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第81話 家庭教師



 私にマナーを教えに来てくれたルーカスさんや、セオドアと一緒にダンスの練習をした翌日に、緊張でドキドキしながら待っていた来訪者は時間ぴったりにやってきた。


 久しぶりに会うからこそ、心配する気持ちが抑えられなくて、昨日の夜、今日のことを思って、なかなか寝付けなかったんだよね……。


「お久しぶりです、皇女様」


「お待ちしておりました。

 来て下さってありがとうございます、先生」


 寝室に使っている部屋ではなく、来客があった際に、応接室として使っている方の自室の扉を開け、此方に向かって挨拶をしてくれる家庭教師の先生に、お辞儀を一つすれば……。


「……あの、せんせい……っ?」


 ――何故か、入ってきた自室の扉の前で一切動きを見せない先生に、失礼なことでもしてしまったのかと、私はキョトンと自分の首を横に傾げたあと、不安に駆られて、戸惑うような表情を浮かべてしまった。


 その姿を見て……。


「……い、え……っ。ただ、ほんの少し驚きまして。

 陛下から話には聞いていましたが、本当に変わられたようですねっ?」


 と、口角を吊り上げながら、引きつったような表情と共にそう言われてしまい。


 そのあまりにも凶悪な顔に、びくりと一瞬肩を揺らした私は……、それでも多分、これは怒っている訳ではなく、恐らく笑っているだけなのだろうと推測出来て、そのあまりにも不器用な先生の笑顔に恐いと感じる間もなく、かけられた言葉に、反射的に、がばりと頭を下げてしまった。


「その節は、ご迷惑ばかりをおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした……っ!」


「……いやいやっ! 構いませんよ。

 今、学ぶ姿勢があるのなら、そんなものは些細なことに過ぎません。

 あと……っ、そのっ、皇女様……っ、私の推測で、本当に申し訳ないのですが、前までは、きっと、私のことを恐がっていたでしょう……っ?」


「……えっ、?」


 その上で、先生が私の謝罪をしっかりと受け入れてくれたあと、私が、昨日まで不安に駆られて、巻き戻し前の軸でも先生と会う度に心の奥底で密かに思っていたことを、まるで見透かすかのように声をかけられてしまって、問われた言葉の意味を理解してから、思わず固まってしまった。


 そんな、私の反応に、目の前の熊みたいな体格のいい先生が「やっぱり……」 と、ショックを受けた様子で、小さい声量で、あからさまに悲哀が籠もったような言葉を漏らすのが聞こえてきたことで、私はひたすら慌ててしまった。


(あぁぁっ、ど うしよう⁉

 先生、目に見えて傷ついてしまってるよねっ!

 目の前に本人がいるのに、そんなふうに、言葉に詰まってしまったら、先生のことを恐いと思っていたのだと認めているようなもので、あまり感じが良くなかったかもしれないっ!)


 先生のそんな姿に、一人、反省しながら……。


「あ、あのっ、ごめんなさい。わたしっ……」


 と、先生から問いかけられたその言葉に、どういうふうに弁明したらいいのか分からなかったものの、とりあえず、このままにしておくのは一番良くないことだろうと……。


 嘘が吐けず、を、なんとかして、フォローしようとした私に……。


「いいんです。どうか、気にしないでください……っ」


 と、その体格に似合わず、あまりにも、しょんぼりした雰囲気で縮こまったあと、悲しそうに先生が此方に向かって声をあげてくる。


 その姿に思わず、胸が痛んでしまったんだけど……。


「実は、私自身、この風貌なので、皇女様のみならず、どうやっても子どもには恐がられてしまうみたいで……。

 人に勉強を教えるという、こういう仕事をしていますし、私自身は、本当に子どものことが大好きなんですが、酷い時には、近づいただけで泣かれたりすることもよくあるんですっ!

 私が教えた生徒で、唯一、初対面で動じなかったのは、ウィリアム殿下だけでして……っ!」


 と、続けて先生から返ってきた言葉に、私は何となく、その光景に想像がついて納得がいってしまった。


「たしかに。

 ウィリアムお兄様は、誰に対しても恐がったりはしなさそう……、ですよねっ?」


 どう考えても、ウィリアムお兄様が泣いている所だなんて、一切、想像が出来ないし、普段、何事にも動じなさそうなお兄様のことを思って、そう伝えれば……。


「えぇ。ウィリアム殿下は、それはもう物怖じしない御方でして。

 と、自分から学ぶ姿勢を見せて、積極的に勉学に励んでいたくらいですから……」


 と、先生から言葉が返ってきたことで、その言葉に思わずびっくりして……。


「おにいさま、が……。そんなことを……っ?」


 と、訝しげな声が、ついつい口をついて出てしまった。


 私に勉強を教えてくれるこの先生が『家庭教師』としてつくことになったのは、お母様の住んでいた皇后宮から離されて、自分の自室を持つようになった六歳くらいの頃のことだったと記憶しているし、先生が同じだったことを思えば、私とウィリアムお兄様で、そこに大きな差などは殆どなかったはず。


 そう考えると、お兄様もきっと、それくらいの年齢で『先生』と初めて対面したことになる訳で、当時のことを思えば、あまりにも、大人びたお兄様のその発言に、私は、ただただ驚くことしか出来なかった。


それって、ウィリアムお兄様が六歳の頃にはもう、自分が、お父様の跡を継ぐことを視野に入れて行動してたってことだよね?


 私が本来の年齢である六歳だった頃には、そんな大人びたことすら考えつきさえしなかったと思う。


「……ええっ。

 ウィリアム殿下は、第一皇子でありながら、第二妃であったテレーゼ様が産んだ子どもというお立場で。

 当時、皇后様が産んだ正当な後継者ではないから、皇太子には相応しくないのではないかという世間の声も少なからずあったんです。

 皇后様が、陛下と従兄妹同士だったということもあり、皇族の血筋を受け継いだ皇后様が生む子供を待った方が良いのではないか、と……。

 皇后様のことをあまり良く思っていない者も大半だった中、周りは、自分勝手に好きなことを言いますからねっ!

 なので、ウィリアム殿下は、そういった声に負けないように、小さな時から、周囲の期待に応えようと努力して来られたのでしょう」


 過去を思い出してなのか、どこか懐かしそうに話す先生のその言葉に、初めて知るようなことばかりで、私はびっくりして目を大きく見開いてしまった。


(……世間から認められているのが当たり前すぎて、お兄様が子供の頃、僅かばかりでも、そんな声があっただなんて知らなかった)


 お兄様はずっと、生まれた時から……。


 お父様の後継者としての素質が充分だと周囲から認められ、ウィリアムお兄様こそが次代の君主になるのは当然のものだと思われて過ごしてきたのだと思っていた。


 お兄様が六歳になるかならないかの頃と言えば、本当に私が生まれるかどうかの瀬戸際の頃の話だろう。


(もしも、お母様が私ではなく、男の子を産んでいたとしたら……?)


(その子が、赤 ではなく、金を色濃く持って生まれていたとしたら……?)


 ――今とは全然、 違うことが起きていたかもしれない。


 浮かんできた自分の考えに、思わずゾクッとした。


 そんな、たらればの話を、今考えても仕方ないのは分かっている。


 私が男の子ではなく、女の子で……。


 お父様譲りの金ではなく、お母様の赤を色濃く受け継いでしまった事実が変わることはないんだから。


(お兄様は私が生まれたとき、ほんの少しでも、ホッと安心したのかな……?)


 長兄ちょうけいであることから、自分が皇帝になることを周囲から期待されて生まれきて、その直ぐあとに、もしかしたら、自分の人生を脅かすかもしれない人間が生まれてくるかもしれないという恐怖を……、私自身が、体感したことがないから分からないけれど。


 のだとしたら。


 ――それは一体、どれほどお兄様にとって重圧になっていたのだろうか?


 それを、私には、計り知ることが出来ない。


「……あっ、も、申し訳ありません。

 決して、前皇后様のことを悪く言うつもりなどは一切ありませんでしたし、皇女様にこのようなことをお話する予定ではなかったのですが。

 ただ、当時のウィリアム様の苦労を少しでも知っておいてほしくって。お二人の立場もあることなのに、余計なことを言ってしまって……っ」


 そのあと、一度だけ頭をいて、本当に申し訳なさそうに頭を下げてくるその人に、私は首を横に振って『いいえ』と声をあげた。


「……話して下さってありがとうございます。お兄様のことを、ほんの少しでも知れて良かったです」


 私がそう言うと……。


「皇女様にそのように考えて頂けて、そう言ってもらえるのなら、此方としても有り難い限りです」


 と、にこりと笑いながら私に向かってそう言ってくる先生の顔は、やっぱりちょっとだけ圧が強めで、迫力のある顔だったけど……。


きっと、本心からお兄様のことを思って、そう言っているのだと読み取ることが出来て、私は、目の前の先生のことを『見た目が恐いだけで温かい人なんだなぁ』と、昨日、ウィリアムお兄様から聞いていた話の通りだったと、ちょっとだけ安心してしまった。


「……授業とは全く関係のない話をして申し訳ありませんでした。それで、皇女様……、以前勉強した内容については覚えていらっしゃいますか?」


 そうして、次いで降ってきた今日の本題であるその言葉に、ピリッとその場の空気が引き締まるような思いをしながら、私はふるり、と無言で首を横に振った。


(何せ、巻き戻し前の軸の時から考えると六年分の時間を巻き戻している訳で……)


 十六歳の時の記憶ならまだしも、十歳の頃になると、もうあまりにも遠い記憶すぎて、今の時点で、どこからどこまで勉強を教えてもらっているのかを、私自身、正確に覚えているかと言われたら全く自信がない。


 『ここまで覚えている』と発言したとして、今の段階ではまだ、先生が一度も教えていないところを万が一にでも伝えてしまっていたらと思うと、下手なことは何一つ言えなかった。


「……その、ごめんなさい。

 文字の読み書きとか、簡単な計算などの初歩的なことは、しっかりと覚えているのですが……。

 出来れば、最初から教えていただけたら嬉しいです」


「あぁ……。

 確かに皇女様がこうして、また勉強するようになるまでに、ちょっと期間が空きましたから。覚えた内容を忘れてしまってもおかしくありませんね。

 一応、こちらでも、これまでの教えた箇所の復習が出来るようにと……。

 テスト形式の問題を作ってきていますので、そちらをされたあとで、分からない所は改めて初めからお教えするような形でも構いませんか?」


 先生の問いかけに、本当に初期の頃に教えて貰った内容しか伝えることが出来ず。


 濁すような言葉になってしまった私のことを咎めるようなこともなく、先生からそう提案してきてくれたことに『良かった、何とかなりそう……っ』と、内心で胸を撫で下ろしながら、私は、その有り難い申し出に一も二も無く頷き返した。




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