「何味にしよっかなー。王道のバニラ……いや、チョコミント……」
駄菓子屋の店先にあるアイスケースを覗き込みながら、春風がうんうんと唸っている。そんなに悩まなくても100円そこらのアイスなんていくつでも買ってやるのにな、とは思うが、幼い頃に祖母から「一人1個よ」と言われ続けてきた名残りなのだろう。
大人になれば一度に何個アイスを食べたってそうそう腹を下しやしないが、雪緒はその寒そうな名前に反して子供の頃はよく腹を下す子供だった。
特に衣替えの直後なんかはよく腹を痛めて母親に泣きついて、母は雪緒の腹にバスタオルを巻いてから「大丈夫大丈夫」と撫でてくれたものだ。
あの手が大好きで、お腹が痛くなくても母に泣きついた事もある。
あれはきっと母にはバレていたのだろうけれど、きっと母は分かっていて受け入れてくれていたのだろうと、今は思う。
男の子はある程度の年齢がすぎると素直に母に甘える事が出来なくなるものだ。
雪緒も例に漏れずそういう子供で、特に妹が腹に居る頃になると母に甘えるのが本当に苦手になってしまって、それでも母に甘えたい時は勝手に愚図って一人で部屋の隅っこで泣いていたりもした。
子供というのは感情の制御が本当に出来ないんだよな。
当たり前の事を思いながら、アイスを選ぶ春風を見守る。
雪緒が持ってきた麦わら帽子は、今は妹の頭を守っていた。ここの暑さは東京の暑さに比べたらマシだし、流石にまだ未成年の妹を夏場に帽子なしで歩かせるのには抵抗があったからだ。
甘やかしすぎ、と、近所の幼馴染みは言うが、仕方がないだろう。
だって、両親を失ってからは祖父母と雪緒で妹を育ててきたようなものなのだ。
特に雪緒と妹には9歳の年齢差がある。小さな妹の存在は両親を失ったばかりだった頃の雪緒にとっては大きな支えであり、自分は死ぬ事が出来ないなと思う大事な楔だったのだ。
「お兄決めた、バニラにする!」
「おー、じゃあ俺のチョコミントと一緒に買ってきて」
「一口ちょうだいね」
「お前ね、そろそろ兄は異性って事を覚えなさい」
「異性の前に家族だもんっ」
カップのバニラアイスとチョコミントの棒アイスを持って、春風は「おばあちゃーん」と元気な声をあげながら駄菓子屋の中に入っていく。
この駄菓子屋のおばあちゃんは雪緒が子供の頃からおばあちゃんな気がするが、おばあちゃんという存在は一度おばあちゃんになるとそれ以上年を取らないものなのだろうか。
それを言ったら雪緒の家の祖母もそうなのだけれど、祖母は身近な存在であるせいか最近特に老いを感じてしまうのが辛い。
もう年である祖母のことを考えると一年に一度は帰省したいな、という気持ちはある。けれど、やはり夏場にデカいコンテストがある上に夏にはオタク垂涎のデカいイベントもあり、職業柄お盆休みは中々とれそうになかった。
それならそれで、今みたいに少し送れた休みを取って来るべきだろうか。
春風ももう大学生だ。今は地元に残っているが、それだってあと何年もしないで巣立っていくだろう。
もうあと片手もない数年先の事を、ぼんやりと考える。駄菓子屋の軒先にはかなり古い鉄の風鈴が下がっていて、思考の中に響きのいいカラコロとした音を混ぜてくるのが、心地よかった。
カラコロという音と、妹が駄菓子屋のおばあちゃんと話をしている声。
それらを聞きながら、雪緒は手首に巻いたシュシュに視線を落とした。
糸のほつれているピンク色のシュシュは、母が産まれたばかりの娘のぷくぷくの手首や足に巻いていたものだ。
なんでも、泣いている時に手や足に新しい刺激があると泣き止んだ春風のために、母が祖母に刺繍を習いながら手作りしたもののひとつだと、聞いている。
ピンク色の他にもオレンジ色や水色や、青と白のチェックの布のものやビーズがついているものなんかもある。
春風はこれをとても大事にしていて、糸がほつれると必ず自分で修復して日常で使いまわしていた。
けれど、夏場は紫外線で布が傷むからと言ってあまりつけていなかったはずだ。シュシュをつけていても、100円で買えるようなシンプルで安価なものを買って使っていたはず。
それなのに何故これが墓の前にあったのか。
そもそもあの時の妹はなんだったのか。雪緒は、シュシュを見つめながら目を細めた。
自分が寝ぼけて見た幻覚ならばそれでいい。けれど、なんだかそれとは違うもののような気がして、とても嫌な気持ちがする。
「お兄、アイスさ出して出して」
「なんだ、持ってって無かったのか」
「溶けちゃうじゃんっ」
ぼんやりとシュシュを見つめていると、駄菓子屋のおばあさんを連れた春風が店先に戻って来る。
てっきりアイスを持っていって会計をしたのかと思っていた雪緒はびっくりして顔を上げたが、顔を上げてさらに驚いて一歩後ろに後退した。
「あのね、おばあちゃん。わたしバニラ! いつものカップの青いやつっ!」
「縺ッ縺??縺??√>縺、繧ゅ?縺ュ」
「……は?」
「お兄はチョコミントの!」
「繝√Ι繧ウ繝溘Φ繝医▲縺ヲ縺ゥ繧後□縺」縺溘°縺励i」
「それそれ、その薄い緑のやつ!」
「縺ゅ=縺薙l縺ュ縲ゅ←縺」縺。繧?00蜀?〒縺?>繧上h」
「やったー! ありがとうっ!」
背筋に、ひやりとした汗が流れていく。
春風はまったく気になっていないような表情をしながら会話をしているが、雪緒の背中は嫌な汗でベトベトになってしまっていた。
だって、春風が話をしているおばあさんは、おばあさん、では、ない。
人の形をしているけれど、関節がまるで子どもの描いた落書きのようにぐちゃぐちゃで、腕は切っていないレンコンのようだし指なんかは開かれたまま閉じられず、突き刺すようにアイスを取っている。
指先が突き刺さったアイスはその穴からドロドロとした黒い液体を溢れ出させ、明らかにアイスではない何かのように、なっている。
目は、もう、目なのかもわからない。
縦につり上がった目は眼球が上下にギョロギョロしていて、細かい歯が無数にある口はガチガチとずっと音を鳴らし、喉から出てくる声は雪緒には決して言葉として認識することが出来ない。
「髮ェ邱偵■繧?s縺」縺溘i縺吶▲縺九j螟ァ縺弱$縺ェ縺」縺?繧上?縺??ゅ☆縺」縺九j縺九▲縺薙h縺上&縺ェ縺」縺ァ縺」
カセットテープを早送りしている時のような、キュルキュルと甲高い声がガチガチと噛み鳴らされる歯の隙間から聞こえてくるのが、恐ろしくてたまらない。
指先が震え、ドロドロとした何かが溢れているバニラアイスをなんでもない顔で受け取っている妹が不思議そうにこちらを見ていても、何かを言う事すら出来ない。
話しかけてきているのは、分かる。
話しかけてほしくなんか、ないのに。
「やだ、お兄今更人見知りしてんのぉ? 都会にかぶれちゃったねー」
「は、はは……」
「ごめんねおばあちゃん! またね!」
変な顔をして首を傾げている妹に乾いた笑いを向けて誤魔化して、雪緒は必死に平静を保った。
くるくるのバネのようなものが無数にくっついている円形の頭部のようなものを傾げさせている「駄菓子屋のおばあちゃん」は、甲高い声を断続的に上げていたのでもしかして、笑っていたんだろうか。
わからない。
何で春風はこんなに普通に会話が出来ているんだろうか。
いや、逆に自分がおかしいのか?
また新しい冷や汗が出てきていることに嫌な感じがしつつ、雪緒は一応会釈をしてから駄菓子屋から離れた。カブは、駄菓子屋の裏に置いてあるので少し手を伸ばせばすぐに掴む事が出来る。
ハァハァと変な呼吸になるのを必死に誤魔化しながらカブにキーを押し込んだ雪緒は、妹がアイスを持って来るのをソワソワと待ってから、一緒に駄菓子屋を離れた。
春風の手の中にあるアイスはもうドロドロではなく普通に霜のついているアイスに戻っていたが、なんだか食べる気になれない。
なんなら、春風にだって食べてほしくはないのだが……
「……どっちも食べていいぞ」
「ほんと? やったー! どうしたのいきなり」
「……たまには妹孝行しようと思って」
「なにそれ。それならおばあちゃんにもしてあげてよ」
「なにを? マッサージとか?」
「うーん、花を買う、とか?」
「裏庭にいくらでも咲いてんじゃん」
「家に咲いてるのと貰うのはまるで違うものじゃんか!」
「そうなの? わかんねぇ~女心」
「これは女心とは違うっしょー」
溶けちゃうから、と先にチョコミントアイスのパッケージを破き、バニラアイスはカブの座席に置いてその上から麦わら帽子を乗せて日差しから守る。
持ってやろうか、と、言う気にはなれなかった。
妹の手の中では美味しそうに汗をかくカップの表面が、自分の手の中ではドロドロとした黒いものになってしまうんじゃないか。
そんな気持ちがどうしても湧いてきてしまって、食べる気にも触れる気にも、なれない。
破かれたパッケージの中からあの真っ黒などろどろしたものが溢れてきたらどうしよう、とか、妹がさっきのおばあちゃんと同じような顔になってしまったらどうしよう、とか。
不安はいっぱいあったけれど、霜の沢山ついているチョコミントのアイスにかじりついた妹が「ん~!」と美味しそうな声をあげたので、少しだけホッとした。
そして、ハッとする。
妹を毒見役にしたいわけじゃないのに、何で食べるのを止めなかったんだろうか。
そもそもさっき見たアレは一体なんなんだ?
さっきの妹といい、駄菓子屋のおばあちゃんといい、おかしな事が多すぎる。
麦わら帽子のなくなった背中はすでに汗でびちゃびちゃで、家に帰ったらシャワーに入りたいなと思ってしまうくらいには頭皮からも汗が滲んでいる感覚がする。
そうだ、水。
実家にはまだ古ぼけた井戸があるから、いっそ裏庭で井戸から汲んだ水を頭からかぶるのもいい。
昔アニメで見たようなガションガションと水を汲み上げるポンプのレバーを押して呼び水をする形式の井戸は、子供の頃には楽しくて楽しくて、ずっと遊んでいたような気がする。
それでも水が枯れないのだから、日本の湧き水はすごい。
「あ、ねこっ」
サッサとチョコミントアイスを食べ終えたらしい妹が、袋に棒を戻してから路肩を指差す。
畑の畦に続いている、土を盛り上げたようなその道には、確かに猫が居た。この辺では珍しくもない、ただの野良猫だ。
毛色は、影になっていてよく見えないが、目の大きな、綺麗な猫。
しかし野良猫は少しの間兄妹を見つめると、黒い影を残してサッと消えてしまって、春風がとても悲しそうにうなだれた。