和也と会った翌日、美貴は自転車で昔住んでいた辺りに出かけた。相変わらずの晴天で、ひどく暑い。海風で少しは冷やされるかと思ったが、道路と砂浜を隔てる防風林のおかげで、それも期待できそうにない。
今でもあんなに未練たらたらな和也の様子に、美貴は真実を知りたくなった。昔、和也の身に一体なにがあったのかを。なぜ自分たちは、別れなければならなかったのかを。
当時の自分には、一方的に捨てた和也を許すことも、冷静に事情を訊くことも出来なかったけれど、今の自分にならきっと出来るはず。
だから。
まずは、自分と和也が通っていた高校から行ってみることにした。順路上、こちらの方が手前だったから、というだけの理由だ。
校舎脇の駐輪場に自転車を停めると、他の自転車がほとんど無いことに気づいた。
「あっちゃあ……。そういえば、もう夏休みか。
でも来ちゃったし、イチバチで職員室に行ってみるか」
美貴が閑散とした校舎に入ってみると、運のよいことに当時の担任教師が試験の採点のために出勤していた。まだ夏休みは始まってはおらず、現在は試験休み中とのことだった。美貴を快く迎えてくれた担任教師は、四十代ぐらいの男性で、卒業当時からあまり老けたようには見えなかった。
懐かしい職員室でむぎ茶を飲みながら、恩師と他愛もない話をしていると、いつの間にか当時同級生だった和也の話題になっていた。無論、和也と美貴が交際していたことは承知の上ではあったが、それ以上に担任教師と和也には因縁があったからだ。
「あいつはムダに正義感の強いヤツだったからなぁ、不良どもとしょっちゅうもめ事を起こしては、俺が警察に迎えに行ったもんだ。どっちが悪いかなんて見りゃ分かりそうなもんなのにな」
と、担任教師の武勇伝だか何だか分からない話を楽しそうにすると、彼は急に難しい顔になって、「そういえば――」と言葉を切った。むぎ茶をひと口含むと、他言無用だぞ、と前置きをして続けた。
「俺の口から言うことじゃないが……。お前が転校してから、しばらく後に和也の母親が重病にかかってな」
「――え? そんなの、聞いてない……」
「やっぱりか。まあ、言わないだろうな、あいつなら」
「それで……どう、なったんですか」
担任教師は少し言い淀んだが、腹を決めたかのように口を開いた。
「あいつは治療費を稼ぐために退学しようとしたんだ」
「たい……がく」
「頼れる身寄りもなく、残念ながら理系大学への進学も諦めるしかなかった」
和也がそんな大変な状況だったなんて、少しも知らなかった。
「だが、バイト先の店長の御厚意で、学費を支援してもらい高校の卒業だけは出来たんだよ」
「よかった……」
恋人が想像を絶する状況に追い込まれていた事を知り、美貴の双眸からは涙が溢れ出した。
担任教師は、ひとしきり話し終わると、他言無用だぞ、と再度念を押した。
そして、両手で顔を覆い、嗚咽する美貴の背中を、担任教師は優しくさすった。
「とても言えなかったんだろうな。医者の娘のお前には、特にな」
和也は自分を捨てたのではなかった。
自分の不幸に巻き込まないために、あえて身を引いたのだと。
それならば、まだ――。
◇
美貴はひどく陰鬱な気分で学校を出ると、昔住んでいた家に向かって自転車を走らせた。ペダルが重く感じるのは、きっと暑さのせいだけではないだろう。
道でピザキャットの赤いデリバリーバイクとすれ違うたび、和也ではないかとビクビクしながら俯いた。今の自分が、彼にどんな顔で会えばいいのか、美貴には全然わからなかった。
目的地に到着してみると、かつて住んでいた家はそのまま残っていて、今は別の家族が暮らしていた。庭に遊具や子供用の乗り物が置いてあるので、多分幼い子供のいるファミリーが暮らしているのだろう。
隣の敷地には、和也の住んでいるアパートがあった。彼の部屋は美貴の部屋から丸見えで、幼い頃から父親との折り合いが悪かった美貴は、いつも彼の部屋に逃げ込んでいたことを思い出す。
そんな父親は、もういない。
母親が離婚してくれて、美貴は正直せいせいしていた。
和也がまだ同じ部屋に住んでいるのか確かめようと思い、美貴が入り口の郵便受けを見ていると、管理人の中年女性に声を掛けられた。
「あら、美貴ちゃんお久しぶり。たしか、浜松に引っ越されたのよね?」
「ご無沙汰してます。管理人さんもお元気そうで。実は最近、浜松からこっちに戻ってきまして。それで、前の家が気になって来てみたんですよ」
「あら、そうなの。ああ、和也くんなら今は留守よ。多分仕事ね」
いつも和也の部屋に入り浸っていた自分がここへ来たのは、彼目当てなのは明白で、管理人にそう言われてもしょうがないなと思った。
「そう……ですか。ありがとうございます。じゃあ、また」
「はい、またね、美貴ちゃん」
これ以上、管理人さんと話しをしたくなかったので、早々に立ちさることにした。
和也が昔と同じ場所に住んでいることを確認した美貴は次の目的地、あの夢の場所である氷ノ山神社へと向かった。
◇
日は徐々に高くなっていき、気温もそれにつれて上がっていった。
美貴は途中、自動販売機でスポーツドリンクを買って、ちょこちょこ飲みながら自転車を走らせた。
記憶があいまいだったせいか、若干迷いつつ、なんとか神社に到着した美貴は、残りのスポーツドリンクを飲み干し、石段に腰かけてしばらく休憩をした。
その間、参拝者は誰も来ず、相変わらず寂れているなあ、と美貴は思った。近隣にある他の神社は、観光客目当てにがんばっているのに、と。
ひと心地ついた美貴は、意を決して長い石段を昇ることにした。石段の両脇は高い木が生えていて、茂った葉が強い日差しを遮り、ほんの少しの涼しさを与えてくれる。
木陰の作り出す、長い長いトンネルのような石段を昇り切ると、急に視界が明るくなった。美貴はようやく、白い玉砂利の敷き詰められた境内に到着した。彼女には、境内全体が光に包まれているように見えた。
暑い日の照りつける境内には、人の気配がなかった。子供の頃は、虫取り目的の和也に付き合ってよく来たことを思い出す。
「やっぱり、ここだったんだ……」
鳥居の脇に生えた大きな銀杏の木を見上げて、美貴は呟いた。確かにあの夢の場所は実在した。
そして、あの時の和也のプロポーズも、きっと本物だったのだ、と。
(あれ……?)
美貴はふと、誰かの気配を感じた。手水舎の方に目をやると、輝くような銀髪の神職の少年が佇んでいた。強い日差しを弾いて、少し動くたびにキラキラして見えた。
彼は美貴に気づいているだろうに、こちらと目を合わそうともせず、水を飲みに来た小鳥と戯れている。
(あの子、どこかで見たことが……)
う~ん、と思い出そうとしているうちに、少年はどこかに消えてしまった。玉砂利の敷き詰められたこの境内で、足音もさせずに。