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日本の北にて

第49話 粗筋

 いつもと変わらぬ帰り道だったはずだった。いつもの満員電車。いつものしっとりした電車内の空気。夏の暑さに冷房が負けて汗が流れる夜の車内で、彼はいつもとは違うものと遭遇する。それは、今まで一度も見たことがないもの。だが彼は本能的に、それは見てはいけないものであるという事に気が付いた――



 いつもと変わらぬ日常だったはずだった。見てはいけないものからは目をそらし、変化のない日常の中に小さな楽しみを見つけながら生きていく自分に満足もしていた。だというのに、ソレは着実に近くに居る。見てはいけない、視てはイケナイのだと分かっていても、知らないフリをすることはもはや、出来なかった――



 いつもと同じ日常は、ある日突然瓦解する。噂に都市伝説、拡散されていく何の気のないただの言葉は、しかし確かに人々に認識されていった。黒い部屋の中で、その子供は涙を流す。出して欲しい、助けて欲しい、自分は要らない、誰も求めない――悲しい叫びは徐々に自己への否定へ繋がり、誰もが末路と混ざって消える――



 人々の笑い声の影で、黒き部屋は飲み込んでいく。人の願い、執着、欲望――人間が必ず持つそれらを黒い扉は飲み込んでいき、末路は肉体を求め彷徨う。失った肉体は肉塊となり、魂は人形となる。その前に手に入れなければいけない。開ける者を、視える者を、欲ある者を。



 黒き部屋は飲み込んでいく。希望、願望、愛情、友情、その全てを飲み込んで、咀嚼して、己の栄養にしてしまうのだ。それを知らない者たちはほんの戯れのように扉に触れ、部屋を呼ぶ。嫌いだからと、憎いからだと、愛しいからだと、欲しいからだと叫びながら扉を開いた者は、やがて黒く染まるだろう。では、そうではないものは一体どうなってしまうのか――それはまだ、誰も知らない。



 憎悪が、怨嗟が、嫉妬が、憤怒が、その手を血に染めさせる。手が赤に染まった時、自らもまた黒に呑まれていることを、知ってか、知らずか――







【いつもと変わらぬ日常だった。いつもと変わらぬ世界だと思っていた。しかし世界は知らぬ所で変様し、その世界は日常を拒絶する。しかしその拒絶は果たして世界からの拒絶であるのか。それを知らぬままに、世界はいつでも変わっていく。赤い夕日は同じあかか。青い海は同じあおか。誰かが問いかけ、誰もが答えぬその問いを。お前はいま自分に問う事になるだろう。】



ピリリリリリリリ

 ピリリリリリリリ

  ピリリリリリリリ


 不意に音をたてたスマホを何となく手にとって見ると、スパムメールなのか中身が空のメールが届いていた。

 最近こういう事が多くって、なんだかうんざりしてしまう。

 はぁ、と溜め息を吐くと、その場にうずくまるように熱気をはらんだ溜め息が膨らんでは落ちた。熱気と湿気でうだる夕方の都心は本当に嫌な心地がして、何となく駅でもらった旅行のパンフレットがあっという間に手汗で歪んでしまった。

 そろそろ出版社の繁忙期も終わるからと、折角なので連休を利用して何処かに旅行でもしようと思い立ったのは、なんでだっただろう。

 そうだ、繁忙期が終わるから、そう思ったんだ。

 いや、だからってなんで旅行に行こうと思ったんだっけ。

 そう、繁忙期が終わるから。

 同じ質問と回答をぐるぐると頭の中で繰り返し、これは駄目だと思って駅の構内にある自動販売機でスポーツドリンクのペットボトルを購入する。

 青と白のラベルが透明なペットボトルに巻き付いているそれは、飲む点滴とも言われる程のもので夏場にはよくお世話になっているものだ。

 風邪をひく前兆があると必ず冷蔵庫に500ミリのペットボトルを何本も入れておくし、夏の盛りには箱買いをして常温で置いておくこともある。それくらいには、このスポーツドリンクには絶対的な信頼をおいていた。

 最近、何か飲んだらスッキリするドリンクを飲んだ気がするのだけど、どんなラベルのものだか思い出せなくてモヤモヤする。

 ここ数日真面目に考えているのだけれど、思い出せない。

 そのくらいには、夏の編集部は暑いし仕事は多いしで大変なのだ。

 この季節に大きなコンテストがあるというのもそうだけれど、コンテストの読み込みが終われば今度は自分のおすすめの作品を会議に持っていっての大論争が始まる。

 この作品のここが凄い、ここがいいととにかく推しを語りまくり、作家に受賞歴があるならばそれもまたアピールポイントにする。

 一度その会議を終えれば他の人の出してきた候補作をまた読み込み、似たような作品があったなと思って別の作品を読み戻し、新しく発見した一度は読んだはずの作品をまた読み返して、を繰り返せば、次の会議に出てくる候補作は一気に様変わりしている、なんて事もある。

 だって、どうしても最後の方で読んだ作品の方がこういう時には有利なのだ。

 何しろ記憶に残っているので。編集部はみんなグダグダに脳みそを使いまくっているのだから、最終的に候補に残るのは余程インパクトがあった作品か、そうでなければ最後の方に読んだ作品の中で「良かったもの」かだ。

 別に真ん中の方で読んだ作品をないがしろにしているわけではない。

 ただ、もうみんな暑さと眠さと疲労で脳みそがやられてしまって、そこにさらに「提出期限」なんてものが追い掛けてくるので結局一番手近なものを持ち寄るしかなくなってしまう。

 そうして第一回目の会議は開催され、二回目の会議には読む数が減って少しだけ余裕が出来るので真ん中あたりの「よかった」リストから引っ張ってきた作品を読み返し、ようやく最初の方に読んだものにスポットが当たる。

 応募してくれた作家の皆さんには申し訳ないが、この編集部ではこの作業は夏の恒例行事のようなものだ。

 最終的には一定のクオリティを突破していれば複数いる編集者の誰かしらの目に入るので、最後の方の作品だけが選ばれる、なんてこともない。

 ただただ、コンテストの締め切り直後はみんなの脳みそが溶けている、という、それだけの事だ。

 けれど今年はどうにも、今までよりも疲労感が強いなと、電車に乗り込みながら思う。

 ベコベコになったパンフレットで仰いでも漂ってくるのはねっとりとした汗臭い風ばかりで少しも涼しくなくて、仕方なく鼻呼吸をしないように耐えながら「次はなんとか駅」とか書かれている文字を眺める。

 本当に、今年はなんだか、しんどい気がする。

 毎年夏にはお気に入りのスイーツを冷蔵庫に入れておいて、帰宅をしたら真っ先にシャワーを浴びていそいそとそれを頂くのが習慣だったはずなのに、今年はそれがない。

 もうすぐ夏も終わるはずなのに未だにお気に入りのスイーツを見つけられていないから、疲労が抜けないんだろうか。

 じっとりと首筋を垂れる汗がワイシャツの襟を濡らして、物凄く不快な気持ちになる。

 最近は昼休みにも編集部に缶詰なので、息抜きをする場所もない。折角の昼休みくらいどこかで息抜きが出来れば少しは気が休まるのだろうが、あのオフィス街にはそういう場所もほとんどないので、たまに近くの電気屋を冷やかすくらいしか気晴らし出来る場所がなかった。

 それに、別の編集部の部屋のエアコンが壊れているのも、今年の夏の最悪な所だ。

 お陰様でいつも使っている作業机に更に補助机がくっつけられ、いつもより人口密度の高い部屋で作業をしているのでエアコンの効きが悪い。

 エアコンが壊れるのは誰が悪いという事もないのだけれど、なんともタイミングの悪いことだと思う。

 直るまでには一週間ほどかかるというのも最悪だ。その間にやらなければいけない仕事は、こちらにはいっぱいあるというのに。

 なんか、つるっとしたほのかに甘い物が食べたい。

 ゼリーとか、なんかそういう感じではなくて、なんだろう……喉越しがいい感じのものがいい。

 何でこういう時って具体的なものが浮かんでこないのだろうかと、悔しくなる。暑いからだ。わかっている。


 そうだ、帰りにアイスを買って帰ろう。

 コンビニで買えるお財布に優しいサイダー味のものと、チョコミントのカップのものがいい。みんなの評判はよくないけれど、チョコミントは大好きだ。

 かといって以前食べたバニラミントとかいうアイスはあまり美味しく感じなかったので、チョコは偉大なものだなと思ってしまう。

 地元の駅に戻ってきて、ホームで「うん」と背筋を伸ばす。

 途端に、襟元から背中に流れていくひんやりした汗の感触にワイシャツを拳の背で叩いて吸収させた。

 そうすると、なんだか背中を冷たい手で触られたような心地になって凄く不快で、鷹羽雪緒は「早く夏終わんねぇかなぁ」なんて独り言ちながら改札を抜けた。

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