「ったく、痛てぇな……」
和也は美貴にひっぱたかれた顔をさすりながら、マンションの廊下を歩いていた。
……また会えて嬉しかった。あれは正夢だったのか……。
思えばなんでこんな粗暴な女とくっついたのか、自分でもよく分からない。
でも、イヤんなるほど、アイツが好きだ。
三年ぶりに会った美貴は、別れた頃よりずっと綺麗になっていた。元から可愛いかったけれど、色香が増したというか、その……、
『エロくなった』
だいたい、タンクトップにショートパンツってなんだよッ、反則だッ! そんな格好で現れたら、『襲いたくなるだろおぉぉッ!』
と、和也は心の中で全力シャウトする。
……美貴、もしも許してくれるなら、お前を全力で愛したい。……昔のように。
でも、俺にそんな資格は…………ない。
和也は、苦虫を噛み潰したような顔で、エレベーターを降りた。一階フロアから、よく冷えた空気が自分と入れ替わりにゴンドラの中へと流れ込む。
ちょっとリッチなエントランスホールには、大ぶりな生け花と、ソファがしつらえてあった。配達でしか見ないような場所。自分には無縁の場所。そこが、かつての恋人、美貴の新居だった。
◇
和也がマンションの外に出ると、必要以上に温められた湘南の潮風と太陽が出迎える。首都圏において、これほどまでに夏を体現した場所はないだろう。
しかし、和也は夏がキライだった。
夏なんて、湘南に住む金持ち連中にとっては、ただの生活のスパイスだろう。だが貧乏人の自分には、ただただ不快なだけで、さっさと通り過ぎて欲しいだけの季節だった。
「ん? 子供……?」
さっきマンションの駐車場に停めた、ピザ屋のバイクの向こう側に、誰かが倒れている。和也は慌てて駆け寄った。
「おい、しっかりしろ! 大丈夫か?」
焼けたアスファルトの上に転がっていたのは、中学生ぐらいの色白銀髪の男の子だった。この暑いのに帽子も被らず遊んでいたようだ。半袖短パンから露出した肌が、真っ赤に焼けている。
「う……うう……」
少年に呼びかけると、わずかに意識があり、口をぱくぱくしている。
和也は少年を抱き上げると、マンションのエントランスホール脇の日陰に寝かせた。オートロックのドアが開かずとも、多少は冷気が漏れてくる。炎天下に置いたままよりはマシだった。
「いま冷やしてやるから、待ってな」
「う……ん」
和也はバイクのトランクを開けると、保冷用の氷袋とペットボトルのミネラルウォーターを持ってきた。彼は氷をいくつかのビニール袋に分けると、少年のわき、太股のあいだ、首、頭に置いて少年を冷やしはじめた。
(処置が間に合えばいいが……)
しばらくして少年がふう、と長く息を吐き出すと、表情が少し楽になったように見えた。和也はペットボトルのふたを開けると、「飲めそうか?」と訊ねた。
少年がこくりと小さく頷いたので、和也は彼の頭を自分の膝にのせ、少しづず水を飲ませた。あいかわらず少年の目はうつろで、視点は泳いでいた。
「これ舐めてな。塩タブレットだ。水飲んだだけじゃ脱水おさまらねえから」
和也は私物のアメをポケットから取りだし、少年の口にねじこんだ。
応急処置はやらないよりはマシだが、脳が既に煮えていたら手の施しようがない。出来ることはした。あとはプロを呼ぶのが妥当だろう、と判断した。
「名前、言えるか? 家の電話番号は? いま救急車呼ぶから――」
「待って。呼ばなくて……いい。家の人を呼んで……」
「だけど重症だったらマズイだろ」
「家に……電話して。必要なら、家の人が救急車呼ぶ……ならいいでしょ」
「ちッ、しょうがねえな。家は?」
「ひの……やま、じんじゃ」
「神社?」
「番号は――」
◇
和也が神社に電話をすると、ものの数分で彼の家族が飛んで来た。
マンションの駐車場に滑り込んできたのは、氷ノ山神社と車体に書かれたミニバンだった。その車から降りてきたのは――。
「すいませーん、うちのご祭神がお世話に……って、あれ?」
「あ、薫? え? その巫女さんの格好はなに……」
「あれえ、和也くん。ひさしぶり」
薫は、美貴や和也と高校時代のクラスメートだった女性だ。
「おうひさしぶり……、って、そうじゃなくて、救急車は? 呼んだのか?」
「大丈夫よ、少し冷やせば治るから」
「マジかよ……」
「か、薫ちゃん」
少年がむくりと体を起こした。
薫ちゃんと呼ばれた巫女さんは、つかつかと少年に近寄った。
「だから言ったじゃない李斗! 日中勝手に出歩いたらダメって。おまけに帽子も水筒も持って行かずに出かけて! 挙句の果てに人様に迷惑までかけて! 今日はアイス抜きだからね!」
「あ~~~~、ゆるしてえ~~~~」
ものすごい剣幕で怒る薫に、ご祭神だの李斗だの呼ばれた少年は、まるで命乞いでもするかのように、地面に座り込んだまま、手を合わせて許しを乞うている。
「あ……すっかり大丈夫そう、だな。なあ薫、この子ダレ?」
「ああ、えーっと、親戚の子」
「かーおーるーちゃん!」
「李斗は黙ってなさい! アイス二日抜きにされたいの?」
「ちぇ」
「和也くん、悪いんだけど、この子を後ろの席に寝かせてくれない?」
「おう、任せとけ」
「歩ける~」
「李斗はだまんなさい!」
「まあまあ、まだぐったりしてんだから、あんま怒りなさんな。坊や、いま車乗せてやるからな」
和也は、少年をゆっくりと抱き上げた。
「ううう……わるい、和也」
「ん? もう名前覚えてくれたのか。はは。今度はちゃんと帽子かぶって出かけるんだぞ」
「うん……」
和也は、車の後部座席に少年を横たわらせると、彼女に訊いた。
「なに、いま神社でバイトしてんの?」
「まあそんなとこかな。和也くんは……仕事中だったかな? ごめんね迷惑かけて」
「いやそんなの別に。それより、美貴が帰ってきたんだ。このマンションにいる」
「え、ここに? 私も聞いてなかった。そっか……」
「バタバタしてて連絡するの忘れてたんだろ。そんなに気にすんな」
「ありがとね和也くん。お礼はまた近いうちに」
「気にすんな。これバイト先。なんかあったら店に電話くれや」
和也は店のチラシを薫に手渡した。
「ありがとう」
「俺も後で連絡するから。じゃあ、気をつけて」
「うん。またね」
和也は神社の車を見送った。
「氷ノ山神社……って言ってたか……。あ、そういえば……」
和也は急に、ある大事なことを思い出した。
◇
和也は深夜仕事が退けた後、その大事なことの舞台となった場所を、数年ぶりに訪れた。やたら階段ばかり長い、寂れた神社だ。
入り口の石碑には、氷ノ山神社と書いてある。
「薫に後で連絡するっつって、結局こんな時間になっちまったな……。これじゃもう顔を出すのもアレだろう……」
仕事で疲れた和也の体には、やたら長い階段がキツく、上に着くころには汗が滝のように流れていた。化繊混じりの薄いシャツは肌にべったりくっつくし、蒸れた草の匂いが湿気と一緒に体に纏わり付いて、不快感MAXだ。
夜中の神社でちょっとばかし薄気味悪い思いをしながら、彼は大きな銀杏の木の下で思い出に浸っていた。
――ここで十年前、美貴にプロポーズした。
告白もせず、いきなり求婚したもんだから、どえらく怒られたっけ。
でもあの時の自分は、結婚=大事な人とずっと一緒にいるって約束、って親に聞かされてたもんだから、そのつもりで言っただけだったのに。
この十年、その気持ちは一ミリも変わっちゃいない。一途だとか純愛だとか、そんな綺麗事ではなく、ただただ単純に、物心ついた頃からずっと共に育ったアイツが大事で、この先も一緒にくっついてるのが当たり前で、それが自分達にとっての幸せなんだ、……と思いこんでいた。
別々に生きるなんて選択肢は、自分の中にはカケラもなかった。……ただそれだけのことだった。今にして思えば、きっと自分は家族が欲しかったんだろう。母親と二人暮らしだったから。
だけど結局、美貴を手放した――――。
和也の思い出は、今でもずっと彼を苦しめ続けていた。