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第54話 悪夢

 翌朝、雪緒は携帯のアラームが鳴る前に目を覚ました。

 うっかりと雨戸を閉めるのを忘れて眠ってしまったせいで、朝陽が顔面を舐めて起きてしまったのだ。北の方とはいえ、夏の日差しは朝でも強い。

 幼い頃には夏休みの太陽が出る直前の朝方に、公園に集まってみんなでするラジオ体操が大好きだった。しかしそれも今や昔。朝陽が出る直前の時間は寝ている事が多いし、仕事が詰まっていればその頃に寝る事もある。

 だから、こうやって朝陽に起こされるなんて久し振りの事だ。

 のそのそと身体を起こしながらカーテンの隙間から見える真っ白な日差しを見て、欠伸をひとつ。

 まったく、いい起き方をしたものだ。

 それでもまだハッキリ起きない頭に何度も欠伸をして酸素を送りつつ、雪緒は階下へ足を向けた。

 階段を降りて、すぐ脇は洗面所。そこで帰省のために持ってきた自分用のタオルを棚から引っ張り出し首に下げて、洗面台の蛇口を捻った。

 この家の水道は地下水だ。都会の水は夏になれば生ぬるくなったりもするが、お陰でこの家はいつだって水はキンキンに冷たい。

 寝起きで火照っている手のひらを水で流す事で覚悟を決めて、雪緒はバシャバシャと顔を洗い始めた。

 まだほっこりしている頬に、地下水の冷たさはびっくりするくらいに冷たい。けれどお陰様で意識もしゃっきりして、ついでにコップで水を一口煽るとようやっと目が覚めた心地になった。

 顔をタオルでゴシゴシと拭って、ついでに濡れた前髪も乱暴に拭う。寝間着にしていたTシャツは襟ぐりが濡れたのと寝汗をかいたのもあって、その場で脱いで洗濯機に投げ込んだ。

 この家の洗濯機は、今やレアものになっている2層式だ。2層式の洗濯機なんて、東京じゃあもう見る事もできないんじゃないだろうか、なんて思いつつ、間違えずに洗濯槽の方に入れる。

 以前脱水槽の方に放り込んでしまった時に気に入っていたTシャツがビヨビヨになってしまったので、同じ間違いは二度としない。

 そうやって意識が覚醒してきた頃、雪緒はやっと外で元気に鳴いている虫の声に気がついた。

 蝉の声だ。東京ではもう少なくなってきている蝉の声が、ここではまだ元気に聞こえてくる。

 なんかいいなぁ。

 そう思いながら、なんとなしに庭にあるデカい木を眺めて、蝉の鳴き声に耳を傾ける。東京だとただひたすら雑音にしか聞こえないというのに、少し東京を離れると穏やかに聞くことが出来るのが不思議だ。

 そもそも東京での生活中には心の余裕なんか少しもないので、蝉の声を許容も出来ないのかもしれない。

 ただ必死に生を全うしようとしている虫を相手にイライラするだなんて無駄この上ないというのに、余裕がないというのは悲しいものだ。

 そんな事を思いつつぼんやりとしていると、蝉の声に聞き慣れた声が混ざり始めた事に、雪緒は顔を上げた。

 どうやら春風が朝の準備をしているらしい。

 最近では祖母と一緒に料理をするようになったという妹に成長を感じつつ、雪緒は妹の声のする方へと方向を変えた。

 春風の声がするのは、仏間の方だ。

 雪緒の実家は、田舎だから、というわけではないが、そこそこに広くて部屋数も多い。季節になれば親戚や村の衆も集まって宴会をするというのだから、この広さは決して無駄ではないのだろう。

 けれども、祖父母と妹だけになってしまった家は余計に広く感じそうだし、防犯的な意味でも少し不安だ。

 妹が家を出る頃には祖父母ももう老齢だろうし、先のこともそろそろ考え始めないといけないな。

 朝から考える事ではないかもしれないが、蝉の鳴き声にしみじみと人生を感じてしまって、雪緒はそんな事を考えながら仏間を覗く。

 案の定、仏壇の前には妹が居た。

 金の糸で装飾が縫い込まれた座布団に正座して両手を合わせ、恐らくさっき彼女が鳴らしたのだろうお鈴の余韻が僅かに空間に残っている。

 仏壇に向かってブツブツと言うのは、春風のクセだ。こうした方がお父さんとお母さんに声が届きやすいかも、なんて言っていた彼女を止める事は誰もしなかったから、彼女は今でもお墓や仏壇に向かって話をする。

 その話を聞くのが、雪緒は案外嫌いではなかった。


「おかあ、おとう。もうすぐ迎えさ来るよ」


 しかし、その日の妹の言葉はあまり意味がわからなくって、雪緒は軽く首を傾げた。

 迎え、とは、何の話だろうか。

 もうすでに盆の宴会は終わっていると聞いているので、迎えに行く人なんかは居ないはずなのに。

 それとも、誰かがこちらを迎えに来るという事だろうか。

 それこそ意味がわからない。雪緒はまだしばらく実家に滞在する予定だし、祖父母と春風を誰かが迎えに来る予定なんかは聞いたことがない。

 なのに、それを両親に報告するというのはどういう事だろうか。

 不思議に思いながら妹の背中を見ていると、仏壇に飾られている仏花が少しばかり萎れている事に気がついた。

 朝の挨拶のために白米やお茶はきちんと用意されているようだが、仏花があれではダメだろう。そう思って、もしかしたら花屋が花を持ってきてくれるのだろうかと、気付いた。

 この辺で花屋と言ったらカブに乗ってもちょっと遠い所にある又従兄弟の家くらいのものなので、きっと車で配達でもしてくれるのだろう。

 なんだ、そういう事か。

 勝手にそう納得して、まだ両親に手を合わせている妹の、何の支度もせずに髪すら結っていない後頭部を眺める。

 と、視界の端で何かがぐにゃりと曲がって、どろりと滴った。

 驚いてハッと息を飲むと、それは先程まで注目をしていた仏花だと、わかる。

 さっきよりも茶色っぽく萎びてしまった菊や百合が、徐々に徐々に真っ黒になって、そのまま滴って落ちていく。

 花びらが一枚ずつ落ちていく、なんてものじゃない。まるでドロドロと液状化して落ちていくような、あまりにも不自然な光景だった。

 しかもその黒い液体は段々と仏壇から畳の床に流れていき、まるで血液が染み込んでいくように畳を変色させていく。

 その様子はなんだか、かつて、どこかで一度見たことがある、ような気がする光景、だった。

 足元が真っ赤になって、赤かったり黒かったりする液体のようなものを蹴散らしながら進んだような、そんな、記憶。

 グラッと足元が揺れて、目眩がした。


「おにい」


 春風の声にハッとして、雪緒はグラグラする頭を必死に持ち上げた。

 春風はまだ、仏壇に向かって手を合わせている。


「おにい」


 けれど、声は確実に春風から聞こえてきていて、しかも、自分が居る場所をハッキリと見ている、ような。

 声が、その方向が、しっかりとこちらを向いている――ような……


「おにい」


 その理由が分かった時、雪緒は叫びだしそうになるのを必死に飲み込んでいた。

 春風の後頭部に、口がある。それもひとつではなく、ふたつ、いや、みっつだ。それぞれが独立しているのかパクパクと動いて、本来あるべき頭蓋骨や脳みそなんかはまるで見えない。


「おにい、みぃつけた」


 にちゃりと、みっつある口が歪み、笑みのような形を作る。


 ピリリリリリリリ

  ピリリリリリリリ

   ピリリリリリリリ


 ――雪緒が目を覚ましたのは、その形を確認した所で、だった。

 やかましい携帯のアラームが、今回ばかりは福音のようにも感じられる。心臓はバクバクとやかましく走り回り、呼吸は酷く、乱れていた。

 なんという夢を見とるんだ、俺は。

 両手で顔を隠し、唸り声を上げながら足をジタバタとさせる。雨戸はしっかりと閉ざされ、隙間から僅かに外が快晴なのがわかった。


ピリリリリリリリ

 ピリリリリリリリ

  ピリリリリリリリ


「お兄~! 携帯うるさいって!」

「わぁってる……」

「ご飯も出来たよ~」


 アラームを止める気にもなれなくて、ドカドカと階段を上がって部屋に乱入してきた春風に叱られながらやっとスヌーズを解除する。

 指先も僅かに震えていて、もうすでにどんな夢だったのか記憶が薄れようとしている夢が、自分にとってはとんでもない衝撃だったのだと溜め息が出る。

 目覚めてすぐに忘れられる程度の夢で良かった。

 そう思いながらのそっと起き上がって、雨戸を開けている春風を見上げる。

 いつも通りにシュシュをつけている後頭部には、当たり前だが口なんかはない。あぁこれで全部忘れられそうだ。あれは夢、全部夢だ。


「そーだ、お兄! 今日ね、ちょっと手伝って欲しい事があるっておばあが言ってたっ」


 しかしそこで、また雪緒は呼吸を忘れて不自然に息を呑み込んでしまう。

 くるりと元気に振り返った妹の顔面に、顔面全てを奪うように大きく真っ黒な〝穴〟が開いていたのだから、それも無理のないことだった。

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