「だあああああちっくしょうがああああ!!!」
「ぱぱ、たかばさ、げんきだね!」
「そうだねぇ元気元気」
すでにどんどんと侵食されつつある黒い廊下を疾走しながら、鷹羽は携帯を握りしめながらヤケクソになって走っていた。
学校の状況は一切把握出来ていなかったけれど、廊下は出版社のビルのものよりも圧倒的に黒くって元の色なんかわかりゃしない。最早煤で汚れているどころではなく、元々真っ黒くて四角いものがくり抜かれているような、そんな感覚だ。
違う色があるとすれば空の赤色と、血管のように壁や天井に蔓延り明滅する赤い線。この明滅している赤がなければ先さえハッキリ見えないのが物凄く不愉快だった。
しかもその黒いものの中から、鷹羽の足を掴もうとする黒い手が蠢いている。
蹴り飛ばせば崩れていく程度の脆さの手だが、足首だのボトムスの裾だのを掴んでこようとして邪魔で邪魔で仕方がない。
前方を走るマスターの方はと言えば、千百合を抱いているというのに黒い手の妨害がないからか実にスムーズに走っている。
何で自分はこんなにも妨害されているのにマスターは少しも掴まれていないのだろう。まるで黒い手の方が逃げているかのようにマスターから遠ざかり、逃げ遅れたものはどろりと溶けて四方の黒と同化している。
その有り様は出版社の方で見たものとほぼ同じだったけれど、相変わらず何がどうしてそうなっているのかはサッパリわからない。
そこは「マスターだから」という理論なのかもしれないが、それはそれで納得はいかない気持ちだ。
うらやましい。ただ
まぁ踏み潰せる分にはまだいい。
さっき教室で再会出来たキクなんかはもうほぼ真っ黒になり始めていて、黒いなにかに対抗するどころの話ではなかったからだ。
「マスター、なんで会社から学校までワープ出来たんです。マジでそこが分からないんですけど」
「よくある紙の端と端に書いた絵を、紙を折って重ねるって理論と同じ事ですよ」
「あぁ……あ?」
「こっちで水を撒いて安全帯を作る事と、向こうで山内理絵さんの机の周りで水を撒く事はそれぞれの絵を描くのと同じ意味を持っていたんです。元凶と、生贄と。それぞれに縁の深い場所に水を撒いて安全地帯という絵を作って、ワープした瞬間は紙が折れて重なった、という」
「なんか……わかるようなわからないような」
「なんとなくでわかっていればいいですよ。同じような事は多分、他の所では使わないと思いますから」
「つまりそれも、本から得た情報って事ですか」
「その通りです」
本から得られる情報も馬鹿になりませんね、なんて言いながら千百合を床に下ろし、マスターは階段の踊り場にある窓からひょいっと顔を外に覗かせた。
窓は最初から割れていたのかただただ開かれていたのか、それはわからないけれど窓枠はそのまま閉じている形になっているような気がする。
もしかして、そもそも最初からこの学校には窓がなかったのだろうか。だとすると、風も空気の循環も一切なかったという事で、それもなんだか不気味だ。
なんというか、【黒い部屋】というのは不気味でしかない。
マスターが過去に同じような事例があってその記録もあったとは言っていたけれど、こんな気持ちの悪い事案が二回もあったと思うだけで気分が悪かった。
だってそれはつまり、誰かの執着と憎悪と嫉妬と欲望が、誰かに向けられ、その上で誰かが犠牲になっているという事なのだ。
凄くモヤモヤして嫌な気持ちになる。今まで自分が直視していなかっただけでもしかしてこういう事件は頻繁に起きているものなのだろうか。
自分が知らなかっただけで、マスターはこういった事件を今までも沢山目にしてきた、のだろうか。
「あれ、ですかね」
悶々としながら手を握ってくる千百合の小さな手を拒絶せずにいた鷹羽に、窓の外を見ていたマスターが声をかけてくる。
彼の視線は未だに外を向いたままで危うく上半身が外に出てしまいそうな状態なのでちょっとばかりヒヤッとしたが、踊り場に戻ってきたマスターに外を指さされて鷹羽は渋々外を見た。
外は相変わらず真っ暗というよりも真っ黒で、赤い木々だけが不気味に校舎の周りに立っている。
元々学校の周囲にこんなに自然がある場所なんだろうか、と少しだけ不思議に思いつつ、マスターが指さした先を見るとそこにはいっそ異質なほどに硬質な――恐らくは物置だろうと思われるものが見えた。
大きさ的にはトイレの個室2つ分、くらいだろうか。100人くらいは乗れそうなその大きさに反してその物置はやけに古臭くって、土煙でも浴びていたかのようにくすんだ色をしていた。
この空間にあるからこそ異質に見える存在だが、しかしこれが校舎の裏に放置されていたならば何の違和感も抱かないだろうなと鷹羽は思う。実際、鷹羽の高校時代にもあんな古臭い物置が意味もなく校庭の端っこに置かれていたものだった。
だがやはり、この空間にあっては異質でしかない。
しかも、真っ黒な中に赤いものは樹木のような影しかないような空間でその物置は元々の色を保っている上に、恐らくは影なのだろう歪んだものは赤、だ。
まるで血が滲み出しているようにも見えるそれに、やはり嫌な気持ちになる。
「よし、行きますか」
「へ? 行くって……」
「ちょっと遠く見えますけど、この踊り場からジャンプすれば着地範囲内ですよ」
「嘘でしょ?!」
「ちゆ」
「はぁいっ」
しれっとしているマスターに驚いているのは鷹羽だけで、鷹羽と手を繋いだままの千百合は元気いっぱいに手を上げて元気なお返事だ。
まぁ確かに、確かにだ。物置は比較的近いというか、恐らくは転落防止なのだろうと思われる窓のすぐ下にある
勿論そんな危ない橋は渡りたくはないが、この踊り場から見える真っ黒な階段を降りていくのも少しばかり抵抗があった。
何しろもう、階段が見えないのだ。真っ黒でデコボコな腕が邪魔しているのか、階段の段差がまるで見えなくってアレを降りるのはこの踊り場からジャンプをするのと同じくらいに危なく見える。
最悪の二者択一。それでも、一緒に行く人が居るのならそちらを選ぶ方がいくらかマシに見える。
気がする。
「千百合ちゃんも行くんですか?」
「千百合は体操教室に通ってますので」
「ので!」
「なるほど…………なるほど?」
「では、先に行くので行ったらこのバッグ、投げて頂けますか? 流石に持ったままだと危ないので」
「はぁ……」
流石のマスターもそれはダメなのか、と思いつつもバッグを受け取れば、中に水のペットボトルがぎゅうぎゅうに詰められているだけあって流石に重い。
こんなものを持ったままジャンプなんてしようものなら、バランスを崩すどころじゃない。腕に当たるだけでそこが青あざにでもなってしまいそうだ。
「あ、鷹羽さんは外に出る前に一度足元にその中の水をかけたほうがいいと思いますよ。邪魔、されたくないでしょう?」
「はぁい……」
買ったばかりの靴なんだけど……なんていう言葉は、この状況では何の意味も成さないのだろう。
足を引っ張られてこの階数から何があるかもわからない地面に転落するよりも、靴を犠牲にして安全策を取る方がずっといい。
鷹羽は、ため息を吐きながら託されたマスターのエコバッグの中のペットボトルを一本引っ張り出し、自分の足元にバシャバシャと撒く。
と、途端に今まで鷹羽の足に絡みつこうとしていた黒い影たちがうぞうぞいいながら逃げていって物凄く不快というか、気味の悪い心地になる。
ほんの飛沫でもとんだ先に居た黒い腕だか足だか分からないものはパシャリと水のような音をさせて赤い水たまりのようになってしまったし、なんだかこの水もとんでもないものなのじゃないかという気分さえしてしまって、これをガブガブ飲んでしまった事をほんの少しだけ後悔した。