どれぐらい寒い部屋の中で蹲っていたのか、気づいたときには身体は冷え切っていてとっぷりと日が暮れていた。
何度か扉越しにアメリーが声をかけてくれたのは覚えているが、その全てに突き放すような返事をしてしまった気がする。
彼女たちは夕飯を済ませただろうか。ラナベルが出てこないからと、我慢してやいないだろうか。
(悪いことをしちゃったわね……)
腫れぼったい瞼を押し上げながら思った。
窓枠の形に切り取られた月光を見るともなしに見やる。
このままじゃきっとアメリーたちはラナベルを気にして休めないだろう。本当ならすぐにでも向かって今日はもう休むように告げるのが正解だと分かっている。
けれど、どうにも立ち上がる気力がない。身体が空っぽになったようだ。自分の身体が、糸の切れた操りの人形のように無機質なものに感じられた。
身体を起こしていることすら辛くて、このまま冷たい床に横になりたいと考えたところで、どうにか残った理性が己を律する。
いつの間に手に取ったのか、ラナベルの手には短刀が握られていた。
薄暗い室内でぼんやりと光る白い柄の刃を、無意識に首に向けようとしたところで我に返る。
(ダメ……
ラナベルにとって死とは身近な自罰的方法であり、逃避の一つだ。
全身を支配する痛みや血が抜けて頭の中がひっくり返るような気分の悪さ。それがラナベルの頭をマシにするためのスイッチでもある。
だが、今回ばかりはそれをするわけにはいかなった。
――巻き戻れば、彼が来てしまう。
時が戻るということは、それはラナベルの死を現していて――。
そうすればレイシアは、十中八九馬を飛ばして邸までやってくることだろう。あの嵐の夜の日のように。
一心不乱にやってきたと思えば、あの日のようにラナベルを抱きしめてそうして言うのだ。きっと。――お前のせいじゃないと。
想像しただけで吐き気がした。
彼の口からその言葉を言わせてしまう自身の罪深さに。なによりそれを空想して一抹でも喜びや安堵を感じた自分に嫌悪した。
今日だって、ラナベルはレイシアから声をかけられるまで一度も口を開かなかった。本当ならまず彼に謝罪しなければならなかったのに。
と、そこまで考えて、謝罪ごときで済むはずがないと我知らず歪に口の端が上がった。
自嘲した笑みはすぐに引き結ぶ形に変わる。
目の奥が熱くなって、けれど泣きたいのは自分じゃないと懸命にこらえた。
もうやめよう。そう思った。
婚約を破棄して一人に戻ろう。前のように邸にこもって誰のことも気にせず、領地の義務を果たしていつか来る母の最後を見届け、そうして誰にも知られぬうちに姿を消そう。
そのさきでこっそりひっそり死んでしまおうと思った。死ねるかは分からないけれど、そう思うことでしか今の自分はもう立てそうになかった。
そもそもレイシアがラナベルなどを愛したなどというのがおかしい話だったのだ。――これで良かった。これで正常に戻れる。
レイシアはもうラナベルを好きだとも結婚しようとも言わないだろうし、一緒に生きていくなんてもってのほかだ。
そう経たずに彼の肩の荷も完全に降りることになるのだから、これを機に自分のためだけにその人生を歩んで欲しい。今度こそしっかりした令嬢と手を取り合って欲しい。……いや、べつに誰かと結ばれなくたっていい。彼が幸せでいてくれるならなんでもいいのだ。
だが、ずっと孤独に過ごしてきたレイシアには、誰かと寄り添う温もりや心地よさが必要だとも思った。――もうその隣に自分が立つことはないけれど。
女性と隣り合うレイシアの姿を思うと、罪悪感だろうか……心臓がズキズキと痛かった。今まで感じたことのない痛みだ。心臓に直接釘でも打ち込まれていると、そう思うほどの激しい痛みだ。
「っ……」
震えた息を飲み込んだ。手の中にある短刀を力の限り握りしめ、けれど決して身体に突き刺しはしなかった。
その代わりとばかりに、ラナベルは自分の心中で膨らみかけていた
ゆっくりゆっくり着実に大きくなっていたその芽吹きは、情や憐れみや祈り――レイシアへ向ける感情の象徴であり、きっといつか彼がくれた
固く閉じた瞼の向こうで、その芽を何度も踏みつける想像をした。二度と芽が出ないようにそれはもう念入りに痛めつけ、土を掘り返して根っこごと無残な姿へと変えていく。
死ぬことの出来ないラナベルには、こうして心を殺すことしか出来ないのだ。
暗闇で息を潜めていた蹲っていたラナベルは、そうやって小さな芽を欠片も残さないように痛めつけたあと、ようやくその涙を拭った。
のろのろと起き上がって暗闇の中で短刀を引き出しに戻す。不意にドレッサーの鏡に映る自分と目が合った。
瞳は暗闇でも分かるほどに虚ろで、泣いたせいでぐっしょり濡れた顔に乱れた髪が張りついている。
ニコリと意識的に口角を上げ、目許を垂れ下げて笑ってみる。
――うん。いつも通りだ。
頬の筋肉を解すように何度か微笑みを作って問題ないことを確認する。そして髪を整えて濡れた顔を綺麗に拭ってから、心配しているだろうアメリーたちの元に向かった。
月光を照らし返していた碧眼が、退廃的で投げやりな雰囲気だったが、笑顔を取り繕うことでいっぱいいっぱいだったラナベルは気づかなかった。