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第55話 流離

 ゾワリと、本能的な恐怖が雪緒の背筋に走る。

 〝アレ〟は妹だ。それはわかるのに、明らかに違う本能的な恐怖。

 わかっているのに「違う」という事がこんなにも恐ろしい事なのかと、雪緒はその時初めて感じた。


「あれ!? お兄っ!」


 咄嗟に、〝春風〟を避けて部屋から飛び出す。バタバタと足音をたてて階段を駆け下り、縁側に置かれているサンダルをつっかけて寝間着のまま井戸に向けて走った。

 勢いよく水を出して、溢れ出す水の中に思い切り頭を突っ込んだ。冷たい。飲んでもいないのに頭の奥がキンキンと痛むような冷たさに、雪緒は一瞬呼吸を忘れた。

 どうしてか冷たい水の中に顔を入れると、いつもよりも呼吸は長く続かない。こんな時にもそれが適用されるのか、なんて思いながら、雪緒は水が途切れたタイミングでノロノロと頭を上げた。

 すでに夏の日差しは庭を明るくしていて、冷たい井戸水で濡れた寝間着代わりのTシャツでも少しも寒くはない。

 Tシャツだけじゃなくて、これも寝巻き代わりにしているお洒落ステテコも水でぐっしょり濡れていた。

 安さがウリのファッションセンターで購入したものだが、履き心地が良くてイラスト違いで何枚も購入して愛用しているものだ。

 今着ている黒地の中に真っ白なアザラシが何匹も違う表情でコロコロしているデザインのものが雪緒の一番のお気に入りなのに、土の上を走った事と井戸水でなんかもう、酷い有様になってしまった。

 それでも、何か「違う」ものに遭遇したならば天然水の出番だと、どうしてか雪緒は知っていた。

 どこで仕入れた知識なのかは覚えていないけれど、天然水は凄いんだとかなんだとか……そんなような事を聞いた、ような。

 アレは、神社のお手水の話だっただろうか。いや、でも自分はそんなに神社に足を運ぶようなタイプでもないはずなのに。

 首を傾げながら、もう一度井戸を組み上げるポンプを漕いで、溢れてきた透明な水に頭を突っ込む。


「お兄……なにやってんの?」

「暑くて寝汗かいたから」

「えー? なら素直にシャワー浴びればいいじゃん」

「冷たい水を浴びたかったんだよ」


 あぁ、ほら。

 また水が途切れたのを見計らって顔を上げると、真っ黒な穴があいていた春風の顔は普通の春風に戻っていた。

 さっきの穴が、まるで寝ぼけていた結果かのような、そんな普通さだ。実際アレが何だったのかは雪緒は知らないし、知ろうとも思わない。

 けれど、昨日から続く異変に関係する「何か」なのかもしれないとは、何となくわかっていた。

 雪緒のこういう「変なクセ」は幼い頃からあるものだ。誰にも話したことはなかったが、幼い頃はもっと酷かったから両親には相談したことがあった、かもしれない。

 けれど両親が亡くなってからは誰にも話したことはない。春風にだって、気付かせもしていないはずだ。

 だって、こんな事を相談した所でどうしようもないだろう。理解してもらえないだろうし、頭がおかしくなったと笑われる可能性もある。

 それは流石に、いやなのだ。

 春風に気付かれないように溜め息をついてから、雪緒はびしょびしょの髪を適当に振って水を落とし、同じようにびしょびしょの服はそのままに家の中に戻った。

 服は濡れているけれど、絞るほどのものでもない。

 まぁ、流石にそのまま着ているわけにもいかないので部屋に戻って適当に服を見繕ってから脱いだ寝間着は洗濯機に突っ込んだ。


「春風、洗濯機は回していいの」

「いいよぉ」

「わかった」


 一応妹に確認してから、洗濯機に妹が好んでいるのだろう洗剤と柔軟剤を入れて、蓋を閉じる。古い二層式の洗濯機は、バタンと二枚ある扉を閉じると、微かに乾燥機が服を温めている時の匂いがした。

 あ、なんか、思い出したくないものを思い出しそう。

 洗濯機の蓋を締めた所で何か、胸の奥がザワッとした感じがして、雪緒は少しだけ動きを止める。

 これは、悪夢を見たあとによくあるモヤモヤだ。この感情の名前は知らないけれど、なんだかすごく「いや」な感じ。

 夢の中に洗濯機が出てたりしたっけ。そう思いはしたが、ハッキリと思い出すのも嫌なので洗濯機の時間設定のレバーを捻り、スイッチを入れる。

 自宅で使っているドラム式の洗濯機とは操作方法が全然違うのに手は勝手に動くのだから、実家の家電というものは凄いなと思う。

 それでも、そろそろ便利家電を導入させるべきだろうか。

 冷蔵庫ももう古い型だし、新しいものに入れ替えれば電気代なんかも変わるだろう。

 そんな事を思っていると、不意にポケットに入れていた携帯が震えて、雪緒はパッと尻のポケットをおさえた。

 音を出したままにするのは苦手な雪緒は、普段はこうしてバイブレーションするように設定した上で肌身放さず携帯を持ち歩いている。

 携帯中毒というほど確認しやしないが、それでも尻や胸のポケットに携帯が入っていないと落ち着かない。

 どうせ職場からの連絡だろうな、なんて思いつつ携帯を取り出してスリープを解除すると、雪緒は無意識に「あ?」なんていう声を出していた。

 その声のガラの悪さに台所から春風が顔を出し、不思議そうな顔をする。


【夢は、決して忘れられぬもの。やれ忘れた、やれ過去のことだ――そう自分に言い聞かせたとて、黒い穴から夢は過去をほじくり返す。忘れてはならぬ、知られてもならぬとただただ穴をほじくりほじくり……忘れるたびに、穴は増える。忘れるなと叫ぶのは、果たして誰の声なのか――】


 なんだこりゃ、と思うのと同時に、頭の中がチリリとした感覚があって、すわ頭痛かと眉間を揉んだ。

 こんな質の悪いホラー作品のあらすじのようなメールは、今まで見たことがない・・・・・・・・・・

 イタズラメールだろうか? それにしては、随分と趣味が悪いものだ。

 一応、職場から送られてきたものではないことを確認してから、そのメールを削除する。

 メールを削除する時に一時暗転する画面もなんだか変に不気味に感じてしまって、雪緒はゴミ箱からもそのメールを削除しておいた。

 悪質なスパムだろう。

 そう確信して、携帯からそのメールが完全に削除されたのを見てホッとする。


「どしたの」

「なんか変なスパムメール来た。くっそキモいやつ」

「えー、見たい! オオアリクイ系?」

「未亡人系じゃなかったな。あーでも削除しちまったわ」

「見たかった!」


 ぶぅぶぅ文句を言いながらも、春風はテキパキと朝飯を用意してくれる。

 普段一人で飯を食ったり自分で自分に食事を用意している独身彼女ナシの男には、家族とはいえこうして飯を用意してくれる人が居るというのは貴重な事だ。

 用意されていたのは焼き鮭にお浸しにじゃがいもと玉ねぎの味噌汁、それから生卵と白飯といういつものメニュー。

 それが落ち着くのだと思いながら両手を合わせて「いただきます」と小声で言い、けれど鮭をほぐした所で何となく違和感を覚えて手が止まった。

 確かに自分の朝飯はパンが多かった気がするけれど、最近は比較的整った食事をしていた、ような気がする。

 職場の近くでいい飯処を見つけたんだったか?

 なんだか記憶に変な引っ掛かりがあるような気がして嫌な心地がしたが、それもやはり悪夢と同じように思い出してはいけない気がして、鮭を白飯に乗っける。カリカリに焼けた皮も、雪緒の好物のひとつだ。

 鮭もしょっぱくて醤油いらずだし、朝の焼き魚と白米は鉄板だなとしみじみと思う。お浸しはなんだろう。きれいな緑色だ。

 そんな事を思っていると、玄関からバタバタと慌てた足音が聞こえてきた。

 春風は眼の前に居るから、祖母だろうか。春風と顔を見合わせて、箸を置いて、足音が近づいてくるのを待つ。

 果たして、慌てた顔で居間にやってきたのは首元を汗で濡らした祖母だった。


「あぁ二人共、起ぎでらったね。今日ちょっとご近所でお葬式が出だがら、アンタだぢも手伝っておぐれ」

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