストレスで雅道は正常な判断ができなくなっていた。

「ああ……それじゃ、シャンパン貰おうかな」

 国際線のファーストクラス以上のサービスを無料で受けているのだが、それもおかしいとは思っていない。

「簡単なものしかご用意できませんでした。いま新しいお召し物も用意いたしますね、それからご自宅まで送らせていただきます」

「ありがとう」

 雅道はベッドに腰掛けたまま、フルートグラスにガストンコラールブランのシャンパンを注がれた。

「これは、なに?」

 小さなパンの上に白いクリームであえたエビと、たぶんキャビアが盛ってある。

「トーストスカーゲン。スエーデンのオープンサンドです」

「へえ……ねえ、君も一緒にどう?」

 雅道はそう言ってベッドの脇に手を置いた。だが工藤明日香はにっこり笑って首を左右に振った。

「そのようなサービスは先ほどで終了です。今はコンシェルジュに戻りました」

 雅道はフルートグラスを口に当てながらちょっと考えた。

「コンシェルジュってことは……総合案内?」

「そんなところです」

「何かを調べる会社って、言ってたけど……本業は何なの?」

「いろいろですよ」

 工藤明日香は胸のポケットから名刺入れを取り出し、一枚抜き出してワゴンの端に置いた。

「大鳳ホールディングスグループ……株式会社THO企画? これ……芸能事務所じゃなかった?」

「はい。イベント企画と、芸能事務所もやってます」

「ちょ……ちょっと待ってよ、まずいよ。これ」

 雅道はフルートグラスと「トースト何とか」を持ったまま憮然とした顔になった。

「何がです?」

「枕営業じゃないの?」

「そんなことありませんよ。雅道さまは現在芸能活動を絶賛自粛中じゃありませんか? この先どうなるか判らないタレント様に枕かける事務所なんてありません」

 痛いところを衝かれて、雅道はさらに憮然とした表情でシャンパンを飲み干した。

「それじゃ、これは何なの?」

「渡りを付けた……と言うのが一番近いかもです」 

 工藤明日香が相変わらずの笑顔で、雅道のグラスにシャンパンを注ぐ。

「事務所の指示?」

「いいえ、私は広く個人裁量権を認められています。ですからこれは、あくまで私個人でやったことです」

「この……マンションと、あのマイバッハは?」

「事務所と言うより本部のものですが、私が自由に使って良いことになっています。シャンパンは経費で落ちますからご心配なく。それより……」

 工藤明日香は優雅な手つきで雅道にスマホを差し出した。

「そろそろ、弁護士さんに無事をお知らせになった方がよろしいのではありませんか?」


 直径5センチくらいの、丸いスライムガラスの薄板だった。厚さは2ミリか3ミリか、面も縁もきれいに整っている。薄いけど、ガラス越しの景色はちゃんとウネウネ歪んで動く。

「どうでしょうか?」

 彩乃ちゃんが俺にきいた。

「うん……」

 正直、どう返事したらいいのか俺にはわからない。夏休みで彩乃ちゃんがほぼ毎日のように研修に来るので『何か作ってごらん』と言ったら、4日でこれを作ったのだ。ガラス職人の娘だから、やっぱり扱い方は心得ているようだ。

「うわー、キレイー!」

 珪子が声を上げる。普段はおとなしいのに、彩乃ちゃんがいると何だかテンションが高くなる。

「きれいにできたね、でも……何に使ったらいいかな?」

「メガネのレンズにしたら……気持ち悪いですよね」

 こんなメガネかけて歩いたら、きっと酔う。

「ペンダントのヘッドにしたら?」

「ああ……」

 珪子が言うと、彩乃ちゃんが声を上げた。

「浅草橋だったら。これ、はめこむ金具。売ってます」

 彩乃ちゃんが俺に話す言葉は少しだけ普通になってきた。もの凄い緊張症で、知らない人とは口をきけないそうだ。でも珪子とだったらほとんど普通に会話ができている。

 俺が丸ガラスを透かして使い途を考えていると、珪子が腕を引っ張った。

「お兄ちゃん。彩乃ちゃんと一緒に浅草橋行ってくる」

「え? ペンダントの、金具買いに?」

「うん」

「そんなの、高いだろ?」

「プラとか鉄のだったらきっと何百円だって」

 ちょっと遠いけど、考えてみたら彩乃ちゃんは毎日その先から通ってきているのだ。慣れているだろう。

 二人が出て行くと工房の中はやっと静かになって、開け放った窓からセミの声と南武線の電車の音が入ってくる。

「また、スライム狩り行かないと……」

 内装用のスライムガラスを発注するから準備をするように、設計事務所からメールがあった。今度は千枚単位で必要になるらしい。もう取りかかっておいた方がいいかも知れない。

高琳寺こうりんじから入れたら楽なんだけどな……」

 西3丁目公園から入るより、高琳寺まで行ってダンジョンに入った方が絶対早いしスライムの数も多いのだ。でもそれにはマッシュルームを違法栽培している連中がいなくならないとムリだ。

「そう言えば……牧原雅道、どうなったんだ?」

 有藤さんと一緒にダンジョンで発見して高琳寺から脱出して、それから牧原雅道だけヤバイ美脚美人と一緒に車でどこかへ行った。それから一週間経ったけどニュースにもなっていない、なったのかも知れないけど俺は見ていない。高琳寺のこともどうなったのか。

「キノコのことだからエリカの管轄なんだけど……」

 そのことは誰にも喋るなと、有藤さんには口止めされている。

「ちょっと……見てこようかな」

 カートを取りに行くなとは言われたけど、お寺に近寄るなとは言われていない。

 高琳寺までは歩いて30分くらい、自転車だったらたぶん10分かからない。母がパートから帰ってくるまでまだ3時間、珪子たちは4時頃には帰って来るだろうから時間はある。

 俺はスマホと財布だけ持って工房に鍵をかけ、自転車で高琳寺へ向かった。

 たった10分だけど、諏訪ノ森公園が見えてきたときには俺は汗びっしょりになっていた。去年もだったけど、今年はやけに暑い。きっとダンジョンの中は涼しいだろう。

 公園の隣にある諏訪神社の駐輪場に入ろうとして道路を横切ると、何だか様子がおかしかった。

「あ……もしかして?」

 お寺の前の道路、警察が通行止めにしている。向かいの歩道に人がたまっていて、報道のカメラが何台もいる。お寺が家宅捜索されているらしい。急いで神社に自転車を置いて、走って戻った。

「立ち止まらないで!」

 警察官が歩道を埋めている野次馬を誘導しているけどあまり効果はない。銀色の貴台のトラックがお寺の前に停まっていて、「警視庁」と大きく書かれた段ボールが次々と運び出されて積み込まれていく。

 それをぼーっと眺めていると、『こつん』と後頭部を叩かれた。

「こら。未成年者が見ていいものじゃないぞ」

 今日は、脚も見えていない地味な服を着たエリカだった。

「あ……やっぱり?」

「また活躍したじゃない」

「……知ってたんだ」

「中の写真つけて通報してきた人がいた」

 きっと有藤さんだ。

「結局。牧原なんとかって人、どうなったの?」

「知らないよ」

 そのとき、俺は野次馬の中に気になる女性が気になった。脚にぴったりしたジーンズにハイヒール、黒くてふわっとした薄い上着。

「エリカ」

「ん?」

「テレビの、カメラの向こう。黒い上着の女。あれ、牧原雅道を連れて行った女だ」

 エリカがほんの少し顔を動かして、スマホを取り出してそっちを撮影した。

「これ? この黒いの?」

 半分人の間に隠れているけど、スマホの画面で横顔は見えていた。

「そう。工藤明日香って言ってた」

「自分で名乗ったの? こいつ」

「そう」

「ふーん……そっち見ないで! 知らんぷりしてなさい」

 エリカはスマホを耳に当てて、どこかと話した。

「どこの何者なんだか、調べて見る価値はあるね」

 少しして、工藤明日香が陸橋の方に向かって歩いて行く。

「そのうち、またメシ奢るから」

 エリカは工藤明日香を尾行するらしい、少し間をおいて動き始めた。

ここにいてもこれ以上見るモノはなさそうなので、俺もエリカの邪魔をしないように気をつけながら陸橋の近くまで行ってみた。

 工藤明日香は陸橋の向こうにあるコインパーキングに入って行く。エリカは陸橋の向こうで立ち止まって、スマホを使っている。

 ついてきたことに気付かれると後でエリカに怒られるので、俺は陸橋の手前でフェンスに隠れて様子を見ていた。

 少しして、ベンツのマークが付いたワンボックスみたいなのが駐車場から出てこっちに来る。交差点で止まったと思ったら、一瞬だった。後ろのドアが開いて、中から男が腕を伸ばしてエリカを車に引きずり込んだ。

「あっ!」

 俺が声を出した時にはもうドアが閉まって、ベンツのワンボックスは何事もなかったみたいにウインカーを出して交差点を曲がった。ほんの1秒か2秒のことで、たぶん俺以外は誰も気付いていないだろう。

「やばい! どう、しよう……」


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