うとうとと波間を揺蕩うような眠りから覚めた時、キクの目の前に居たのは安心した表情をしているマスターだった。
一体いつの間に眠ってしまったのかも分からないキクはびっくりしてきょとんとしてしまったけれど、マスターが部屋の外に声を掛けるとすぐに駆けつけた犬飼の顔をみて本当に、本当に安心した。
手を持ち上げてみればあれだけ真っ黒だった手は元の色に戻っていて、少し爪の先が欠けているだけで他には何の変化もない。
起き上がってぼんやりと手を眺めていたら、犬飼が突然抱きついてきてわんわんと泣き出した時には本当にどうしようかと思ったけれど、続けて顔を出した鷹羽から
「キクちゃん、4日間寝てたんだよ」
と言われては納得しないわけにもいかなかった。
4日。今が夏休みでなかったらどうなっていたことか。
冷や汗をかきながらキョロキョロと大人たちを見回していると、二人は「親御さんにも連絡はしておいたから」と言う。
親御さん、という言葉に、胸がキュッとなる。キクの両親は、キクのことなんかを気にするような人たちではない。キクが何日家に戻らなくっても、無断で学校を休んでも一切何も言ってこない人たちだ。
そもそもあの人達こそ、家に戻ってきているのかどうか。
遠くご近所の噂で両親ともに別の家庭で暮らしていると聞いたこともあるが、その真偽すらキクは知らない。どうでもいいから、自分が生活出来るだけの金を出してくれているのならばそれでいいと、そう思っていたのだ。
だから、そんな両親に連絡を入れられたのは、ちょっと困る。
きっと他所様から連絡があった、というだけであの両親は怒り出して、キクを家に連れて戻ったなら怒りに任せて暴力だって振るうだろう連中だ。
家に連れ戻されたら、困る。
「大丈夫だよ、キク」
「……?」
「ここは黒猫茶屋だし、マスターが連絡をしたのは、ウチの両親のことだよ。お前の血縁上の両親にはなんの連絡もしてない」
「え?」
「凄い心配してたよ、ウチの親。お前のこと。でも、マスターと話して、ここに少し泊まっててもいいってさ」
お前の家、電気止まってるみたいだから。
言い難そうにそう言った犬飼に、少しだけ納得をした。
そういえば、あまり気にしていなかったけれど最近電気が点いていなかったような気がすると、ここで気がついたのだ。お風呂は入れば水は出たので、季節柄そこを気にしたこともなかった。
でも、そうか。あんなに汗が出たのはエアコンがつかなかったからで、犬飼が頻繁にここに連れてきていたのは、それを知っていたからなのか。
なんで自分よりも自分の家について詳しいんだろうとぼんやりと思ったけれど、犬飼ならば知っていてもおかしくはないな、という気持ちになる。
犬飼は、彼の言う「キクの血縁上の親」の事をよく知っているからだ。
そして彼の両親は「キクの血縁上の親」よりもずっとずっと、キクの事を心配してくれているのを、キクも知っている。
「……あの黒い呪いはどうなったの」
「アレはもう大丈夫。オレとマスターで呪いの根本を壊してきたから、キクちゃんにはもう影響はしないよ」
「呪いの……根本……」
「そう。キクさんがあの栞を貼ってマーキングしてくれた、あの木の人形です」
木の人形。そう言われて、キクは無意識に身体をビクつかせていた。
あの時、犬飼と一緒に自分にちょっかいをかけてきた学生たちを思い出してしまう。あんな風に絡まれるのにはもう慣れていたけれど、あの木の人形に触れたのは凄く嫌で、凄く、怖かった。
アレを、壊してくれたというのか。
マスターを見上げれば、マスターは「キクの血縁上の親」である母よりも、父よりも、ずっと優しい顔で微笑んでくれた。
「キクさん。あの呪いはね、人から人へと伝染して行く呪いなんです。そして、その呪いは、深い人間の執念や愛憎から産まれてしまうものだったんです」
「執念や……あいぞー……?」
「愛や憎しみ、ってことです。愛情も、ひっくり返せば憎しみになってしまうくらいに深い感情だということですね」
キクの手を己の両手で挟んで撫でながら、マスターはキクにゆっくりと話して聞かせた。
あのあと鷹羽と共に向かった「キクの呪いの人形」があるべき場所に「呪いの根源」があったということ。鷹羽と共に、それを浄化したということ。
呪いの根源を発生させた今回の元凶である「誰か」が狙ったのはキクであり、今頃は呪いが跳ね返されて自分が苦しんでいるだろうということ。
そしてそれは、決してキクの責任ではないということ。
「黒い部屋の呪いは、そもそもキクさんを呪うためのものではなく、呪いの儀式として誰かが使い、伝播していくものなんです。黒い部屋というそのものは、キクさんには何の関係もない。だから、今回の呪いの元凶を断てば、もうキクさんには何の影響もしないでしょう」
「……本当に?」
「えぇ。本当ですよ。呪いというものは使う人間が居て、その人間が呪いたい相手が居ることで発生するもの。その使う人間が死んでしまえば、自然と消えてしまうものなんです」
じゃあその「キクを狙った人」というのは誰なんですか、と聞こうとして、キクは口を閉ざした。
きっと聞いても良いことは無いと思ったし、自分のことを嫌う人間なんていくらでも居ると知っているからだ。たくさんいる人間の中には、多分本気でキクの事を邪魔に思っている人間だって居ることだろう。
例えば、犬飼のことが好きっぽかったあの、名前も知らない派手な少女もそうだろう。中学から一緒だったらしいが、何度聞いても名前を覚えることが出来ないでいるあの少女。
あの少女こそキクの事を憎んでいる筆頭であって、キクを呪い殺したいと五寸釘を打っていてもおかしくはないなと、キクは思っていた。
かといって、自分にはどうしようもないことなのだけれど。
「キクはもうあの黒い部屋に何もされない、ってことですか?」
「そうですね。悪いものは潰してきたので」
「悪いものって?」
「呪いの根源のことですよ」
いつも通りの笑顔で答えをはぐらかすマスターに、犬飼もそろそろ「聞かない方がいい」こともあるということを理解し始めるだろう。
キクはもう、本当に、どうでもよくなっている。
誰に嫌われようが好かれようが、どうせその感情はすぐにひっくり返ってどうでもよくなってしまうものなのだから。
犬飼は不満そうな顔をしたけれど、マスターはにっこりと笑ってから一冊の本を取り出して二人の前に置いた。表紙にも何も書かれていない、文房具屋にでもありそうなハードカバーではあるけれど中身も何も書かれていないノートのような本だ。
はてこれは何かとマスターを見ると、「触って下さい」と促される。一体何事かと思いつつも言われた通りにキクが本の表紙に触れれば、果たしてツルツルしたハードカバーの表紙がキクの指先から滲み出した黒で染まっていったのには驚いてしまった。
それでも手を離す気にはなれなくてぼーっと表紙が黒く染まっていくのを見ていると、やがて表紙には赤い文字で
【黒猫茶屋と黒い部屋】
というタイトルが浮かび上がる。
「マスター、これも記録?」
「そうですね。一応、普通は経験してはいけないものなので」
「な、なんですかこれ……?」
「犬飼さんも、手を乗せてみて下さい」
一体何が起きているのかわからなくてオロオロしながらマスターと鷹羽を見ていると、二人はなんでもないかのような顔で犬飼にも本に触れる事を促す。
犬飼もまた一体自分が何をさせられているのかわかっていない表情で、それでも促されるままに本の表紙に手を乗せる。
と、今度はぽんとインクで判を押したように年齢にしては大きな手のひらが表紙に描かれた。
「これで、終わりです。君たちはもう、元の世界に戻ってもいいんですよ」
その手のひらの痕を見てから、マスターがいきなりそんな事を言った。
びっくりしてマスターを見ると、本当に優しい笑顔で自分たちを見ていて、キクは、そんな表情をしてもらったのは過去に一度しかなかったから、だから、どうしていいのかが、わからなくなってしまった。
おつかれさまでした、なんて、そんな事。
そんな優しい声で、優しい事を言ってくれるなんて、そんなの、そんなのは、
「ます……たぁ……」
「怖かったですね。でももう、大丈夫ですよ。お家に帰れば、全部が終わりますから」
「うぅ、うえぇえぇんっ」
「よく頑張りましたね……もう大丈夫ですよ」
大人の男の人の腕に飛び込んで泣きじゃくるなんて、キクには初めての事だった。
過去に、自分を見捨てた両親のせいで「臭い」と悪口を言われ、好きな人の家でお風呂を借りたことがあった。恥ずかしくて恥ずかしくて、べそべそと泣きながらなんとかかんとか身体を洗っていると、彼のお母さんが髪や身体を洗うのを手伝ってくれたのだ。
『よく頑張ったわね』
そう言って、耳の後ろまで洗ってくれて、可愛いワンピースを着せてくれた。
生まれて初めて着る女の子らしい洋服に、初めて自分が女の子だっていう事を自覚して、けれど成長するにつれて自分がどんどん恥ずかしい人間に思えて、その男の子とも疎遠になっていってしまった。
それでもずっと、あの時のワンピースは大事に大事に持っている。
好きな男の子が初めて「かわいいね」って言ってくれたワンピース。
アレによく似た服を探せば、彼はまた「可愛い」と言ってくれるだろうか。
女の子である自分を毛嫌いしていた母に、スカートなんて一度も履かせてもらえなかったけれど、今はもう好きに生きてもいいんだろうか。
ぎゅっと手を握ってくれる手は自分より大きくてあったかくって、まるで「大丈夫」と言いたげに力が強く入っていた。
「一緒に帰ろう、キク。今度はちゃんと、僕が君を守るから」
あんな人たちをお前の両親なんて言わせないよ、なんて、その言葉の頼もしさったらない。
またぼたぼたと泣き始めてしまったキクの頭を鷹羽とマスターが撫でてくれる。
悪夢は終わった。
生まれて初めて、そう思えた瞬間だった。