朝6時半。工藤明日香はシャワールームから出て、バスローブのままでバリスタマシンのスイッチを入れた。自動で注ぎ出されるカフェラテの泡を見つめながら、
「あの女、取り逃がしたのだけは痛いわね……」
かねてから邪魔者であった御崎エリカを拉致できたのだが、思ってもみなかった妨害が入って排除には失敗してしまった。自転車で走ってきて車の前でわざと転んだ若い男、あまりにも無謀だったがエリカを助けようとしたのだろう。
「あの男は、どう見ても高校生ってところなのに……」
エリカと一緒に廃ダンジョンで片付けようとしたのだが、男はダンジョンの中で異様な力を発揮したのだ。ボディーガードの男二人が簡単に無力化されてしまった。
「ダンジョンってやっぱり恐ろしいわ」
砂糖の代わりにステビアを入れたカフェラテのカップを取り上げて、明日香は不機嫌そうにつぶやいた。見つめる壁にはテレビが6台取り付けてあって、それぞれ別の局で放送しているニュース番組が映っている。国内の4局にBBCとCNNだ。
「牧原理恵子のパワハラ疑惑なんて、何の価値があるのよ……」
明日香は忌々しそうに言った。さして重要でもないスキャンダルに群がる愚かなマスコミ、なのに本当に重要な出来事は伝えようとしない。
もっとも明日香のような社会の裏側で活動する人間には、それはそれで都合の良いことなのだが。
「牧原雅道と一緒に、理恵子も……いや。あれにそんな価値はないな……」
予想していたとおりに、牧原雅道は所属していた芸能プロダクションを解雇されて明日香に助けを求めてきた。
さらに牧原理恵子が信濃町の大学病院に入院してしまったので、恐らく孤立無援になったのだろう。この3日間毎日電話をよこしてくる。
海外に出張中の社長が戻りしだい面談をしてもらうことにしているのだが、何社もの社長を務める瀧山育人は芸能人との面談など時間のムダだと言うだろう。
カップを流しに片づけ、明日香は寝室に入って『出撃』の支度にかかる。リスシャルメルの下着をつけて顔に淡めのメイクを施す、育人は濃いメイクや強い香水を好まない。
スーツはごく普通に見えるが、レミューズのオーダー物だった。着ている物で不用意に人目を引くことは避けなくてはならない。それでもハイヒールだけは挑発的なデザインのクリスチャンルブタンを選んだ。
時間通りにマンションを出ると、車寄せにメルセデスマイバッハ62Sがやって来た。育人が使う2台のマイバッハが実質的な明日香の『事務所』だ。
マイバッハは首都高速道路を羽田空港へ向かい、明日香は第3ターミナルの到着ロビーでシンガポールから戻る瀧山育人を待った。
瀧山育人が乗り込むと、マイバッハの運転席と後座席を仕切るパテーションスクリーンが上がった。これで会話は運転手に聞こえなくなる。
「お寺の件、詳しく」
育人が言った。
「御崎エリカに私の顔は知られていないはずですが、高琳寺の前から尾行されました。尾行には気付かないふりをして車に引きこみました。少年が車の前でわざと転んで、エリカを助け出そうとしました」
「それが、牧原なんとかと一緒にお寺から出てきたの?」
「そうです。名前は聞いていませんが顔は覚えています。その後の行動からして、恐らくその少年がエリカに知らせたのだと思われます」
「危ないなぁー」
育人はそう言いながらペットボトルのキャップを開けた。
「御崎エリカはいいにしても、未成年を巻き込むのはまずいよ」
「あの状況では無視してその場に放置することもできません。車とは接触はしていませんが、警察が来ると一気に危険度が上がる状態でした」
「まあ……結局犠牲者が出なかったってことではよかったんだけど。偶然とは言え一番やっかいなのに目をつけられちゃったねぇ」
育人の言葉に、キーボードを操作していた明日香の指が一瞬痙攣した。
「明日香ちゃんは僕の裏面なんだからさぁ、あんまり派手に動かないで」
「はい……すみません……」
「歌舞伎町のアミューズメントは? 報告来てるでしょ?」
「はい。オープンして一週間で入場者は100組を超して1日あたり平均売り上げは60万円……これ、私の方に関係あるんですか?」
ダンジョン体験型アミューズメント施設なのだが、これは本来明日香が関わりを持たない『表』の商売だった。育人が言ったように、明日香は裏社会における育人の代理人なのだ。
「そのうち関係してくる。そこ、濱田が入ってるから。立川でも中古物件を確保して改装工事始まってるし、大宮にも出店を考えてるらしい」
そう聞かされて明日香はわずかに表情を曇らせた。ひとつの施設で表と裏の商売を同時に行うのは危険が大きすぎることだ。何かあれば大鳳アセットマネジメントにまで捜査の手が及びかねない。
「ここ……(関連)切れてるんですよね?」
「子会社経由で出資だけ」
明日香は小さくため息をついた。それであれば最悪でも出資した金が戻らないだけだ。
「ここで濱田が何を?」
「地下1階から4階までがダンジョン探検アミューズメントで、地下の2階と3階に本物のダンジョンを作ったんだって」
「……作る? そんなの、できるんですか?」
「この間濱田と電話で話したとき、歌舞伎町のゴールデン街で実験やってたんだ。あれが最後の実証実験で、予定していた量の出荷もできた」
「立川とかの……本物のダンジョンは、どう……」
「本物のダンジョンで栽培はもう限界だろうって。探検にくる奴が増えたからすぐ見つかるようになったし、見つかりにくい場所だと今度は運び出すのが大変なんだ。高琳寺の件で警察も警戒してるからね」
しかし歌舞伎町のど真ん中で、どうやって栽培したマッシュルームを運び出すのか。昼間は人も通らないゴールデン街でひっそりやるのとは違う、アミューズメントのビルはほぼ24時間人がひしめいている中にあるのだ。
「製品の搬出はどうやるのですか?」
マッシュルームであれば明日香の受け持ち案件である。知っておくべきことだった。
「施設の中で乾燥までやって、廃棄物に擬装してごみのパッカー車で運び出す」
それならダンジョンマッシュルームの体積も重量もぐっと減るし、毎日搬出しても不自然ではない。
「牧原雅道との面接、どうなさいます?」
「条件は?」
「借金が1千6百万、いま月々の返済が120万だそうです。基本給は150にして、あとは出来高でどうでしょう? 切羽詰まってるからそれでも食いつくと思います」
「出来高って、そいつ何か仕事できるの?」
「当分はむだ飯食いですね。ダンジョンアミューズメントの案内人でもやらせてみますか?」
明日香が答えると、育人は小さく首を振った。
「ぜんぶ任せる、1年経って使えなかったら放り出せ」
俺は半日かけてネットショップだかECショップだかの作り方を調べた。空吹硝子工芸のネットショップを開業しようと思ったのだが、開業届を出す必要があったり青色申告だったりものすごく面倒なことがわかった。
売りたいのはせいぜいペンダント10個くらいなのだ。無料でショップの出し方を指導くれるところもあるけど、もっと手軽にやりたかった。
「どうしたらいいかな……」
工房で『ダンジョンガラスペンダントあります』と張り紙をしても、そもそもここは人があまり通らない場所だから話にならない。立川駅のフリーマーケットは年に3回とか4回、昭和記念公園でものすごく人が来るフリマがあるけど、アンティークのショップが多いし出展料も高い。
困ってLINEでりりんに相談すると『メルカリで売ればいいですよ』と教えてくれた。商品の写真を撮って必要な欄に書き込みするだけらしい。
『5千円だったらお客さんの振込手数料は100円で、メルカリの手数料が500円だから定価で売りましょう』
試しに在庫だった8個を出品してみた。出品したら知らせろとりりんが言っていたので、LINEで教えた。
『楡坂のときの友達が欲しがってるから教えていい?』
と聞いてきた。別に構わないだろうと思ったけど、これが間違いだった。しばらくして『メルカリ売り切れ楡のみんな欲しいって言ってるからあと30個ぐらい作れますか?』と送ってきた。
「え? 」
プロフィールページを見ると、もう全部がSOLDになっていた。
『もしかしてなにかやった?』
『ごめんなさい。高街里奈ちゃんがツイとインスタに書いちゃった』
彼女のツイッターを見ると『輝沢りりんちゃんが記者会見のときにつけてたダンジョンガラスのペンダントメルカリでゲット!』とツイートしていた。インスタグラムにはペンダントの写真が入ったプロフィールページが映っている。
そして、メルカリの商品入荷希望リクエストには数字がどんどん増えていく。
「うそだろ……」
大変なことになった。