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第九章 第5話「セプテンバーブルー」

 9月になっていた。彩乃ちゃんは二学期から中学校にまた通うことになった、そのうち制服を着てここへ来るかも知れない。俺はひそかにそれを楽しみにしていた。身長170ある彩乃ちゃんの制服姿はどんななのか。

「マイスター。あたし、都立工芸高校受けてみます」

 明日から学校に復帰する期間弟子の最終日、彩乃ちゃんは俺にそう言った。水道橋にある都立の工芸高等学校でアートクラフトを学びたいと。やはり目標が見つかると意欲も生き方も変わるのだ。

「高校かぁ……」

 俺はスライムガラスの粉をかき混ぜながらつい口にした。親父が消息不明になって高校を休学して、何だかんだでもう10か月だ。通信制にしようとも考えてはいたけど、次から次に事件に巻き込まれてそれも実現していない。

「どーしよ……このままじゃ俺、中卒だぜ」

 それじゃあまりにも格好が悪い。なし崩しでこの工房を継いだとしても、今のままじゃ作れる売り物は知れている。ダンジョンのスライムだって無限に湧いて出るとは限らないのだ。

 調合したガラス粉を計ってるつぼに入れて、電気炉で融かす。こうやって手作業で一枚ずつスライムガラスを作っていく。これをあと何十年もずーっと続けていくのか。続けていけたらまだ良いけど、ある日突然買ってもらえなくなるかも知れない。

 考えれば考えるほど、俺の将来には不安ばっかりだ。

 タイマーが鳴った。オレンジ色に灼熱したるつぼを電気炉から取り出して、作業台の型枠に流す。オレンジ色のガラスが少しづつ暗い色になって縮み始める、そこをヘラで均一に伸ばして隅を叩いて整えて……突然俺は、ヘラもハンマーも投げ出したくなった。

「ホントに……これで、いいのかよ……」

 わめき出したくなったけど、わめいても暴れても何にもならない。何も変わらない。そしてハンマーを持った俺の手は、ちょっと止まっただけで自然にガラス叩きを再開していた。

「はあ……」

 うつむくと顔から汗がボタボタ落ちる。9月にはなったけどまだ気温は30度を越していて、窓を全部開けていても工房の中は40度だ。

「あ……」

 工房の窓を叩く音、顔を上げるとエリカが手を振っていた。

「なんか悩んでる様子だな」

 入って来て工房の椅子に勝手に腰を下ろす、そして一瞬で跳ねるみたいに立ち上がった。

「熱っつ!」

 エリカが立ち上がって腿の裏を手でさする。木のスツールだけど、思い切り工房の熱を吸っているから俺は座りたくない。

「熱中症になるよ!」

「慣れてる」

 今日のエリカはダメージデニムのショートパンツにふわふわのブラウスだ。ストッキングもはいていないから熱いスツールが腿にもろに触ったのだ。

「悩みが大きくて暑さも気にならないって? 危ないでしょ」

「悩みってほどじゃない」

 口ではそう言ったけど、実際のところは立派に悩んでいる。

「お弟子ちゃんの夏休みが終わったから、自分はどうしたらいいのかって考えた?」

 見抜かれていた。

「彩乃ちゃんは、都立の工芸高校受験するって」

「あら、目標が出来たのね。お師匠様の指導のおかげ?」

「自分がやりたかったことに気がついたんだと思う」

 俺はエリカと一緒に居間に入って、顔を洗って冷えた麦茶を出した。妹も学校なので、いま家には俺しかいない。

「あの陥没事故で、消防署からなんか出たの?」

 エリカに聞かれて俺は肩をすくめた。

「ダンボは感謝状を貰ったみたいだけど、俺はロスト人の捜索手間賃だけ」

「いくら?」

「2万5千円」

 エリカがため息をついて片手で顔を覆った。

「命かかった救助作業だってのに、そんな?」

「金のためにやったことじゃない」

 俺が言う、とエリカが指の隙間から厳しい眼で俺を見た。

「厨二ぶって格好つけてる場合じゃないでしょ、そんなじゃ今に生活が立ち行かなくなるよ」

「それはそうだけどさ……」

 俺は麦茶のコップを額にあてて少し額を冷ます、鼻に水が垂れてくる。

「ただ将来のこと悩んだって始まらないんだから、学校に戻るか仕事しながら通信制? あんたはまず高卒になるのが大事でしょ?」

「うん……」

 それはわかっている。わかってはいるけど、俺が高校を卒業したからと言って、この工房の将来がパーッと明るくなるわけじゃない。結局、ここの商売がなりたつかどうかはぜんぜんわからないのだ。

「無意味に悩むな、時間のムダだ」

 そこでエリカがテーブルに『ずいっ』と体を乗りだしてきた。胸が完全にテーブルに乗っている。『むっ』っと、香水なのか薄甘い香りが襲ってきた。

「それとも、あたしを抱いてみるか? あたしの中に悩みドバーっと吐き出せばスッキリするかもよ」

「やめろよ……」

 今は家に誰もいないのだ。エリカに本気で迫られたらどこまで耐えられるかわからない。

「なんか、話、あったんじゃないのか?」

 そう言うと、エリカはちょっとムッとした様子で座り直した。

「誘ったのにつれないやつだな。こーゆうの据え膳って言うんだぞ」

 エリカはショルダーの中から大きなビニールパウチを取り出した。中に入っているのはどこかで見たことがある鉄のタガネだ。

「それ……」

 俺が言いかけるとエリカが頷いた。

「西3から入ったときに拾ったのよ。それとたぶん、ゴールデン街の地下にもあったやつ」

「それが?」

「ダンジョン博士の真柴教授に調べてもらったの。そしたら、このタガネ? 恐らくマナエネルギーを帯びているそうよ」

 ダンジョンに入った人間にスキルを与えて、同時に地面の中で生きる虫をモンスターに変える謎のマナエネルギー。それがこのタガネに入っている? なんで?

「そこであんたに頼みがある」

 エリカが妖しい笑みを浮かべて言った。

「これと、これと同じ新品のタガネを持ってダンジョンに入る。なるべく深いところでダンジョンの壁にタガネを打ち込んで、何が起こるか見たいの」

 その案内と護衛と言うことなのだろう。

「いつ?」

「あんたの都合がいいとき、明日でも」

 あまり面白そうな仕事じゃないけど、工房で鬱々しているよりはマシだ。



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