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第57話 高梨

 三軒南のお家は、鷹羽ではなく高梨さんといった。高梨さんちのトラばあちゃんは、雪緒が子供の頃からすでにおばあちゃんで、それはもう大ベテランといった感じだった。

 トラばあちゃんの家は大きな仏間があって、近所にまだ子どもが多かった頃にはその仏間に子どもたちが集まってわぁわぁと遊んでいたものだった。

 トラばあちゃんは昔駄菓子屋をやっていた。雪緒が子どもの頃にもうそのお店は閉めてしまったらしいけれど、そのお陰か家にはいっつもお菓子があって、雪緒は何度そのお菓子に助けられただろう。

 両親が恋しくてシクシクないていた時には、手のひらに乗るような小さなドーナツを。

 祖父母が妹にかかりきりで寂しかった時には5円玉の形のチョコレートを。

 誰も雪緒が家から居なくなった事に気づかなかった時には、薄い煎餅に練乳を塗ってくれた。

 甘いお菓子は雪緒の心にしんみりと染み渡り、自分のために用意されたお菓子のお陰で寂しさを我慢することも出来たのだ。

 それに、トラばあちゃんの周りにはいつも人がいた。雪緒が寂しさを我慢出来たのは、そのお陰もあるだろう。

 なのに帰省してから、来てなかったな。

 少しばかり寂しい気持ちになって、自分が薄情者のような気がしてしまう。

 あんなにお世話になったのに、顔も出さなかったなんて。もしも顔を出していたら、少し顔を見ることくらいは出来ただろうか。

 そんな事を考えてももう遅いのに考えずにはいられなくって、雪緒は酒屋で酒を受け取るついでに、高梨家への差し入れとしてそこそこの値段のする酒をもう二升ほど購入した。

 一升瓶を三本持って歩くのは少し重かったが、カブの足元に置いてしまえば問題はない。カブには他にも、ペットボトルに詰めてきた井戸水なんかも入っていたのでカブが少し沈んだ気がしたが、ゆっくり行けば大丈夫だろうとエンジンを回す。

 そうやって、ノロノロと落とさないように注意をしながら、雪緒は高梨家への道をカブで引き返した。


「こんにちわ、鷹羽の家の雪緒です」


 高梨家に到着したのは、それから10分ほど走った頃だ。

 開かれている門を潜って、これも開け放たれている玄関を覗き込む。手伝いが要る、と言われた割には家の中は静かで、時折ボソボソと声が聞こえる程度の音しか聞こえない。

 もしかして今の声も聞こえていなかっただろうかと、もう一度中に向かって声をかける。

 と、ようやく家の奥の扉が開くズリズリという音がして、誰かがこちらに向かってくる足音がした。


「あらっ! 雪緒ちゃん。来てけだのねぇ」

「おばさん、この度は……」


 ご愁傷さまです。そう言いかけて、雪緒はヒュッと息を飲み込んだ。

 この声は、覚えがある。トラばあちゃんの娘の、郁子さんの声だ。子供の頃から聞いていた声だから流石にまだ覚えている。

 のだけれど、雪緒にはその声しか、眼の前の人物が郁子であるという確信が持てなかった。

 真っ黒な喪服に、いつもとは違う引っ詰め髪。そして顔には、真っ黒な穴。

 思わず目を反らし、誤魔化すように頭を下げる。頭を下げながら持ってきた酒を差し出すのは腕が少し痛かったが、郁子の顔を正面から見る勇気はなかった。


「あれ、雪緒ちゃん?」

「あらー! 大きくなって!」

「来てけで嬉しいよ。ばっちゃん、通夜には雪緒ぢゃんも呼んで欲しいってずっと言ってらったがらなぁ」

「ほんにねぇ。きっとばっちゃんも喜んでらわ」


 郁子の後ろからも、ゾロゾロとトラばあちゃんの親族と思われる人々がワイワイと顔を出した。

 だがその顔はみな真っ黒な穴で、顔面なんか存在していない。

 穴、穴、穴。目眩がしそうなその光景に、それでも雪緒は引きつった笑みを浮かべた。

 みんな服が喪服だから、服装で誰が誰やら判別をつけることも出来ないし、郁子以外の人が誰なのかもサッパリだ。

 方言がある人は年配の人なんだろうということは流石にわかるが、みんな白髪交じりの頭だと年齢の判別も難しかった。

 なんなんだ、コレは。

 朝に見た春風の姿を思い出して、背筋がゾクゾクと強張る。あぁ、嫌だ。

 昨日から、何かがおかしい。何かがおかしくなっている。

 でもその「何か」がわからなくって、普通に生活をしている彼らを見ていると、まるで自分の方がおかしいのではないかと、雪緒は不安になってしまった。


「あ、の……お手伝いは、おれ、何をすれば……?」

「そうねぇ。悪いのだけど、ばあちゃんの火葬に付き合って欲しいの」

「……は? 火葬って、お通夜とかの後じゃ?」

「あれ、雪緒ぢゃんは知んねぁーのがい?このあだりでは、お通夜の前さ火葬するんだよ。こんな季節だしなぁ」

「ばっちゃん、雪緒ぢゃんに見送って欲しいってずっと言ってらったの。んだども、嫌でゃーば断っていいがらね?」

「あ、いえ、それは、大丈夫です。おれも、ばあちゃんにはいっぱいお世話に、なったので……」


 真っ黒い穴が歪んだり蠢いたりしているのを見ていられなくって、雪緒はそっと目を伏せて、顔を俯かせた。

 トラばあちゃんの事を考えると寂しく、悲しくなるのは本当だ。でも、今はただただ彼らを見ていられなくって、涙を我慢しているように見せて俯く。

 そんな雪緒の姿を、彼らは都合よく「悲しんでくれている」と思ってくれているようで、安心する。

 あぁ、あぁ。出来ることならもっとまともに、普通に、トラばあちゃんを見送りたかった。

 こんな、あまりにも異常な見送り方では、なく。


「ありがとうねぇ、雪緒ちゃん」

「ごめんねぇ、折角のお休みなのに」

「いえ……」


 用意していた白いハンカチで顔を拭う、フリをする。そのまま「手洗い場を借りてもいいか」と聞けば、高梨家の皆さんは快く迎えてくれた。

 ただ見えている姿が違うだけなのに嘘をついているようで申し訳ないが、雪緒にはもう色々と限界で、急いで手洗い場に駆け込む。この辺一帯の生活用水は井戸水のはずだから、家の庭にある蛇口から出てくる水よりかは新鮮ではないかもしれないけれど、手洗い場から出てくる水だって真水のはずだ。

 急いで蛇口をひねって、顔に思い切り水を叩きつける。夏でも冷たい水は、やはり東京のものとは違う、気がする。

 正直東京の水だって普通に飲んでいた雪緒からすればただ顔に水を叩きつけた程度で違いなんかはわからないが、冷たい水をかぶるとやっぱり少し頭がスッキリした。


「大丈夫だった?」

「大丈夫です。すみません」

「いいのよぉ。いきなりだもんね、ごめんねぇ」

「いえ……あの。火葬場に行く前に、ばあちゃんの顔、見ても大丈夫ですか?」

「もちろん」


 案の定、手洗い場から戻ってみるとさっきまでぐにょぐにょの黒い穴が開いていた顔の人たちは、普通の人間に戻っていた。

 目元は赤くなっていて、きっとさっきまで泣いていたのだろうとわかる顔。

 そんな顔にあんな穴が出現したのが怖くて、不気味で。雪緒は、ドキドキとしている胸をぎゅっと上から抑えながら、郁子の後ろについていった。

 さっきちょっと調べた程度ではわからなかったが、このあたりでは通夜の前に火葬をする「前火葬」が一般的らしい。

 両親の葬儀しか参加した事がない雪緒には、そのあたりの事はサッパリだ。両親の葬式ももしかして、前火葬だったんだろうか。

 子供の頃の葬式の記憶を引っ張り出そうとするものの、どうしたって思い出すことが出来なくて、雪緒はハンカチで額を拭った。

 両親の葬式。そこで色々あったはずなのに、脳がその日の事を思い出すのを拒絶しているような気がするくらいには、雪緒の記憶は曖昧だった。

 いや、覚えているのだ。覚えている。棺にすがって泣いている子どもの姿や、無機質な葬儀会場のリノリウムの床の事も、こんなにもハッキリ覚えている、のに。

 なのになんで、こんなにも自分の記憶に自信がないんだろう。


「ばっちゃん、雪緒ぢゃん来てけだよぉ」


 家の一番奥の奥。広くて仏壇のある部屋で、その人は眠っていた。

 いや、正確には、多分、眠っている。雪緒は、仏間の入口に立ち尽くしながら、雪緒の到着をトラばあちゃんに報告する郁子の背中から目が離せなくなった。

 だって、だって、

 だって、少し目を動かせば、真っ黒い穴が空いて、穴の形にへこんでいるトラばあちゃんの顔が見えてしまう。


 今度こそ、雪緒は吐きそうになって、必死で唾液を飲み込み続けた。

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