あの日、雪緒は両親に付き合って一緒に車に乗った。
理由は簡単な事で、あの日発熱した子供が雪緒によく懐いていたからだ。熱で苦しいのか泣きわめく子供にオロオロしている母親を雪緒の母が宥め、子供の方は雪緒が宥めていた。
この町の中ではこういう相互補助は当たり前の事。調味料だとか米の貸し借りなんかは当たり前にある事だったので、雪緒も彼女を助ける事に何の疑問も持たなかった。
兎に角その時は、自分に懐いている子供が泣いているのが可哀想で、助けてあげなければいけないと思ったから一緒に車に乗ったのだ。
そして、両親は病院についた時「お前は車に乗っていなさい」と言った。
時刻はもう深夜も深夜だったので雪緒も眠たくって、車で寝ていていいのなら寝ていようかなと後部座席に横になろうとした、その時だ。
いきなり視界が真っ白になって、びっくりした直後にぐしゃっという音が聞こえた。
何の音だろう、と思うよりも前にクリニックの壁が壊れて、「え?」という自分の声が随分と滑稽に聞こえたものだ。
奇跡的に雪緒の乗っていた車を回避してクリニックの壁に激突したトラックは、両親を巻き込んで潰してしまった。
雪緒が車の中からトラックを見た時に首を上に上げなければいけないくらいに大きな車輪の車だったので、そんなトラックと壁に挟まれた両親は生きていないだろうと察するのはあまりにも簡単だった。
外ではあの子供が泣いていて、その母親は甲高い声で悲鳴を上げ続けていて、クリニックの奥の自宅からやってきたのだろう医師も大きな声をあげていた。
看護師さんだったクリニックの院長の奥さんが車の中に居る雪緒に気付いて引っ張り出して抱き締めてくれて、ようやく雪緒はその光景が現実だとわかったくらいの、非現実的な光景。
トラックの運転手が、頭を抱えてその場に蹲って謝罪をしていた。
両親は、雪緒の目ではもう、母の真っ白な腕が半分の薄さになってぶらぶらとしているのだけしか、見えない。
その時雪緒は「あぁここに妹が居なくて良かった」と、思った。ただそれだけしか、思わなかったのだ。
それ以来、雪緒はその日の事を思い出すのをやめていたように思う。自分がその場に居たのではなく、まるで誰かが見ていたかのように思い出し、語る事が多かった。
トラウマになったのだという大人は居た。大人になった今でも、そうなのだろうと雪緒は思う。
けれど、不思議と今思い返してみるとそう恐ろしくはないというか、まるで他人事のように思えるのだ。
まるで、あの日の雪緒の記憶を背後から見ているだけのような、今の自分とは乖離してしまっているような感覚。
最近はそういう事が多いなと、雪緒は思う。
両親の墓に花を供え、妹と一緒に手を合わせる。
しかし、手を合わせてもあまり話す事がないなぁ、なんて思ってしまう。報告をする事だって、やはり無い。
最近は仕事しかしていなかったし、仕事をしていても特筆して楽しい事とか面白い事がなかったりもするので、何を話せばいいのかさっぱりわからなかった。
最近はどんなお菓子が好きとか、最近はどんな本を読んだとか。
数年前に来た時には色々と報告したい事があったはずなのに、それさえもない。何かあったような気もするけれど、霞がかったかのようにように思い出す事が出来ない。
思い出したいと思っていた、ような気もするのだけれど、どれだけ考えても思い出せないのでやがて思い出す事はやめた。
それがなんだか嫌で、溜まりに溜まった有給を消化する名目で田舎に戻ってきたのだ。
このまま田舎に引っ込む気はないけれど、暑さのせいか疲労のせいか、東京でじっとしていると色々と考えてしまって駄目だった。
無くしたものを取り戻したい、なんて、その無くしたものが何なのかもわからないくせに。
「お兄? ちゃんとお父さんとお母さんに挨拶さした?」
「したよ。ただいまーって」
「そんだけぇ?」
「他に何か言う事もないでしょ、普通」
「お兄のはくじょーもーん」
ケラケラと笑いながら、妹も手を合わせてじっくりと何か話をしているようだ。
こういう、墓石に向かって語りかけるという文化は日本独特のものなのだろうか。海外でも墓石というものはよく見かけるけれど、今のようにじっくりと手を合わせて時間をかけて対話する、という姿はあまり見たことがないように思う。
知らないだけ、なのかもしれないけれど。
両親との対話をする妹の赤色の背中を、何となく麦わら帽子で影を作って隠してやる。昼過ぎの日差しはどうしても強いし、それは北の方にあるここでも変わらない。
妹は夏場の日焼けなんかは気にしない! なんて言っているが、もう少し気にかけてもいい年頃なんじゃないだろうか。
ふぅ、と息を吐きながら空を見ていると、トンビが飛んでいくのが見えた。
――いや、この辺にトンビなんか居たっけか? あんまり真っ直ぐ空を見上げたことなんかはないので、もしかしたらトンビではないかもしれない。
まぁ、どうだっていい。どこでどんな鳥が飛んでいようが、雪緒には関係のない話だ。
「お兄~。こんなトコに居たのっ」
そのままぼんやりとしていると、階段の方から妹の声が聞こえてきた。
ポニーテールをお団子にして、目に痛くなりそうな白色のTシャツにジーンズの短パンを履いているその姿は、まさに田舎の夏休みそのものだ。
しかし、ハッと息を呑んでぼんやりと持っていた麦わら帽子を胸元に引っ込める。
そこには誰も居なくって、砂利を少しだけ踏み崩したような痕跡だけが残っていた。
「は?」
「なに? 熱中症にでもなった?」
「いや、なってないけど……お前、さっきまでここに居なかった?」
「何でさ。お盆のお参りはとっくに済ませてるよ。朝の挨拶はお仏壇にしてるし」
「そ、そう……だよな」
「お兄は挨拶に来てたんだね。声かけてくれてもよかったんに」
「いや……朝早かったから」
ごにゃごにゃと言い訳をして、ぴょこんと墓石の前に座り込み「おはよーおとうさん、おかあさん」と挨拶をする妹をなんとなしに見守る。
さっきまでここには妹が居たはずで、雪緒は彼女を守るためにこの麦わら帽子を脱いだはずだったのに。
もしかして彼女の言う通りに熱中症にでもなっていたのだろうか。
持っていたタオルを頭にかぶってから麦わら帽子を上からかぶって、カブに乗っても飛ばないように麦わら帽子の紐を結ぶ。
子供の頃はこの紐が嫌いで仕方がなかったけれど、大人になると脱げる方が面倒でこの紐をきっちり結ぶようになった。
カブに乗る時は更に重要だ。カブに乗っている時に風に飛ばされてしまったら、追いかけるのがとても大変なものだから。
そんなどうでもいい事を考えながら、妹の背中からは視線を外さずにじっと見る。ちょっとだけ浮いている下着のラインに、お前はそれでいいのかと言いたくなったが、セクハラだと蹴られるだろうから言うのはやめた。
さっきのはなんだったんだろう。
もしこのお墓に来てからだけの現象であったなら、雪緒も「誰かに馬鹿にされたかな」なんていう思いだけで済ませただろうが、妹とは一緒にカブに乗って山の下まで着て、階段も一緒に上ったはずだった。
背中にくっついてきた妹の腕の感触も覚えているし、流石に家からここまでの間に熱中症は有り得ないだろう。
なのに、なんでだ。
俺は今、何を見たんだ?
「お兄、まだお話さする?」
「いや……もう帰るよ」
「じゃあ途中でアイス買って! おばちゃんのお店で!」
「あー……まぁ、いいよ」
やった! と飛び上がって立ち上がる春風を視線で追い、先に階段に向かう妹の背中を負う。
その時、不意に背中に突き刺さるような視線を感じて雪緒は振り返った。見えるのなんかは墓石と、柵と、その向こうに広がる山と町並みくらいのものだ。
視線を巡らせても、他に誰かが居るはずもない。
しかし、さっきまで春風が居たはずの墓石の前には、見覚えのある使い古されたシュシュが落ちていた。