走った。こんな死に物狂いで走ったのは初めてかも知れない。前にダンジョンの中で『馬鹿デカ
神社の駐輪場で自転車の鍵を外しながら『あれ? 俺いま通行止めのとこ走った?』と気がついたくらいだ。それで今度は確信犯でお巡りさんの横から突入して、自転車で通行止めの中を突破した。
陸橋を渡った線路沿いの道路、ベンツのワンボックスはまだいた。中央橋の信号で止まっている、追いつく寸前に信号が青になってベンツが動き出した。
「くそっ!」
でも交差点が混んでいて曲がったところで止まった、そこの通りが渋滞しているのだ。報道のバンやハイヤーが路駐していて、この付近だけノロノロになっている。
「どうするか……」
ワンボックスの横に行ってドアを開けようとしたってムリだろう、ロックされているに決まっている。ハンマーがあれば窓を叩き割ってやるのだけど、俺はダンジョンの外ではぜんぜん無力だった。
思いついたのは助けを呼ぶことぐらいだった。ベンツが渋滞で動かないのを見て、俺は有藤さんに電話してみた。
「有藤さん、空吹です」
『おう。何だ?
「御崎エリカさんが
『ああ? 何でそうなる。今どこだ?』
「あの、
『まずいな……そいつはまずい』
ベンツがノロノロ動き出した。
『そこらにお巡りさんいないか?』
俺はあわてて周りを見回した。でもそれらしい姿は見えない。
「いません!」
有藤さんのため息のようなものが聞こえた。
『それじゃ、非常手段だ。事故起こせ』
「え?」
『交通事故起こせば動けなくなるだろ』
「どうやって?」
『お前がベンツにぶつかるんだ』
「はあ?」
『できる手段はそれしかない。ケガしないように、でも派手にやれ』
「そんな無茶な……」
『あとはナンバー覚えて通報するしかないけど、たぶん間に合わない』
ベンツがだんだん離れていく。そしてエリカを助けるチャンスはどんどん失われて行く。
「やります!」
『不自然だろうが何だろうが、とにかく車を足止めして警察を呼ぶんだ』
「わかりました!」
俺は自転車をこぎ出してベンツを追い抜いて、先の交差点で待ち構えた。直前に飛び出して、自転車を捨てる気でベンツにぶつかる。うまいい具合にベンツが先頭で赤信号につかまった。
「よし……」
念のために『出かけていて遅くなるかも知れない』と、珪子にメールを送っておいた。歩行者信号が点滅して、赤になって、ベンツが動き始めた。
「おらあ!」
俺は気合いを入れてペダルを踏んで、横断歩道に飛び出した。クラクション。ベンツの直前でわざと倒れてやった。急ブレーキの音。俺は道路の上で転がって、対向車線の手前で腹ばいになった。
「おい! なにやってる!」
ベンツの運転手が降りてきて怒鳴った。ベンツは自転車の手前で止まっていて、俺が勝手に転んだだけだった。でもベンツを止めることには成功した。俺は跳ね起きて、走ってベンツの後ろドアを開けた。
「ちょっと! なにするの!」
工藤明日香が叫んだ。エリカ、縛られて床に転がされている。思わず俺はベンツの中に入って、エリカを引っ張り出そうとした。
「エリカ! あ……」
叫んだときにドアが閉まった。運転手が俺の自転車を歩道に放り投げて、ベンツがまた走り出す。
「やべえ……」
これじゃダメだった。ケガをしたふりをして、お巡りさんと救急車を呼ばなくてはいけなかったのだ。
「あなた……前にも会ったわね」
工藤明日香が笑顔で言った。ベンツの後ろにはもう一人男が乗っていて、そいつが俺に向かって拳を突き出してくるのが見えた。
背中と頭に衝撃、それで俺は気がついた。地面に投げ出されたらしい。
(う……)
声が出なかった。口を塞がれている。懐中電灯らしい光が動く。
「ちょっと。何なのよ、ここは!」
エリカの声。
「ダンジョンですよ。立川のあそこに比べると小さいですけど」
工藤明日香の声、どんなときでも変わらない。あの声と笑顔のままで、平気で人も殺せるのかも知れない。
「ここでどうしようって言うの? あの男の子は関係ないでしょ。出してやって!」
「いーえ、関係大ありです。あの子、この間お寺のダンジョンから出てきましたから。それであなたを乗せたとたんに自転車で突っ込んできたのよ。御崎さんのこと知ってるし」
「偶然でしょ?」
「そうかしら。偶然かどうか、聞いてみましょうか?」
「やめなさい!」
「ちょうどそこにスライムがいるから、彼をスライムに食べさせてみましょうか? ダメって言うなら、御崎さん。あなたが説明して」
男の靴が近づいてきて、俺を壁に押しつけた。『べちゃっ』と、後ろ手に縛られた手と背中に冷たい物がくっつく。スライムだ。
「やめて! 彼はダンジョンの案内人よ! 何度か西3丁目公園の中を案内してもらっただけよ!」
「そうなの? それだけで、あんな危ないことしてあなたを助けようとしたの?」
布が裂ける音、エリカの悲鳴。
「身元がわかるようなもの、全部取っちゃって」
エリカの抗議と罵り声、またエリカは剥かれているのか。俺は縛られた手でスライムを掴んで力をこめた、スライム粉を素手でガラスの針に変えたのだ。その逆だってできるはずだ。手の中で、スライムが固いガラスに変わった感触があった。
『よし……』
慎重に、スライムを指先でつまんで引き延ばす。見えないからうまくできるかどうか。
「あたしと彼に、何の恨みがあるのよ!」
「恨みはないけど、あなたが邪魔だって思っている人は多いようですよ」
「ううっ……」
尖ったスライムガラスが手首に刺さって、俺は思わず呻き声を上げてしまった。
「あら……彼、スライムに食われ始めたみたいよ」
「やめて! お願い、やめて!」
エリカの姿が見えた。下着姿に剥かれて、手首と足首をガムテープで縛られている。
『また……エリカをあんなにしやがって……』
俺の腹の中で、黒い怒りが塊になった。俺の手首に刺さったぐらいだから、スライムは使える形になったようだ。尖ったスライムガラスが『ぶつん』とガムテープに突き刺さる感触があった。
「高琳寺の件、マトリはどうして嗅ぎつけたの?」
「知らないわよ! あたし見たいな下っ端の派遣に聞かないで!」
エリカのわめき声で、ガムテープの裂ける音がかき消された。工藤明日香と男が二人、みんなエリカを見ている。
「あなた、どこにでも現れるって話しじゃない。知ってること全部吐きなさい!」
「うう……」
俺は苦しそうに声を上げてもがいた。膝を屈めて足首に手が届くようにした。
「ほら。彼、かなり苦しんでいるわよ。早く吐いて、楽にさせてあげたら?」
こいつらは俺とエリカをここに放置して、スライムのエサにするつもりだ。俺は手の中のスライムガラスで足首のガムテープを突き破った。そして一気に引きちぎって立ち上がった。
「おい!」
と呼びかけようとしたけど、口が塞がったままなので声が出なかった。振り向いた男二人、そいつらの顔面にスライムをすくって投げつけた。
「がっ!」
片方のスライムはガラスの塊になったけど、もう片方はスライムのままで男の顔面に貼り付いた。
「この野郎!」
ガラスのスライムを叩き落とした男が俺に向かってくる。しゃがみこんで、両手にスライムをすくって顔面にお見舞いしてやった。
「ぐぶおっ……」
顔をスライムに覆われて悶絶する二人、工藤明日香がそれを呆然と見下ろしている。俺は口を塞いでいるガムテープをそーっと剥がした。
「悪いが……俺は、ダンジョンの中じゃ無敵なんだ」
工藤明日香をエリカみたいに剥いてやりたいところだったけど、このままだと顔をスライムで覆われている男二人が窒息して死ぬ。
「ウソでしょ? どうやって……」
俺はもがきながらスライムを剥がそうと無駄な努力をしている男に近づいて、胸の真ん中を蹴りつけて仰向けにひっくり返した。こうでもしないと手がスライムガラスに埋まって面倒なことになる。
スライムの上から、額のあたりを指先で弾いた。『チリチリチリ……』とかすかな音をたててスライムがガラス化していく。
八割がたガラス化したところで、力をこめて額の方から一気にスライムを引っぺがす。アゴの方から剥がすと、ヘタすると鼻の穴が裂ける。
「ぎゃあっ!」
男が悲鳴を上げて、顔を覆ってのたうち回った。眉毛もまつげも全部抜けたに違いない。もう一人の男も同じ目に遭わせて、俺はちょっとだけ鬱憤が晴れた。
「残ったベタベタはアルコールで洗うんだ……それから、スマホとか返してくれ」
工藤明日香から俺とエリカのスマホや財布を取り返して、出口まで案内させた。
「ここ、どこのダンジョンよ?」
エリカが不機嫌そのものな声で聞いた。
「調布の下石原」
エリカに負けず劣らず不機嫌な声で工藤明日香が答えた。どこの駅からも遠い上に奥の方が水没しているらしいので、誰も来ないダンジョンだと聞いたことがある。入口の近くには不法投棄されたゴミが積み重なっているから、噂は本当なのだろう。
「エリカ、これからどうする?」
小声で聞くと、エリカは険しい表情で首を振った。
「逮捕監禁罪になるけど、ここで逮捕なんかできない。どっか行ってもらうしかないわ」
連中には退去してもらって、俺たちは誰かに迎えに来てもらうしかないようだ。
「高琳寺は、あんたらのショバだったの?」
エリカが聞くと、工藤明日香がちょっと振り向いた。
「無関係よ。あの寺は外国がらみの不動産業者が乗っ取ったのよ」
「ダンジョンがあったから、なのか?」
「たぶん、そうね」
石とゴミだらけの地面で、ハイヒールの工藤明日香は歩きにくそうにしていた。
「ダンジョンマッシュルームは東南アジアで需要が多いけど、規制が厳しいらしいわ。栽培以前に、ダンジョンに立ち入ること自体が難しいそうよ。それで、ある程度自由に入れる日本が目をつけられた」
「あんたらのライバルってわけ?」
「さあ?」
振り返った工藤明日香の顔に、あの笑顔が戻っていた。
ベンツのテールランプが見えなくなるのを確かめて、俺は有藤さんに電話を入れた。
『おいっ! 今まで何やってた!』
当然だけど怒られた、経緯を説明したらもっと怒られた。やらかしたことの間抜けさ加減に、自分でも腹が立ってしまった。
とりあえず有藤さんが車で迎えに来てくれるとことになったので、俺とエリカはゴミがない奧の方で待つことにした。
「また借りが増えたわね」
スマホのぼんやりとした明かりの中で、引き裂かれたシャツの胸元を押さえながらエリカが言った。
「なんか……一緒にダンジョン入ると、そのたびエリカのそんな格好見てないか?」
俺が言うと、エリカがうっすら笑った。
「まだ声、怒ってるね。体の中煮立ってる?」
またエリカをこんなにされたのと。美脚の美女の正体を知ってしまったことで、俺の腹の中にはまだ怒りがモヤモヤ澱んでいた。
「もう気合い入れなくていいから……それとも、あたしでスッキリする?」
「え?」
「基本、ダンジョンの中は法律が及ばない。ここだったら何しても大丈夫だよ」
「え? あ……いや……」
エリカが何を言っているのかようやくわかった。それはわかったけど、俺はどうしたらいいのか。
「あんたさえよければ、借りはあたしの体で返す」
「あ……いや……そんな……」
と言いながら、俺の体はちゃんと反応していた。心臓が爆発しそうになって、血液が下半身に集中してきた。
「パートナーは今まで通りで、あんたのオンナにしてもいいよ」
俺が欲望に負ける前に、早く有藤さんが来てくれないか、俺はそればかり考えていた。