立川駅の改札前でエリカと待ち合わせた。先月、桐島志保さんからメールでお誘いを受けた『誰か』と会うのだ。迎えの車が立川まで来てくれる。
「上着、見つかったんだ」
「うん……」
上着と言っても、高校の制服だったブレザーだ。ネクタイはなくてもいいけど必ず白のシャツは着てくるように言われた。ジーンズもダメだと言うので、結局上下とも高校の制服だった。エリカもスーツだけど、いつものミニスカじゃなくてスカート丈は膝下だ。
一瞬目が合うと、エリカが何となくそわそわした様子で目をそらす。俺も胸の中にもやもやした感情が湧いてきて、何となく恥ずかしくなってうっすら顔が熱くなった。
(何で……)
きっとこのあいだ、調布のダンジョンの中でエリカが「あんたのオンナにしてもいい」なんて言ったからだ。あのときエリカは冗談で言っている雰囲気じゃなかった。
何だか気まずいような雰囲気で一緒に駅を出て、南口のデッキでモノレールの立川南駅へ向かう。モノレールには乗らないで、そのまま地上へ降りた。
「今日、どこに行くんだ?」
「知らないわよ。ラフな格好はNGだって言うから、高級なホテルとかじゃないの?」
それで今日はエリカの化粧もちょっと大人しめなのだろうか。
約束の時間より少し早く、俺たちの前に黒塗りのミニバンが止まった。ドアにタクシー会社のマークが入っている。
「おはようございーす!」
助手席から桐島志保さんが降りてきて、俺とエリカに挨拶した。今日はエリカより桐島さんの方がスカートは短い。
「今日はよろしくお願いいたします」
ドライバーがわざわざ降りてきて、後ろのスライドドアを開けてくれた。中の座席は車のシートと言うよりソファーみたいだ。俺とエリカはその一番良いシートで、桐島さんは一番後ろの座席に移った。
「高速を使いますから、シートベルトお願いしますね」
「桐島さん。どこ、行くんですか?」
エリカが後ろを振り返って聞いた。
「日本橋です。今日はそこのサロンでお話をしていただきます。ご挨拶していただいたらすぐ昼食で、ダンジョンについてのお話はその後です」
『サロン』がどんな物なのか、ヘアサロンとは別物だということくらいしか俺には想像ができなかった。
「で……そんな場所に招待していただいた方って、どなた?」
「私の祖父です。どうか、固くならないで気楽に話してください。あ……」
そこで桐島さんがちょっと口をつぐんで考えた。
「あのー。祖父は……会社の、会長なのですけど。お二人とは、何者でもない一人の人間として会って、ダンジョンのことを聞きたいと言っています」
「だったら、ドトールとかでもよかったんじゃないの?」
「私もそう思います」
エリカも桐島さんも笑っているけど、俺は今から緊張しまくりで笑えなかった。
「
桐島さんに聞かれて、エリカがちょっと困った顔になった。
「厚生局ではそっちのことは判らないし、
「納骨堂の資金繰りに苦しんでるお寺につけ込んで、お寺の敷地を切り売りさせてお金を持ち逃げして。それを取り返すって、また別の人間がつけ込んで。結局ぜんぶ乗っ取られちゃったんですね?」
桐島さんが悲しそうに首を振りながら言った。
「手が込んでますよね……もしかすると納骨堂の話しから、もう狙われていたのかも」
俺には難しすぎて理解できないので、窓の外を流れる景色を眺めていた。車は、むかし一度だけ親父に連れて来られた府中競馬場の横を通り過ぎていた。
車が高速道路から出て交差点を渡るとき、ちらっと東京駅の八重洲口が見えた。日本橋高島屋が見えて、車はその隣にあるタワーの地下駐車場に入った。
「お疲れさまです。到着しました」
デパートとは別の入口から9階に上がって、何か一人ずつカードを受け取って駅の自動改札みたいなところから32階への直通エレベーターに乗った。
「今のうちに、上着着て」
エリカに言われて、俺はずっと脇に抱えていたブレザーに袖を通した。シワになっているけどもうどうにもならない。32階でエレべーターから出て、桐島さんが受付で手続きをしている間にエリカに聞いてみた。
「何て読むの?」
受付の女性の後ろ。控えめなロゴと文字だけど、英語じゃなかった。
「トルーテ・ドール。ゴールデントラウトのフランス語」
「トラ?」
「トラウト、
案内の女性について、受付横の自動ドアから奧へ入った。
「う……」
俺は思わず呻いてしまった、そこは美術館か何かのような場所だった。だだっ広い、西3丁目公園の半分くらいありそうなホールで、グランドピアノなんかも置いてある。
「浅田様はあちらでお待ちです。どうぞ」
案内の女性はそう言って歩き出したけど、俺はそこでそのまま立ちすくんでいた。はっきり言って俺は場違いすぎて、もう帰りたかった。
「何やってるの。こっち」
エリカに声をかけられて、俺はようやくぎくしゃく歩き出す。
「エリカは。こんなとこ、来たこと。ある?」
「ない。そこらのホテルなんか比較にもならないわ」
グランドピアノの向こうには、ビルの32階なのに大きな樹が生えた広い庭が見えている。庭を見渡す大きな窓の前に長いソファが置かれていて、案内の女性はソファに座っている人に小声で何か伝えた。
「ああ、ありがとう」
ソファーから立ち上がった男性。きっちりスーツを着ているけど、かなりの年じゃないかと思った。
「御崎エリカさんと、空吹圭太君だね。私は浅田と言う者だ。こんなところまで呼び出してしまって、済まなかった」
『浅田功徳』と、名前だけが書かれた名刺を受け取った。エリカは名刺を持っているけど、俺は当然そんなもの持っていない。
「すみません……」
浅田さんは笑って手を振った。
「空吹君はまだ17歳で、本来ならまだ高校に通っているはずだね? なら名刺など持っていなくて当然だ」
浅田さんはエリカの名刺に目をやった。
「厚生労働省関東地方厚生局特別捜査官……特別捜査官とは。警察の場合、民間人を起用して警察官の権限を持たせたことになるが。厚労省もそうなのかね?」
エリカが硬い笑顔を見せた。
「私の場合。若干、込み入った事情がありまして……詳しくお話はできませんが、正規の捜査官が民間人になって職務をそのまま遂行するという、非常にイレギュラーな身です」
「そうか……桐島志保とは、何度か会っているんだね?」
「はい。ダンジョンに関することで、何度か」
「愛宕稲荷神社の巫女で、文科省の新型災害研究班参事官補で私の個人秘書も務める忙しい身だ」
浅田さんがそう言うと、桐島さんがちょっとこわばった笑みを浮かべた。
「え? 巫女……さん?」
「はい。それが元々の仕事です」
思わずそう口にした俺に、桐島さんはあの「普通の笑顔」を向けてくれた。
(同じようでいて……やっぱり違う)
桐島さんの笑顔と比べると、工藤明日香の笑顔は作られたアンドロイドのように思えた。あの女の裏面を見てしまったからかも知れないけど。
「普段はランチでもシャンパンが出るのだが、今日は未成年者がいるからペリエで我慢してもらうよ」
銀座を見下ろすレストランの席で浅田さんが言った。
「ここの料理は帝国ホテルのシェフが来て作っているんだ」
アートのように、大きな皿にちょこんと盛られた『何か』。
「アミューズブーシュの、根セロリとフォアグラのセージクリームです」
ウエイターが説明してくれたけど、何が何だかわからなかった。桐島さんとエリカはナイフとフォークをちゃんと使っているけど、浅田さんはフォークしか使わない。
「空吹君。ミシュランのマナーガイドにも、必要がなければフォークだけ使っても構わないと書いてあるんだ」
そう言ってくれたので、俺はフォークだけで『根セロリの何か』を切って口に運んだ。フォアグラなんて初めて食べたけど、緊張してるから味なんかわからない。
料理は四皿出たけど、どれも味なんか覚えていなかった。デザートの甘さだけが口に残っていた。
「下の会議室は殺風景でいかん。そこ、使えないのか?」
食事が終わると、浅田さんが人を呼んで何か相談していた。少しして、浅田さんと俺たちはレストランの隣にある半分仕切られた部屋に案内された。
「また、わがままを……」
桐島さんが言うと、浅田さんは笑って手を振った。
「5億も預けてあるんだ。好きなように使わせて貰う」
「5億?」
俺は思わず口に出してしまい、浅田さんが笑った。
「人にもよるが。最低1億円を、ここを運営している証券会社に預託する。それが会員になるための条件なんだ。会員は食事も酒も、ここの設備は全て無料で使える」
道理で何もかも豪華なはずだ。りりんだってこんなところに来たことはないだろう、とんでもない世界だった。
小さなお菓子と、ドリンクが運ばれてきた。俺とエリカはそれぞれ自分たちがダンジョンで経験したことを浅田さんに話した。脇で桐島さんが音声を記録して、浅田さんは俺たちの話を真剣に聞いてくれた。
「御崎さん、空吹くん……ダンジョン博士と呼ばれる大学教授のことは、知っているかね?」
俺たちの話が終わると、浅田さんがアイスティーを一口飲んでから言った。
「以前にウェブの会議でお話させていただいたことがあります。空吹君にもマナエネルギーの説明で真柴教授のことを話したことがあります」
エリカが答えると、浅田さんは小さく頷いた。
「真柴教授の説によると、ダンジョンと言うのは地球の病気のようなものだそうだ」
いきなり、とんでもない話しが出てきた。俺は自分の話が終わってちょっと気が抜けていたけど、また緊張することになった。
「空吹君の地元、立川のダンジョンは武蔵野台地だ。大泉学園ダンジョンもそうだ、世田谷の豪徳寺ダンジョンは目黒大地……ほとんどのダンジョンは東京西部の台地に発生している。不思議だと思わないかね?」
「あ……はい。下町の方、ダンジョンって聞いたことがありません」
俺が答えると浅田さんが頷いた。
「地盤……ですか?」
エリカの質問にも、浅田さんは頷いた。
「そうだ。千代田区の、皇居から海の方は埋め立て地だ。日比谷などは江戸時代に埋め立てられている。江東区・墨田区・台東区もそうだ……江東区など、半分くらいはゴミで埋め立ててできた土地だ」
そんな土地の、地面も壁も天井も全部ゴミのダンジョンなんて絶対入りたくない。
「その、強固な地盤をダンジョンが食い荒らしているのだよ。先週の時点で、日本国内には76ものダンジョンが発生している……人が入れないものなんかも数えてだが」
「そんなに……」
浅田さんがまた頷いた。
「アメリカ西海岸では、ダンジョンの崩壊による陥没が相次いで発生しているらしい。住宅地の何平方キロの地面がいきなり陥没するのだ。向こうはダンジョンの調査は行わず、ただ周囲を封鎖するだけなので何も有効な対策が打てないでいる」
「それが……日本でも?」
「起こらないとは、言えない」
エリカの質問に答えて、浅田さんはちょっと咳払いして続けた。
「だが日本では、外国に比べてダンジョンの広がるスピードは速くない。巨大な地下空間になるケースもほとんどない……なぜだか解るかね?」
「いえ……」
「日本では、ダンジョンに人が入っていくから……真柴教授はそう考えている」
「マナですね?」
そう言ったエリカに視線を向けて、浅田さんは大きく頷いた。
「そうだ……それで、御崎さんと空吹君にぜひ頼みたいことがある。できるできないは別にして、聞いてほしい」
俺は胸から首にかけて、何かで締めつけられているような気がした。5億円の昼メシ、もっと味わっておけばよかった。