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第十一章 第9話「バブルタイム」

 俺は何気ない様子で、内心は物凄~くビビりながらゆっくり立ち上がった。

「おい。こっち来い!」

 濱田の声。でも俺は濱田の方を振り返らないでまっすぐ壁に向かって歩き出した。

「おい、どこ行く! 聞こえねーのか!」

 俺は壁に取り付けられているパイプに気が付いていた。正確に言うとパイプの途中についている赤いプラスチックの箱だ。『消火装置手動起動弁』と書いてあった。

「おい! 誰か、そいつ捕まえろ!」

 濱田の声。俺は走って赤い箱にとりついた。『カバーごとレバーを引いてください』と書いてある。赤くて透明なプラスチックケースの中に、確かにレバーハンドルが見えている。両手で箱をつかんで、思い切り手前に引いた。

「何する気だ! やめろ!」

 バキン! と音がしてケースが割れて、俺はさらに力を込めて中のレバーを引き倒した。

「シューッ」と、どこからか音が聞こえたけど何も起こらない。

「おい! てめえ!」

 そう濱田がわめいた時だった。

「ブシュー!」

 さっきより大きな音が部屋のあちこちで鳴りだした。そして天井からものすごい勢いで白い泡が降り注いできた。あっちでもこちでも悲鳴が上がっている。

「うわぁぁー!」

 泡が噴き出している真下にいた濱田が、全身泡に包まれて逃げまどっている。

 俺は泡を避けながら走って、立ちすくんでいる工藤明日香を付き飛ばした。そしてエリカを抱えるようにして階段に走り出た。

「どーするのよ! 現場がメチャクチャじゃないの!」

「贅沢言うな!」

「ちょっと! 離して、離して! 自分で歩けるから!」

 階段の途中でエリカが叫んだ。夢中で気が付かなかったけど、抱えた腕にエリカの胸が思い切りあたっている。

「あ……」

「ブラがずれたじゃないの!」

 セーターの胸のあたりを引っ張りながらエリカが俺を睨んだ。

「非常時だから許してあげる……って言うか、りりんには黙っててあげる」

「おらあ!」

 俺たちを追いかけて階段を昇ってきた男を蹴り落とすと、その下にいた工藤明日香が巻き添えになって転げ落ちた。ちょっとだけ気が済んだ。

 エリカと一緒に、りんと有藤さんが待っている地下1階まで階段を駆け上がった。ギリギリで10分経っていない。

「急いで逃げるわよ!」

「なんか騒がしいけど、あんたら何やらかした?」

「捕まりそうになったけど、圭太が消火装置動かして逃げてきた」

「うひゃー! そいつはヤバい」

 何事もなかったように……俺とエリカにはあちこち泡がついていたけど。1階のエントリーカウンターに戻ってミッションクリアのバッジをもらった。

「りりん! 見事にミッションコンプリートしましたー! やったー!」

 ヤバいことになっているのをぜんぜん気にしていない様子で、りりんが動画の最後を撮影している。地下で起こっていることはこことは関係ないらしくて、バトルフィールドは普通に営業を続けている。

「おいおい、そんなことやってる場合じゃないぞ……」

 有藤さんが苦々しい顔で言っている。俺もそう思う。 

 それだけじゃなくりりんは、ショップのドアに『輝沢りりんミッションコンプリート!』と書いて日付を入れた。他にも何人かタレントのサインがあった。

 それから俺たちは、歌舞伎町の人ごみに紛れて本気で逃げた。

「新宿駅に入っちまえばもう安全だろ」

 有藤さんが何度も背後を確かめながら言う。

「俺はりりんを送り届ける。そっちはできる限り二人で移動しろ」

「あいつらが追ってるのはりりんじゃないから、そっちはたぶん安全よ」

 歌舞伎町ゲートの近くでタクシーを止めて、りりんと有藤さんを帰した。俺とエリカは人混みに紛れながら新宿駅に入って、やっぱりコンコースで人ごみに紛れこんで、発車の寸前に階段を駆け下りて中央線に飛び乗った。

「恐らくあんたの家は連中に知られてる」

 昼間でもラッシュみたいな中央線で、俺と密着した状態でエリカが言った。

「二度も栽培所を潰されたんじゃ、黙ってないかも知れないね」

「え? それって、やばくない?」

 中野駅で電車が止まるときに、エリカの体が俺にギューッと押し付けられた。エリカの柔らかい胸が思い切り俺にあたる、きっとわざとやっている。

「でもあんた一人だけを襲ったら、連中はおっきなリスク背負うだけ。来るとしたら、あたしとセットのときよ」

 すると、逆に一緒にいたほうがヤバいのか。

「エリカの方が……危ない?」

「どちらかと言えばね。連中にとってはあたしの方が危険だから」

 そうだとしたら、エリカは一人でも危険なのだ。だったら俺はエリカのガードでついていた方がいいのだろうか、よくわからないことになった。

「行動……できるだけ一緒が、いいかな?」

「白馬の王子様は嬉しいけど。知っての通り、相手は半端な連中じゃないのよ」

 高円寺で止まるときに、またエリカは胸を押し付けてきた。それだけじゃなくて俺の脚の間に太腿をはさみこんでくる。

「う……」

 俺が思わず声を漏らすとエリカが『にやっ』と笑った。からかっているつもりだろうけど、俺の方はヤバいことになってきた。

「これは……何か手を考えないといけないかもね」

 エリカが小さな声で言う。体を密着させているのでコロンの匂いとか髪の匂いで俺の心臓がバクバクしてきた。

「手……って?」

「やられる前に、やる」

 エリカがちょっと上目づかいに俺を見上げた。それで俺は一気に胸が苦しくなった。

『ヤバい……もう……エリカに、萌えちゃ……ダメだ……』

 頭でそう考えたところで、エリカの方から火をつけに来ているからどうにもならない。

『俺……年上の女に、オモチャにされやすいのかな?』

「たぶん明日の朝イチで局が押しかけるから、向こうはなにもできない。少し考える時間はある」

 途中の駅で、いきなりエリカが俺の腕を引っ張って電車を降りた。

「どうしたの?」

「尾行をまくテクよ」

「どこ? ここ?」

 駅名の看板には『武蔵境』と書いてあるけど、中央線の駅ってこと以外は知らない。エリカはそのままエスカレーターでホームから下に降りて、改札を出てしまった。そのまま、駅の近くにある白い建物に入っていく。

「なにここ?」

 まさかホテルじゃないだろうかと疑いながら聞いてみたけど、中は何か雰囲気が違う。

「安心しろ、図書館だ」

 エレベーターで地下に降りて、エリカは本がぎっしり並んだ棚の間にあったベンチに腰を下ろした。

「あんたが未成年じゃなかったら、マジでホテルでご休息ってこともできるんだけどね」

「ここで……なにするの?」

「どこでもよかったけど、落ちついて考えられるところに入りたかっただけ」

 棚に並んだ本を眺めながらエリカが言った。

「ここ座って、一緒に考えよ」


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