ドアを横に開いた時、真っ先に目に入ってきたのは中から溢れ出した赤い液体だった。
足元にある赤い影とは違う、明確に液体であるそれは錆のような匂いをさせていて、同時に胃の中がぐるっとひっくり返ってしまうほどに生臭く嫌な匂いをさせていた。
生臭い、と表現をするしかないその匂いは、しかしどこかねっとりとしていて、鼻の中に直接貼り付くようなその匂いに酷い吐き気がして首輪を巻いている方の手で口元を覆う。
血だ。
そうとしか思えないその匂いに、鷹羽は僅かに眉間にシワを刻み、マスターは腹のあたりをぐしゃりと掴んで口元に手をぎゅうと押し付けた。
鷹羽が、血に少しも臆さずに中に入っていく。ザバッと靴ごと濡れてしまうのに躊躇をしないのはいっそ恐ろしく感じるほどで、マスターは慌てて鷹羽の腕を掴んで止めた。
しかし鷹羽の腕を掴んだ瞬間に身体が前のめりになったことで、物置の中がチラリと見えてしまったのは、誤算だった。
物置の中には、色があった。
赤と黒だけではない、マスターたちと同じような現実の色だ。
だがそれを見た瞬間に、マスターはハッキリと全身が恐怖で汚染されていくのを感じていた。
足元の赤い液体の冷たさが足元から上ってくるような感覚に、頭の奥が麻痺していく。見なければよかった。そう感じてしまって、喉元に上がってくる吐き気を誤魔化すことも出来ない。
中にあったのは、この物置の高さよりもずっと高い所から吊るされている女の遺体だった。
首にかかっているのはロープではなくもっと硬質なワイヤーなのか、三分の一くらいは首に食い込んでそこからとめどなく血が溢れ出している。その血を受け止めているのは古ぼけてボコボコになっているバケツだったが、底付近に穴が空いているのか断続的に血が吹き出し、溢れ出す。
その有り様といったらまるで取り外されているのにいつまでも血流が残っている心臓のようで、鼓動と同じテンポで吐き出される血が今自分たちの足元を汚しているのだと理解するのは、とても嫌な気持ちになった。
「……山内理絵さん」
呆然とした鷹羽の言葉に「あぁ」と思ってしまう。
予想があたってしまった。きっとこのワイヤーが括られているのは外の木々のどれかだろう。
この空間では、全てのものが曖昧で、全てのものに境界がない。現実だったらあんな窓から物置までジャンプすることなんか当然出来ないはずなのに出来てしまったのも、この空間に「存在している」のが自分たちとこの物置だけだったからだ。
そんなのは、自分たちに色があるということと、山内の遺体に色があることで、なんとなくわかる。
この世界のものでないから色がある自分たち。なのに、真っ青どころか紫色だか赤だか分からない色になってしまっている山内の体の色はとても鮮明で、靴が脱げて落ちている足には死斑が出始めているのがやけに生々しかった。
何より嫌なのは、バケツの中にある木の人形だ。
鷹羽が見たと言っていたデザイン人形のようなそれとは違い、手足のないただ胴体と頭だけのような、拙くニンゲンの手で造られたようなただの木の塊でしかない、それ。
しかし段々と血を吸い上げ黒くなり始めているその木に書かれている「
キクの本名だ。
最初に教えて貰ったあの子の名前の文字を見て、更に胃の中がぐるぐるとし始めている気がする。不快すぎて、吐きそうだ。
「それって、キクちゃんの……」
「えぇ……」
「ここが、呪いの根本……?」
「……そうですね……」
胃の辺りをぎゅうと握りしめて、脂汗の滲んでいる額の汗を拭う。
数回深呼吸をして落ち着こうにも血の匂いは周囲に充満していて、少しも吐き気がどこかに行ってはくれなかった。
「あぁ……ああぁあぁぁァぁあぁアぁあァァアああぁぁぁあ…………」
不意に遺体から絞り出されたうめき声に、また胃がビクリと跳ねたのが自分でもわかった。腹に直接叩きつけられるような低いうめき声と、足元から立ち昇る血と汚物の匂い。
吐きそうだ。
マスターの様子に気づいた鷹羽が、冷や汗の滲む手を離して背筋を擦る。そんな事をされたら余計に吐き気が強くなるというのに、鷹羽はその辺には気付かずに山内を見上げる。
山内は、泣いていた。
眼鏡をかけたままの、すでに溶けて落ち窪んでいる目から血の滲んだ涙をジワリジワリと流している。
「……さぞ、無念でしょうね」
思わず、唾液を必死に飲み込みながらこちらも呻くように呟く。
無念だろう。悔しいだろう。
恋した男が居るというだけで、彼への想いが強かったというだけで、同じように誰かに恋をしている妹に呪いの源にされてしまうだなんて、普通の生活を送っている人間であれば想像もしないに違いない。
しかもロープどころかワイヤーを使われているなんて、三分の一ほどもワイヤーの食い込んでいる首はそのうち伸び切ってちぎれてしまうことだろう。
こんな事が出来るのは、人間じゃないと言う人は言い切ってしまうような状況。
鷹羽は、じっと山内を見上げながら「そうですね」とだけ言った。読み上げるような、感情のこもっていない声だった。
「なんとかしてあげられるんですか?」
「……あの水を、彼女に……かけてあげて、清めて、あげるんです」
「……わかりました」
マスターの肩から、エコバッグの重さが消える。
鷹羽は受け取ったバッグの中から二本ほどペットボトルを取り出すと、マスターにバッグを返した。
背中にあった手の温度がなくなったことで少し楽になったマスターは、また口元を手で覆って数回深呼吸をしてから自分もペットボトルを取り出してエコバッグを抱え直した。
「あぁアァァぁあぁァああぁあぁぁァぁあぁアぁあァァアああぁぁぁあ…………」
未だ苦しそうにうめき声を上げ続ける山内に近づくには、倉庫内にある足場を利用しなければ届きそうになかった。この中にあるのは複数の段ボールらしき四角い黒い箱ばかりだが、それに足をかけて近付けばなんとか肩辺りには手が届きそうで。
鷹羽が、ゆっくりと水をかけはじめる。
そこから垂れていく水は少しばかり黒さが滲んでいて、まるで呪いが剥ぎ取られていっているような気がして少しだけほっとした。
それを少しの間眺めてから、マスターは彼女の足元にあるバケツを足で動かして流れてくる黒い水が入らないようにしてから、木の人形に直接ペットボトルの水をかけてやった。
頭の上からかけていくと徐々に水が浸透しているのか元の茶色い木肌が見えてくるようで、また胃の辺りをぎゅうと握る。
頭の上から肩にかけ、そこから胸元にペットボトルを向ける。
キクの名前の書いてある部分はまだ色は落ちないけれど、頭部から染みて来る水が上から徐々に黒さを消し去っているようだった。
「マスター、もう一本あります?」
「どうぞ」
エコバッグの中のペットボトルは、あと2本だけだ。予め猫の首輪を静めてある、特別な2本。
そのうち1本を鷹羽に渡して、いらなくなった空のペットボトルを受け取ってバッグの中に戻す。流石にこの場に空のボトルを捨てていく気にはなれなかった。
鷹羽は、水の中に猫の首輪が入っていることには気付いたようだったけれど何も言わずに、中の首輪が落ちないように手を当てながら山内理絵に水をかける。
そうしていくうちに。床の赤が山内理絵の身体から落ちていく黒い水で徐々に相殺されていく。
黒い水で赤が透明になっていく理論は分からないけれど、彼女から流れていく血液が水になることで浄化されていっているのだろう。
最後の一本を鷹羽に渡す頃には物置の赤の半分がもう透明になっていて、そこから見える床は黒でも赤でもなく、恐らくは元の物置の色なのだろう濃い茶色をしていた。