さっきから鷹羽の精神状態があまりにもフラットすぎる。
マスターは渋々と水を飲む鷹羽の様子を見守りながら軽く顎を撫でた。
試行的にはマイナス方向に寄ってはいるのだろうが、しかし恐怖するでもなく躊躇するでもなく――というのは、少しばかり問題があるとマスターは感じていた。
こういった異常事態において、恐怖というのは人間の心の防衛装置である。
恐怖することで思考が止まり、それ以上の新たな情報の流入を妨げたり、記憶を消去したりすることもある。しかしその恐怖を感じないということは、本来自分を守るための防御機能が起きないということなのだ。
鷹羽は今までは普通の人間だった。
遭遇した怪異にも普通に恐怖し、怯え、動けなくなるような普通の存在だったし、恐らく彼の職場に出現した【黒い部屋】の中でもギリギリでそういう精神性であったのではないかと思っている。
しかし今の鷹羽は、多少の躊躇こそすれど恐怖を感じている様子はない。
その感覚をずっと持ち続けているのは、「コチラ側」に近くなりすぎてしまいそうで、マスターは心配だった。
鷹羽を「コチラ側」に引き摺り込んでしまった自覚は、マスターにだって流石にある。自分には
【黒い部屋】が彼の所に出現したのは、ただ偶然彼の同僚とこの学校を変化させた少女が姉妹だった、ということから来るものだとは分かっている。
分かっているが、それは本当に偶然なのだろうか。
【黒猫茶屋】の噂に縋って助けを求めてきた二人の高校生と、元々常連だった鷹羽。
彼らが、本人の知らない所で繋がっていたということはないはずだ。だが、完全に偶然と言ってしまうには違和感があるのも本当の所で。
「……マスター?」
きっと、この呪いの元凶が鷹羽とは何の関係もないものであったならばマスターとてこんなことは考えなかっただろう。
でも、今は完全に偶然だなんて考えられない。信じられない。
これはどこかで誰かが仕組んだことだ。呪い自体であるのか、それとも【黒い部屋】という噂だけのことであるのかはマスターにも分からない。
わからないからこそ、不気味なのだ。
マスターは恐らく、今自分こそが恐怖を覚えていると自覚をしている。その恐怖がこの呪いに関することであるのか、状況そのものであるのかは分からないけれど、きっと鷹羽よりも怯えているのではないかと自覚していた。
それを表に出さないでいるのは、今まで客商売で培った経験のおかげだろう。先代から【黒猫茶屋】を譲ってもらうよりも前から、マスターは接客業をしていた。
だからというわけではないが、人前で感情を出さないのはそこそこうまいと自負している。
今、鷹羽の前でそれが出来ているかは、ちょっとばかり自信がないが。
「マスター! 大丈夫ですか」
「あっ、すみません。行きましょうか」
「行くって……地面に降りるんです?」
「この赤い所なら多分大丈夫です。それ意外は……穴空いててもおかしくないので危ないですけど」
物置の影なのだか中から滲み出している何かなのだか、それは分からないけれどマスターは鷹羽にボトムスの足元を少し巻いて上げておくことを勧めた。
マスターのボトムスは黒だから何が跳ねてもハッキリ見えやしないだろうが、鷹羽のはジャケットと合わせたスーツだ。下手に何かが飛び散ればクリーニングでも取れない可能性もある。
こういう呪いの中で跳ねた汚れが外まで残るのかは、マスターも知らないけれども。
念の為にと自分から先に地面に降りたマスターは、周囲の木々を見上げて状況を確認した。それから、手首に猫の首輪を巻き付ける。
赤い首輪は、マスターにも一番馴染んだものだ。持ち主も、まるで自分から差し出すようにテーブルに首輪を引っ掛けてパチッと音をたててアジャスターをはめる。
先代と千百合と三人でこだわり抜いて選んだメーカーの首輪は驚くほど軽く柔らかで、人間の手首につけても肌にこすれることもないのが有難い。どうにも肌が弱くてたまに猫のフケでも湿疹が出てしまうマスターにとっては、この材質の首輪は色んな意味で有難いものだった。
こうして身を守ってもらう時のためにも、付けていないくらいに身軽なものの方が有難いものだ。本来は猫のためのものだけれど。
「大丈夫ですよ、鷹羽さん。さっき渡した首輪を身に着けてから降りて下さい」
「首輪……手首でいいですか」
「どこでもいいですよ」
首輪を持ったままだった鷹羽にも身につけるように促してから、マスターは物置のドアに向き直る。
よくある横スライド式のドアは、案の定鍵がかかっていて動かそうとすればガタリと物置が揺れるだけだ。ノロノロと降りてきた鷹羽が別サイドから動かそうとしてみるが、やはり動かない。
「覚えておいて下さい、鷹羽さん」
「はぇ、なにを」
「こういう異常な空間にある開かない扉というのは、鍵がかかっているんじゃなくて封じられているってことです」
エコバッグからペットボトルを取り出して、バシャッと物置自体に水をぶちまける。跳ねて戻ってきた水が顔や服にかかって冷たいが、ただの水だけならそう気にするようなことでもない。
少し心配なのは、エコバッグが段々と軽くなってきていることだ。
足りなくなる、なんてことは無いと思っていたけれど、いざこういう空間に入ってきていると不安にならないではいられない。
表に出してはいけない感情。
不安、恐怖、躊躇。彼らが信頼してくれている「マスター」像を壊さないためにも、起こす行動は的確で落ち着いていなければいけないのだ。
そうでなければ【黒猫茶屋】を預かった身として恥ずかしい。未だに子ども扱いされているというのに、さらに馬鹿にされてしまうようなことは避けたかった。
「ドア、動かしてみて下さい」
「あ、ちょっとあいた」
「もう少しですかね」
跳ねま~す、なんて言いながらもう一度水を物置にぶちまければ、今度はブシュウと音を立てて物置から赤いモヤが立ち昇った。
血煙のような、不気味な色。この世界には2色しかないからこの色なのだろうか。それとも、何かが剥がれてこの色がモヤモヤと飛んでいっているのだろうか。
どちらにせよ、嫌な心地にしかならない。
「なんか、激辛ラーメンとかやってる店もあんな感じの煙出てそうですよね」
「ンンッ」
「ほら、なんか見てるだけで目が痛くなるような」
「わかりますけど、不意打ちやめてください」
もう一度水を撒きながら、不意打ちで笑ってしまったのを咳払いで必死に誤魔化す。
鷹羽はしれっとした顔をしているから意識していないのだろうが、あの赤いモヤを激辛店に例えるとは思わなかった。
本当に恐怖がセーブされているからそんな風に思ったのだろうか。
それとも、こちらが少し困惑したのに気付いてわざとあんな物言いをしたのだろうか?
だとしたら頼られている立場だというのになんとも恥ずかしいことだ。いつでも沈着冷静に。何を思っても表には出さずに。そう心がけているというのに、情けない。
「マスター、ドアもう大丈夫そうです」
「……開きましょう」
深呼吸をして、ちょっと乱れた感情を前髪を撫で付けることで落ち着けて、マスターはドアに手をかけている鷹羽を促した。
中にあるのが何なのかは分からない。いいものでないのは間違いはないだろうが、最悪ではないのだと思いたい。
ここに子どもたちを連れてこなかった理由である「可能性」が、この中には無いと、大丈夫だと、信じたい。
「開けますよ」
取っ手に手をかけたまま動けなくなっているマスターを見てか、鷹羽が横から手を出してマスターの手を剥がしてから自らドアに手をかけた。
あぁ、やはりおかしい。