興奮状態だった若者たちが再び眠りに落ちていくのを確認してから、マスターは二人にそっとタオルケットを掛けてやって本をそっと胸に抱いて部屋を出た。
向かう先は、古書店側だ。鷹羽もそれがわかっていたのか、古書店側の通路の途中に座り込んでマスターを見る。
「色々言わなくていいんですか、あの二人に」
「いいんですよ。あの部屋の中であったことは、そのうちあの二人の記憶の中からは消えていくものですから」
「え? オレも?」
「いいえ、貴方は後片付けに関わってしまったので、無理だと思います。それに……」
忘れるのは、元凶と生贄についてですよ。そう言ったマスターに、鷹羽は苦虫を口の中に放り込まれたような表情をして黙り込む。
二人は知ってしまっている。
あの【黒い部屋】を作ったのは犬飼に想いを寄せていた一人の少女であり、生贄にされたのは鷹羽に恋するその姉だということを。
しかし彼女たちのことは、【黒い部屋】の中で片付ければ外にまでは影響してくることはないだろう。中に入った人間が外の人間の記憶から一時的に消えるように、両親や親友といった余程関わりの強い人間ではない限りはこの4日の間に記憶から消え去っていることだろう。
もし消えていなくても、学生の夏休み中にはきっと「居なかった」ことになっている。
彼女たちは、手を出してはいけない世界の中に飲み込まれてしまったのだから。
それに、忘れられるなら忘れるに越したことはないと、マスターは思う。あの二人に表紙だけ見せて中身を見せなかったのは、それが理由だ。中身を読んで下手なことを思い出されればあの二人も「コチラ側」の人間になってしまう。
「鷹羽さんも、今ならまだギリギリ間に合いますよ」
「…………は?」
「これを飲んで、今すぐにここから去って、僕の連絡先を消して、二度とここには来ない。それだけで、ほんの一ヶ月程であなたは元の世界に戻れる」
マスターが鷹羽に差し出したのは、いつものように補充されたあの水の入ったペットボトルだ。
鷹羽は神妙な面持ちでそのボトルを受け取り、キャップを外したり何をするでもなくチャプチャプと揺らしている。
マスターは鷹羽の足を跨いで古書店に入ると、水音を聞きながら【黒猫茶屋と黒い部屋】を「貸本」に収めた。そこそこの分厚さのある本は、さぞ読み応えのあることだろう。
正直に言えば、鷹羽が元の世界に戻れるかどうかはマスターにも確証が持てない。鷹羽は元々霊感のようなものを持っているようであったし、そうなればマスターよりも元々「コチラ側」に近い存在だったかもしれないのだ。
そんな鷹羽が元の世界に戻るのは、そこそこの難題かもしれない。それでも、マスターの所に来なくなれば自ずと「これはそういうものだ」と勝手に納得をして、そうやって元の人生に戻ることが出来る。
今までマスターの前に現れた人間も、誰もがそうやって元の人生に戻っていったのだから、鷹羽にだって不可能ではないはずだ。
あとは時間が解決してくれる。
だから、大丈夫。折角同年代の友人が出来たが、まぁそんなものは元々居なかったと思えば惜しくもないものだ。
折角出来た同年代の友人だからこそ、平和な人生を歩んで欲しい。そういう気持ちも、勿論あるわけだし。
でも、出来れば鷹羽はできるだけ早くもとの生活に戻るべきだと、マスターは思っていた。
黒い部屋の元凶である山内理絵の遺体を目にした時、鷹羽は驚く程に冷静だった。
吐き気を覚え正視することも出来なくなっているマスターよりも「こういった事」に対する経験値は少ないはずなのに、まるで慣れきった仕事人であるかのように対処をしたのだ。
あの恐ろしい山内の悲鳴を聞いても動じる事もなく、感情の一切すら切り捨てたような声色で動いていた鷹羽。
その姿は、つい先日まで轢死体の幽霊に遭遇して悲鳴を上げていた彼とはまるで違う姿だった。
彼はそのまま山内の消滅までを見届けると、徐々に解放されていく【黒い部屋】の中から難なく脱出して見せた。元のD組までマスターの腕を引いて走り、【黒い部屋】の消滅に伴って呪いが消えていくキクと犬飼が失神しているのを見ても何も言わずに二人をかばいながら、あの学校が元の世界に戻るのを黙って待っていた。
アレは……あの存在は、このままこの世界には関わらせてはいけない。
このままここに関わり続ければ、きっと彼は戻ってこれなくなってしまう。
自分がこの世界に引き込んだようなものだというのは分かっているけれど、まさか鷹羽がここまで適応出来るようになってしまうとは思わなかったのだ。
【黒い部屋】がいけなかったのか、それともその生贄が彼に想いを寄せていたのが悪かったのか――とにかく鷹羽は、ほんの一ヶ月程の間に驚く程に心霊現象を「受け入れて」しまっている。
元々はあんなにも、半泣きになって、叫んで、逃げ回るような人なのに。
マスターは、「貸本」のラベルがつけられた棚にある本を見上げて、一つ溜め息を吐いた。
この「貸本」にある本は、マスターが蒐集してきた「この世界に一歩足を踏み入れてしまった人間の記憶」を文書化した本たちだ。彼らの記憶を抜き出してこうして本に仕立てる事で、彼らは元の世界に一歩戻る事が出来る。
勿論繰り返してしまう人間もいるけれど、本人が望んで関わろうとしなければそのうち波は去るものだ。
でも鷹羽は、きっと自分と関わっている限りは抜け出す事が出来ない。彼はとても優しい人だからだ。
「マスターは、なんでこういう事を続けてるんです?」
カタン、と、置いてあった下駄に足をつっかけて、鷹羽が古書店側に入ってくる。
いつもはなんとなしに自分で履いている下駄の音にハッと我に返ったマスターは、下駄のおかげでほとんど目線の変わらなくなった鷹羽を見てから、目を伏せて、また棚を見た。
この中に幾つマスター自身の本があるか、鷹羽は知らぬ事だ。
「……僕はもう、戻れないので」
「戻るって?」
「こっち側には居場所がなかった。それだけなんですよ」
居場所があったなら、自分だってそこに居たかったと、マスターは思う。
元々マスターはそこそこ怖がりな方だ。幽霊沙汰は平気だが血液は苦手で、たまに千百合が喧嘩して血を出して戻ってくると血の気が引いてしまう。
今回の物置は、本当に困った。アレが幻覚であったなら匂いなんかはないはずなのに、見事に匂いまで再現された空間は吐き気どころじゃなかったのだ。
「マスターは戻れないのに、オレは戻れるの?」
「戻れますよ。まだ」
「……ふぅん」
変なの、と鷹羽は言う。それでも、そういうものなのだ、としか、マスターには言える事はなかった。
例えば、日本のホラー映画でよくある終わり方に「この人たちはここから逃げ出してもう戻っては来なかった」というものがあるが、今回もそういう類なのだ、としか言いようがない。
呪いにかかって死亡してしまって「そして誰も居なくなった」というオチであったり、元凶となる土地から逃げ出したり、呪われた人間だけを見捨てて逃げたり……そんなのは、コチラの世界では当たり前の対処方法なのだ。
存在しない存在にとって、一番欲しいものは「存在感」だ。
それを幽霊と例えるのであれば、魂だけになった存在が欲しいのは肉体。
鷹羽には、それを当たり前に感じるような世界に入ってきてほしくないと、思う。
マスターは、店の中から一冊の薄い本を取り出すと、すぐ隣に立っている鷹羽の額にトン、と当てた。一体何事かと本を見上げる鷹羽は、しかしハッとしてその本に触れる。
「これって」
「えぇ。前回貴方のエピソードを吸い取った本です。今回も、入れておこうと思って」
「なんか、前より分厚くなってません?」
「それは、貴方が新しい経験をしたからだと思いますよ」
そっかぁ、なんて普通に言っている鷹羽は、さっきマスターが突き付けた選択なんかはもうすっかり忘れてしまったかのような表情だ。
その表情を見て、やはり彼は「普通の人なのだ」と思う。
それでいい。コチラ側に来る人間は、そんなに多くない方がいい。
にゃぁん、と、カフェ側で猫の鳴く声がした。
「〝鷹羽雪緒〟さん」
「はい?」
「……さようならを、しましょう」
は? と鷹羽が首を傾げる前に、猫の声がする。
その鳴き声が消える前に鷹羽の目から色が消え、彼の手を掴んでいた千百合が、ズルズルと座り込んでいく鷹羽の事をジッと見ている。
これで元に戻る。
にゃあん、と鳴く黒い影に視線を向けてから、マスターは小さく息を吐いた。