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第153話【エリスSide】

 皇女であるアリス様が療養のために古の森に行くと決まって、古の森に行くのは少人数で良いからと、私はアリス様から。


【連れて行けなくてごめんね、エリス。

 私達が留守の間、よろしくね】


 と、留守を任されていた。


 その言葉を受けて、いつもアリス様が使われているシーツなどの洗濯をして、お部屋もローラさんがいつもしているみたいに毎日欠かさずに綺麗に掃除をしておく。


 帰ってきた主人に変わらず居心地がいい部屋だと思って貰うために私は窓掃除から、棚の隙間の埃取りまで、張り切って仕事をしていた。


【……アリス様は、本当に心が清らかで美しい方だ】


 お仕えした今だからこそ感じるけれど。


 他の侍女から聞いていた、我が儘で癇癪のある皇女様という噂とは全く違い。


 私みたいな一介の侍女に対しても、いつも物腰が柔らかで、なんとか、仲良くしてくれようと優しくして下さったり。


 私の事情を知って、自分に出来る範囲のことで可能な限り便宜をはかって下さっていて、本当に、感謝してもしきれないくらい素晴らしい方だと思う。


 ――それと同時に湧いてくる、罪悪感。


 私をアリス様のお側につけようと動いていたテレーゼ様は、今の状況をきっと良しとはされていないだろう。


【何の役にも立たないお前でも、皇女様の周辺を探ることは出来るでしょう?

 テレーゼ様のお役に立てれば、今後のお前の立場を引き立ててやることも出来るが。

 もしもそうじゃないのだとしたら、皇族の侍女を首になったお前の次の就職先など、決まることはないでしょうね?】


 テレーゼ様のお側を離れる時に、侍女長から言われたその言葉が重くのしかかってくる。


 彼女に言われたその言葉は、私にとっての最後通牒のようなものだ。


 もしもこれ以上、テレーゼ様の反感を買ってしまったのならば、私は皇族の侍女というやっと家族を救うために手に入れたこの職を手放すほかないだろう。


 地道にコツコツと汗水垂らして働いている父の姿がよぎった。


 長年、父が信じていた親友の連帯保証人になって、結局、騙されてしまって借金を負うことになってしまった父は、領地を運営する領主としては失格だろう。


 だけど、それまで一生懸命、ただひたすらに地道に働いてきて、領民にも優しく接する父の姿は私にとっては誇りでもあった。


 それでも、何とか父がまたコツコツと1から資金繰りをして。


 戻そうとするお金だけでは、足りないのは分かっているし。


 まだ弟も、妹も、成人するまでにあと数年はかかってしまう程に幼いし、母も内職をしてくれているけど、それだけじゃ到底目標の金額までは届かない。


 一家を支えるために、私が給料を稼げないと烙印を押されてしまったら、私の給料でどうにか回っていた家ごと、崩壊の一途を辿ってしまうだろう。


 我が家は辺境にある本当に限られた領地の運営しかしていないけど、なんとか財政を立て直すことが出来なければ領民にだって迷惑をかけてしまうことになる。


 いつも農作物とか作った野菜とかを分けてくれる近所の親しい領民の姿を思い出して胸が痛んだ。


 ――お前の立場なんて、いつでもどうとでも出来る。


 と、言われているようなものだから。


 もしも、アリス様が評判通りの我が儘で癇癪を持っていた皇女様だったなら。


 この心は痛まなかったのかもしれない。


 でも、私はアリス様の優しさを身を以て知ってしまっている。


【一体誰が、ただの一介の侍女のために、自分の習っている皇族の方が受ける一流の勉強を。

 だという体を装って、傍で聞いていてもいいよ、と提案して下さるだろう?】


 私達みたいなお金もない貴族が無料で勉強を受けさせて頂けるだけで幸せなことなのに。


 その上、アリス様は発想力が豊かな柔軟な考えで、私に官僚の道まで提示して下さった。


 侍女として地道に頑張って給金を上げていくしかないだろうという考えしか持てていなかった私にとって、アリス様のその言葉は激震が走るくらいの衝撃だった。


 女性の官僚なんて、今までに聞いたこともなければ、きっと世界のどの国を見ても、未だ、ただの一人も存在すらしていないだろう。


 アリス様のその言葉で、本当に自分が官僚になれるのかという思いもあったけれど。


 でも、もしも私が官僚になれたのならば、侍女としての仕事よりも給金が上がることは間違いないし。


 幼い頃から、母親や侍女のする家庭の仕事よりも、父親の書斎や幼なじみの商人の子供の家に頻繁に出入りをしていた私にとっては、洗濯や家事のスキルよりも、計算などの勉強の方が自分の性に合っているのは分かっていた。


【きっと、アリス様は何でもないかのように、いつもの優しさの延長で提案して下さったに過ぎないだろう】


 だけど、私にとってそれは、確かな光明だった。


 アリス様からの言葉を聞いた時、本来はそこにあるはずもない第三の道がふわっと拓けたようなそんな感覚がして。


 その優しさに私がどれほど救われたのか、きっとアリス様は知らないだろう。


 ――そんな、素晴らしい方を、どうして、裏切ることが出来ようか……?


 気持ちがだんだんと重くなっていく。


 そもそも、アリス様の周辺って少人数で動いているからか。


 それともアリス様の人柄のこともあってか、いっそ過保護なくらいに、全員が全員、アリス様を守るために力を尽くしている感じで結束力が強くて。


 私が何かを探るような隙すら見当たらない。


 特に騎士のセオドアさんは、アリス様のお側から離れる時の方が珍しいし、何なら、どこに目がついているんだろうというくらい、ちょっとでも普段と違うことをすれば、それに目ざとく気付いて。


 アリス様の心が乱れることのないよう細心の注意を払いながらも此方にやんわりと指摘してくる。


 もしかしたら、私がテレーゼ様の侍女だったことから。


【多分、大丈夫だろうけど……】


 その、覗き込むように此方を見てくる真っ直ぐな赤色の瞳に。


 ちょっとだけ疑われているのかもしれないと、ヒヤッとする瞬間さえ、ある。


 アルフレッド様はマイペースでのんびりしているように見えて、意外なほどに物知りで博識だ。


 とても、アリス様と同い年の10歳くらいの子供の言動とは思えない程に成熟されていると思う。


【……勿論、アリス様も10歳の子供にしてはその言動は大人びているんだけど】


 ローラさんは侍女の仕事に対しては厳しい面もあるけれど、凄く優しい人で……。


 私が仕事で失敗すれば時々注意をされることもあるけど、それは理不尽なものではないし、仕事が上手くいったときは些細なことでも褒めてくれたりもするし。


 上司としては本当に有り難い人材だ。


 テレーゼ様の侍女としての仕事についてから、些細な家事スキルに失敗することも多くて。


 怒られることも多かった私にとっては、アリス様のお側に付いているこの現状は、本当に、天国と言っても良いくらいに恵まれている。


 何なら、テレーゼ様のお側を離れて、アリス様のお側に付くことが出来たことが私にとって最大の幸運だったのかもしれない、と思うほどだ。


【皆さんが、アリス様の事を守ろうと尽力されているのだって、そのお気持ちは痛い程に分かる】


 誰に対しても自分の利益なんて特に考えることもなく、本当に相手の為を思って優しくして下さる方だから。


 私だって、何もなければアリス様のお側にただ仕えることの幸せを噛みしめていたかった。


 そう、このまま。


 何もなければずっと、新たに出来た自分の夢を叶えるその日まで、あの方のお側に可能な限り仕えていたい。


【……でも、そうはいかないのだ、と】


 私は、私の現状を正しく理解している。


 ――いや。


 今まで自分の置かれていた現状が私の身に余るほど幸せなものだったから……。


 無意識の領域でずっと先延ばしにして、考えないように考えないようにしていたことを。


 強制的に、今、理解しなければいけない状況に、追い込まれているといったほうが正しいだろうか。


 アリス様のお部屋の掃除が終わって、窓を乾拭からぶきしたタオルを洗いに行く途中。


「……っ、!」


 廊下を一つ曲がった先に、誰かが立っていて、ぶつかりそうになって慌てて足を止めた。


 それまで下を向いていた私は、侍女が履くには上等な靴にまず視線が向いて、徐々に徐々に視線を上に向けていく。


 そこで、その存在が誰なのかは直ぐに把握した。


 いつもはテレーゼ様のお側に付いている筈の侍女長が。

 まるで私を待ち構えていたかのようにその場に佇んでいた。


 今、廊下に立っているのは、私と侍女長のみで何処にも逃げ場など存在しない。


 そもそも、アリス様のお部屋はかなり奥の方にあり、普段は側近としてアリス様のお側にいる皆さん以外はアリス様のお部屋に近づくことすらないことだから、完全に油断していた。


 自分から……。


 接触しなければ、侍女長からは接触してくることはないだろう、と思っていた。


 いや、希望的観測でそう思いたかった部分が、私の中にあったのかもしれない。


【アリス様がいない時にこそ、侍女長が私に接触してくる可能性はずっと頭の中にあった筈なのに】


「……お前、仕えるべき主人も不在だっていうのに、随分と仕事に精を出しているようね?」


 長年の主従関係があるのだとしたら……、従者は、どこまでも、仕える主に似てしまうものなのだろうか。


 テレーゼ様がそうだったように、口の端を吊り上げ笑みを浮かべて此方を見てくるその姿に、私は思わず自分の表情を強ばらせてしまった。




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