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第九章 第3話「こんなところで死にたくない……」

 音は何も聞こえなかった。でも投光器で照らされていた視界がどんどん黒く染まっていく。

「なんだこいつは!」

「知りません! 初めて見た!」

 レスキュー隊の誰かが俺に聞いたけど、俺だって知らないことはある。これまでダンジョンの中で飛ぶ虫に出くわしたことはなかった。

「うわあ!」

 誰かの悲鳴。襲ってくる黒いモノをハンマーで叩き落とそうとしたけど全然手応えがない、スカスカ空振りするばかりだ。こんな相手じゃハンマーは役に立たない。

「くそっ!」

 ハンマーを置いてやみくもに腕を振り回したら、軽い何かにぶつかる手ごたえ。そのうちに俺の顔に何かがひっついて視界が半分見えなくなった。

「うわあ!」

 思わず俺も情けない声を上げてしまった。顔にくっついたものを手で引き剝がすと「くしゃっ」と頼りない手ごたえがあって視界が戻った。手にした物を見てみると、何だか黒くてゴワゴワしたもの、でかくてへろへろした羽にでかい触覚細くて頼りない脚。

「うわ……気持ち悪りいー! 蛾か?」

 それにしては身が少ないし、飛び方も何だか頼りない。

「チョウバエだ! でかいけど、こいつはチョウバエだ!」

 誰かが叫んだ。

「チョウバエって、何ですか?」

「下水とか、汚れた水に湧いてくるコバエだ。こいつは光に集まってきているだけで、危険な虫じゃない」

 普通はそうなのだろう。だがここはダンジョンだ、とんでもなく危険な変異を起こしているかも知れない。

 でもそんなことをわざわざ確かめるような余裕なんかない、何しろこいつらは気持ち悪い。俺は走って投光器の明かりから外れた。

「スライム! いねーか!」

 わずかな明るさの中でスライムを探す、使えそうなのはそれくらいだ。土の中から湧き出しているスライムを見つけて俺は躊躇なく手を突っ込む。ヌルヌルのスライムをつかんで、指の隙間からあふれ出すようにしながら引き抜いた。

「うりゃあ!」

 気合を込めて腕を振るとスライムが細いガラスの糸になって伸びて、プツプツ切れる。俺はそのスライムのファイバーガラスを引っ張っりながらまた走った。

「みんな! 伏せてー!」

 俺が叫ぶと、訓練でやっているのかレスキュー隊のみんなが素早く地面に伏せた。

「おらあーっ!」

 俺は気合を込めて、上半身もひねって腕を振った。投光器の光で、ファイバーになったガラスがキラキラ輝きながら空中を切り裂く。ファイバーにあたった化け物チョウバエも片っ端からバラバラにちぎれて墜落する。

「おおーっ!」

 レスキュー隊員たちがヘルメットを押さえながら声を上げた。

「せぇぇーっ!」

 俺はちょっと得意になりながら、もう二回ファイバーで空中を薙ぎ払った。無限にいたんじゃないかと思ったチョウバエは、もう数えるくらいしか飛んでいない。

「すごいね、それもスキル?」

「そうです……」

 ガラスに覆われてしまった右手。俺はそれを慎重にハンマーに叩きつけながらレスキュー隊員に答えた。手袋をつけてこれができたら便利なのだが。

「でもここ……何なんでしょうか?」

 俺は、もう一度投光器で照らされた光景を見渡した。

「あれはビルなんかの基礎の、コンクリート杭だよ」

 レスキュー隊の一人が、並んでいる丸い柱を指して言った。

「……ってことは。ここ、何メートルなんですか?」

「立川はどこも地盤が固いからね、そんな何十メートルとかまで打たないはずだよ」

 浅いところにダンジョンがあったから、それで道路が陥没したのだ。

「それじゃ……」

 俺は言いかけて、あまりにも恐ろしい想像だったので言葉を飲み込んだ。

「これは市の建設指導課か工事課に見てもらったほうがいい、放っとくと危ない」

 やっぱりそうなのだ。西3丁目公園のあたりはほとんど住宅地で大きな建物はない。だから浅いところにダンジョンがあっても陥没とかは起こらない。でも立川駅の近くは、特に北側には大きなビルが並んでいる。

 伊勢丹や高島屋のあたりが陥没するなんて、恐ろしくて想像したくもない。

 それはとりあえず置いておいて、俺たちはできるだけ早く曙町一丁目交差点の現場にたどり着かなくてはいけないのだ。

 この広い場所へ出る前に中央線の下を潜ったみたいだから、曙町一丁目の交差点は左の方向になるはずだった。まあ、俺たちが真南から来ていたらの話しだけど。

 投光器で照らすと、俺たちが出てきた反対側の壁には見えるだけで3つの穴が見える。どれが当たりなのか、もしかすると全部『はずれ』かも知れない。とにかく、どれかを選ばないとガイドの役目は果たせない。

 一番右、穴の前に立つと何だか圧迫されるような感じがした。行き止まりの場所にたどり着く直前に感じるいやな気配だ。真ん中、特に何も感じない……いや、感じた。肌をサワサワ引っかくような感触。

『嫌なモノが、いる……』

 正解ルートかどうかはわからないけど、こっちには入りたくないと思った。

 最後、左。何かを感じる。俺は目を閉じて『何か』をはっきり感じ取ろうとした。

『風だ……』

 かすかな空気の動き。この穴は、この広い場所から奧へと空気を吸い込んでいる。たぶんダンジョンの外に通じているのだ。

「こっち、行きます!」

 俺はヘッドライトを点けて穴に足を踏み入れた。すぐにレスキュー隊が後ろから投光器で照らしてくれる。ホールみたいになったところの入口は狭いけど、先へ進むほど穴は広くなってきた。

 明るい光でよく見えるようになった地面や壁の表面が粗い、西3丁目公園あたりと比べると明らかだった。それにスライムもいない、ここはできてあまり時間が経っていないダンジョンなのだ。

「正解かも知れ……あ、くそっ……」

 二本目のミチイトがなくなった。520メートル来たことになる。俺はミチイトの空ロールを取っ手ごとダンジョンの壁に打ち込んで、リュックからプラスチックの捨てペグを出した。

 これは100均で4本のセットで売っている、すぐ折れるけどピンク色で目立つのから目印にはちょうどいい。それに安いから打ちっぱなしで捨てても惜しくない。

 分かれ道はないので捨てペグを打たずに進んで100歩、だいたい70メートルだ。念のために一本捨てペグを打っておこうと思って俺はペグを壁に突き刺した。

『ガツン』と固い手応えがあってペグが曲がった。固い砂礫の下に何かあるのだ。ペグをずらして突き立ててみたけど、どこも同じく固くて刺さらない。そのうちに砂と礫の層がバサッと崩れて落ちた。

「あ……」

 砂と礫の層が剥がれ落ちて、下から平らな岩盤が現れた。違う、岩じゃない。

「コンクリートだ」

「えっ?」

 レスキュー隊がざわめいた。

「きっと共同溝の躯体だ。近いぞ!」

 俄然、みんなに勢いがついた。ダンジョンはコンクリート壁に沿っていて少しずつ深くなって行く。やがて、共同溝の下を潜るっているところにたどり着いた。

「あっ!」

 最初に俺が気付いたのは、ガソリンの臭いだった。ヘッドライトで探っても見えなかったけど、レスキュー隊の投光器が来るとすぐにそれが目に入った。逆さまになっているグレーの自動車。

「救助作業、かかれ! 記録!」

 斎藤隊長のかけ声で隊員が走り出し、投光器がいくつも置かれた。車の中は何だかぐちゃぐちゃになっていて、人が乗っているかどうかもわからない。

「消防庁のレスキューです! 聞こえますか!」

 隊員が声をかけているから人が乗っているのだろう。俺はレスキュー隊の邪魔にならないように注意して、車が落ちてきた穴を見上げた。何だかいろいろガレキなんかが詰まっていて、隙間から何だかわからない液体が垂れ落ちている。

「なんか……恐いな……」

 俺がそうつぶやいた瞬間だった。

『ギギギギ……』

 頭の上から嫌なきしみ音が伝わってきた。逆さになっている車と穴との隙間から土やコンクリートのかけらがバラバラ落ちてきた。

「崩れるぞ! 離れろ!」

 レスキュー隊が慌てて車から離れる。俺もあわくってそこを離れた。

『バキバキバキ』

車が突き破ったコンクリートの縁が崩れ始める。

『やべえ……』

 この狭さで天井が落ちてきたら絶対に助からない。俺は壁に背中を押しつけて顔を覆った。

『これ……死ぬかも……』

 一瞬、女の声を聞いたような気がした。それはエリカなのかりりんなのか。


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