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第十章 第10話「エリカ、発動する」

 駅に近いドラッグストアをりりんに教えてもらって、俺はお菓子と飲み物と替えの下着を買いに出た。まさか『お泊まり』になるなんて想像もしていなかったから、当然手ぶらだった。

 ドラッグストアのプリペイドカードと部屋の鍵まで渡されてしまったので、これじゃ逃げることもできない。

「でも……まあ、いいか……」

 りりんから離れて、俺はようやくパニックが鎮まってまともに物を考えることができるようになった。

「珪子に……何て、説明したらいいんだ?」

 贈呈式の会場には妹の珪子と弟子の彩乃も来ていて、俺がりりんと一緒に会場を出たのを知っている。りりんのところに泊まるなんて言ったらどんな反応をするだろう。それより、誰かにポロッと漏らされるのが恐い。

『りりんの引っ越し手伝って、ちょっと友達のところに寄る。そっちに泊めてもらうかも』

 自分でもかなり苦しい言い訳だと思いながら、珪子にメールを打った。りりんの部屋に戻ると、浴室ではシャワーの音がしていた。

 少しして、体にバスタオルを巻いたりりんがドアの隙間から顔を出した。

「もう少ししたらピザが来るから、受け取りお願いね。支払い終わってるから」

「うん……」

 今のはりりんの『スッピン』って状態なのだろうけど、りりんは元々あまり化粧をしていないのであまり変わらなく見えた。でも、タオル一枚の姿でせっかく鎮まっていた俺の心臓がまたバクバクし始めた。

「……落ち着け」

 俺は自分に言い聞かせた。

「どう考えても……あれ以上は、ムリ……」

 キス以上のことなんて恐くてできない。それ以前に、りりんの服を脱がせる途中で絶対に暴発してしまう。

 あれこれ想像しているだけで、またジーンズの中がきつくなってしまった。ピザのデリバリーが来たときには何だかホッとした。

 Mサイズのピザ2枚とチキンとポテト。男二人でも持て余しそうな気がするけど、りりんなら楽勝で平らげるだろう。

 ダボダボトレーナーでナマ脚が見えまくっているりりんが浴室から出てきた。

「圭太さんも、シャワー使う?」

「ピザ、冷めちゃうから。あとでいいよ」

 また床にぺたんと座って、並んでベッドにもたれかかってピザを食べた。

「こんな量で足りるの?」

「いっつもガッツリ食べてるわけじゃないよ」

 りりんはそう言うけど、この前の『チャ、りーんジ!』配信では府中ふちゅう市の食堂でご飯4合のカツカレーを完食していた。俺なんかその半分でもムリだ。

「圭太さんは……これから、どうするの?」

 いちばんかれたくないことだけど、りりんの彼氏になったからには答えなくちゃならない。

「工房は……続けなくちゃならない。弟子も、できちゃったし。いろいろ注文も来てるし……」

 りりんが宣伝してくれたおかげで、スライムガラスのペンダントは5百個も売れてまだ注文が来ている。彩乃にはいいお小遣だ。

「ガラスの職人でいいの? 圭太さんは?」

「ほかに、できることがないからね」

 だとしても、西三丁目公園のダンジョンがいつまでもあるとは限らない。あそこがなくなったら、どこか他のダンジョンに行ってスライムを狩ることになるのか。

「お袋も。工房は閉めてほしくないって、言ってる」

 りりんがじっと俺を見つめていた。

「職人じゃ、嫌?」

 そう聞くと、りりんは俺から目を逸らさないで小さく首を振った。

「あたしが何か言えることじゃないよ。圭太さんが……自分らしくいられる生き方してくれたら、それが一番いい」

 義兄に人生をねじ曲げられたりりんに言われるとなんだか重たい。

「いろいろ落ちついてきたから、通信制高校で授業受ける……それなら自分の稼ぎで学費を出せるし」

 りりんが、相変わらず俺を見つめながら小さく頷いた。

 浴室前の、洗濯機と洗面台の狭い隙間。服を脱ぐのはそこしかない。ちょっと腕を大きく動かせばどこかにぶつかる。俺は誘惑に負けて、そっと洗濯機の蓋を開けて中を覗いた。

 そこにあったのは、さっきまでりりんが身につけていた濃い青の下着とベージュのストッキング。心臓がドキドキして呼吸が苦しくなった。

「俺……何やってんだ?」

 『中身』がすぐそこにいて、ぜんぶOKと言ってくれているのに洗濯機の下着なんか覗いて興奮している。息を吐いて、またそっと蓋を閉めてシャワーを使いに浴室に入った。


 エリカと同僚が尾行と張り込みに使う車は、毎日違う色で車種も変えた。そして一週間かけて濱田の動きをすべて把握した。

伊勢原いせはらのダンジョンでタガネにマナ入れて、新宿と立川に持って行って……その繰り返しか」

 ずっとパートナーを組んでいる男性がぼやく。

「タガネを打ち込むだけで。本当に、地下室がダンジョンになるの?」

「なります」

 双眼鏡でダンジョンの入口を監視しながらエリカが答えた。

「新宿の、ゴールデン街の地下で実際にやっているのを見ました。そして歌舞伎町のダンジョンバトルフィールドの地下でもやっている可能性があります。いま大学の研究室でその分析をお願いしているところです」

「新宿と、立川か……」

 牧原雅道が陥没事故を起こさなければタガネが決定的に不足する事態にはならず、立川で計画されている人工ダンジョンでの違法マッシュルーム製造も露見が遅れたかも知れない。

「だが、今のところ違法な行為は何もないよ。どうやって詰める?」

 その質問に、エリカは自信ありげな笑みを浮かべた。

「向こうに、いつの間にか巻き込まれてしまった人間がいて。逃げたがっているようなんです。間に連絡を取ってくれる人がいるので、そっちから何かできないかやってみます」

「何か、危なそうだなー」

「前にも何度か会ったことがある人間ですから、その点は大丈夫だと思います」

 その夜。牧原雅道と有藤肇はまた四谷荒木町のバルで飲んでいた。しばらくして、有藤が雅道に目くばせをした。雅道がスツールを降りてトイレに立つ。

「お久しぶり、牧原さん。立川の陥没事故以来ね」

 トイレの手前で、倉庫のドアが細く開いていて、そこから女の声が雅道を呼び止めた。

「あ……マトリって。あんた、御崎……エリカ、か?」

「はい。こんな風に会うことになるとは思いませんでしたわ……またなにか、お困りと聞きましたけど」

「『また』は……」

 雅道は一瞬普通の声を出して、あわてて声を潜めた。

「また、は。余計だろ」

「厚生局に、どんなご用ですか?」

 エリカの声がかすかに笑いを含んでいた。雅道は工藤明日香にめられて、ダンジョンでのマッシュルーム違法栽培に加担させられたことをエリカに話した。

「芸能事務所所属だったのに、ダンジョンで作業させられた……と言うことですか?」

「そうだ。ダンジョンバトルフィールドって、体験型のゲーム施設でガイドをやってもらうから、できるだけ本物のダンジョンを経験しろって言われた」

「危ない経験だけは、山ほどなさいましたね」

 エリカの声がはっきり笑いを含んでいた。

「笑い事じゃ……」

 思わず雅道は普通の声を出してしまい、あわてて口をつぐんだ。

「いま現在、立川のダンジョンバトルフィールドで開業準備のテストをなさっていると伺いましたが。間違いありませんか?」

「そうだ。週に4日は行って、何回も回って不具合を探す仕事だ」

「そこの、地下に入ることはできますか?」

 不意にエリカの声が低くなった。

「スタートが地下1階だよ」

「もっと下です。地下2階とか3階、見てくることはできませんか?」

「地下駐車場の、もっと下か?」

「そこでダンジョンマッシュルームを作っている疑いがあります。入って、できれば写真を撮ってきてくださると、工藤明日香の組織を潰すきっかけになります」

「まてよ、それって……危険、だろ?」

「牧原さまは今でも充分危険な立場ですよ。協力者になれば、関東厚生局の保護を受けられます」

 雅道はしばらく黙って、やがて言った。

「わかった。やってみる」

「連絡は有藤さん経由で……焦らずに、機会を見て動いてください」


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