ペットボトルの中の水を受けた黒い影が、赤く潰れて広がっていく。
それはまるで果実のようでもあり、以前一度だけ遭遇してしまった交通事故現場のようでもあった。
アレは酷い事故だった。小学生とトラックの交通事故で、大きなトラックは車体の死角に入ってしまった小さな小学生を視認する事が出来ずにそのまま接触してしまったという、痛ましい事故だった。
あの時は鷹羽もまだ小学生で、その時に犠牲になった子は知らない子でもなかったので酷くショックを受けたのを今更に思い出す。なんでこういうものは、こういう変な時に思い出してしまうんだろうか。
アレは、接触なんていう生易しい言葉ではなかった。
人間はこんな風に死んでしまうんだ、と思った事故でもあったし、人間はこんな風になってしまうんだ、と知ってしまった事故でもあった。
単純なトラックと人間の接触事故であれば、悪くても人間がトラックに潰されて死亡、というくらいで終わる話だろう。色んな意味で。
しかしあの時鷹羽が目撃したのは、死角に入ってしまった小学生をトラックが
文字通りに小学生はトラックのタイヤに巻き込まれていて、しかしまるで布のように厚みはなくなっていた。
小学生とトラックが接触したあたりからアスファルトに帯状に残されている血の痕であったり、血に塗れた服の残骸であったり……ボロボロに擦れてベルトがちぎれ飛んだランドセルや、恐らく皮膚や肉だったのだろう断片、だったり。
それは恐ろしいほどに鮮明に鷹羽の目に飛び込んできて、未だにその色合いまで思い出せる。
即死だったら良かったのかもしれない。けれど鷹羽が見た時にはタイヤに背をのけぞらせるようにへばりついてしまった子どもには僅かながら息があって、「おかあさん」「いたい」と何回か言ってから口から吐瀉物を撒き散らして、結局頭部損傷がひどくそのまま死んだ。
頭部損傷、なんて言っても、結局頭部が割れていてもそうでなくても、路上に残された人間の中身を見てしまえば頭部の状態がどうあれ死んでいたのは間違いなかっただろうと、今ならそう思えるのだけれど、当時の幼かった鷹羽にとっては「その瞬間に生きていた」というのはかすかながら希望を抱かせるものでもあって。
少年がギリギリ動かせたのだろう眼球で、半分くらい外に飛び出してしまっていたそれで鷹羽を見たのが、忘れられなくて。
だからこそ、目の前で徐々に徐々に死んでいく子どもを目撃してしまったのは、死というのは生のすぐ後についてくるものなのだという事を生々しく感じる事件だった。
この、黒い何かが弾けて赤いものが飛び散る様子は、あの時の事をどうしても思い出させる。
何トンもあるトラックに潰されて、上から下から体内の内容物を吐き出して死んだ子ども。この弾けて飛ぶ赤いものは、あの時の血にそっくりだ。
そういえば【黒い部屋】に入ると「中身を全部抜かれてしまう」らしいが、つまりはあの時の小学生と同じようにぺったんこになってしまうという事なのだろうか。
だとすると、それは、それは、見る方も怖いなと、今更ながらに恐怖が戻ってくる。
山内理絵の死に様もそうだったが、人間はあまりにも非現実的なものに触れすぎると恐怖というものが薄まっていくものらしい。だからこそ、自分の知っている最も強烈な恐怖に近いイメージを呼び起こされると、いきなり恐怖が戻ってきて余計に恐ろしく感じるのかもしれない。
「鷹羽さん? 大丈夫ですか?」
「あ、は、はい大丈夫です」
「じゃあ、先に行きますね」
鷹羽の様子がおかしい事に気付いたマスターは不思議そうな顔をしていたが、しかし深く追求するのをやめたのか
跳躍、と言っても、周囲は真っ黒だしマスターの格好も白いシャツと黒いベストに黒いボトムスなのでほとんど真っ暗な中に飛び込んでいるようなものだ。
そんな姿に一瞬ぞっとして、慌てて窓枠にしがみついてしまう。
しかしマスターは実に平然と物置の天井に着地しており、着地した時に打ったのだろう膝を少し擦っている程度で何の問題もなさそうだ。
「流石100人乗っても大丈夫……鷹羽さんも来て大丈夫ですよ」
「あ、はい。じゃ先にバッグ……」
「肩紐結んで投げて下さい。打撲程度は覚悟の上です」
「男らしい覚悟してた」
言われた通りに持ち手部分をぎゅっと縛り、出来るだけ腕を下まで伸ばしてからマスターに放ると、これがまたそこそこ生々しい音がしてキャッチされる。
キャッチというよりも肩に当てて止めたという方が正しいのではないかと思ったが、本人が打撲程度は覚悟していると言っているのでまぁ、いいだろう。
何で無駄な所で男らしいんだろうこの人は。
人間一人が乗れるか乗れないかくらいしかない
「あれ……」
ここから物置まで跳ぶのはやっぱりちょっと怖いなぁ、なんて思いながら足先をちょいちょいさせつつ物置までの距離を測っていると、千百合が居ない事に気が付いた。
てっきりさっき鷹羽が物思いに耽っている時に物置に移動していたのだろうと思っていたのだが、今はマスターの足元にも居ない。
思わずジャンプするのも忘れてきょろきょろと周囲を見回していると、鷹羽の視線の意味に気付いたのかマスターは下方を指さしながら、
「千百合なら居ますよ。大丈夫です」
「あ、そうですか? こっからは見えないや」
「こっちでもフォローしますので、跳んで下さい」
手遅れになる前に。なんてにっこり笑顔で言われたらもう恐怖だとか躊躇だとかは全部無視して跳ぶしかない。
今まで生きてきた中でこんな場所からあんな不安定そうな場所に跳ぶのは初めてのことなのでもうちょっと覚悟を決めさせて欲しいような気もしたけれど、あんな表情で「はよ来い」と言われたら跳ばないわけにもいかない。
意を決してジャンプすると、足はあっけなく物置の上に着地した。ガクンと崩れかけた膝はマスターが腕を掴んでフォローしてくれて、さっきマスターがそうだったようにガゴンと音を立てて膝を思いっきりぶつけたけれどバランスを崩して落ちるというような事はなかった。
膝は痛い、し、物置は一応は「大丈夫」そうだが思ったよりもギシギシと不安定だ。当たり前か、成人男性2人分の体重といえば優に100kgはこえているはず。
最近晩酌に黒猫茶屋のお菓子とウィスキー、なんて事を繰り返していた鷹羽はこっそり己の体重に不安を覚えながら、マスターがゴソゴソと天井に立ったまま結ばれたエコバッグの持ち手を再び開いているのを見守った。
ぎゅっと結んだとはいえ、元々の素材的にそんなのは自然と緩んでくるようなものだ。
案の定あっさりと結び目を解いたマスターは、中からペットボトルを取り出して鷹羽にも一本渡してくる。
「半分くらい飲んでおいて下さい。ここ、濃いみたいなので」
「うっ……飲む、のか、これ……」
「ただの水ですよ?」
「いや、だって、さっきなんか黒いのがバシャーッて……」
「あぁそれは……オレはあなたの言う黒いのがよく見えていませんけれど、多分その黒いのが呪いの一部だからだと思いますよ」
自分でもペットボトルの水を半分ばかり一気に煽って、マスターがポケットから猫の首輪を差し出してくる。
ちょっとばかり使い込んだ痕跡のある猫の首輪は、鷹羽にもよく見覚えのあるものだった。
黒猫茶屋に居る四匹の黒猫。ABXYと、独特なネーミングセンスの4匹の猫のものだろう黒い毛がちょっぴりついている猫の首輪を、とりあえず受け取る。黄色い首輪だった。色的に、多分Bのものだろう。
今どきこんな名前と色をを関連付けられるのはそこそこの年齢層の人間なんじゃないかと思うとちょっとばかり胸が苦しい。
「これはまぁ、そういう呪いには効果のあるお水なので。呪いに直接ぶっかけたら呪いが消滅していっていたんじゃないですか?」
呪いが、消滅。
内側から弾け跳ぶように真っ赤になって消えていった「黒い」呪いの事を思い出しながら「確かにそうだけども」と、非常に微妙な気持ちになる。
マスターの目ではこの世界はどんな風に見えているんだろう。
人とは違う自分の目を少しだけ儚みつつ、同じくらいにマスターの視界が気になった。