【夢は、決して忘れられぬもの。やれ忘れた、やれ過去のことだ――そう自分に言い聞かせたとて、黒い穴から夢は過去をほじくり返す。忘れてはならぬ、知られてもならぬとただただ穴をほじくりほじくり……忘れるたびに、穴は増える。忘れるなと叫ぶのは、果たして誰の声なのか――】
冷静に考えてみよう。
まずは、自分が〝こういうもの〟を見える体質であるという事を受け入れる事からだ。数回深呼吸をして、雪緒は何とか心を落ち着ける。
眼の前の座敷ではバタバタと高梨家の人たちが前火葬の準備に入っていて、客人である雪緒のすることといえばお線香を絶やさないという、それだけだ。
なんで他人の自分がここに呼ばれたかと聞けば、幼い頃から世話になっていた雪緒にも遺言が残されているからだと、郁子は言っていた。
まさか他人の自分に遺言なんて、と驚いたけれど、遺産があるとかそういう話ではないらしいのでそこは安心だ。
けれど、まさかこんな風にのんびりと別れを惜しむ時間をもらえるとは思っていなかった。
上京した自分は、もうこの辺りの人間ではないのだと無意識に思っていたのかもしれない。
それにしても、本当に、受け入れなければいけない。
雪緒の眼の前で棺に寝かされているトラばあちゃんの顔面には、未だに真っ黒い穴が開いている。そこから呼吸をするかのような「ホォオォ」という音がした時には、仰け反って驚いてしまった。
いや、前にもどこかで聞いたことがあるのだ。死んだ後にも、肺に残っていた空気やなんかが声帯を震わせる事がある、なんていうのは、オカルト漫画やなんかでもよくある恐怖体験なのだから。
なのに、未だに心臓がドキドキとしている。
今は暑いからたっぷりのドライアイスを入れた棺に入っているトラばあちゃんに怯えているようで申し訳がないのだが、怖いものは怖かった。
あの穴は、一体何なのだろうか。
ドキドキとしながら、意を決して真っ黒い穴を見るために棺の窓を開く。
そこにある黒い穴の顔面に、雪緒はトラばあちゃんの穏やかな寝顔を見る事が出来ない現実に少しだけイラつきを覚え始めていたのだ。
恐怖も過ぎ去れば怒りになるもの。雪緒は、じっくりとトラばあちゃんの顔を見つめて、黒い穴を観察した。
しかしそれも、いつまでもじっと見ていられるようなものではない。
段々と胸の中がすぅすぅするような恐怖が背筋を走って、雪緒は無言で棺の窓を閉じるとふぅーと長く息を吐き出した。
そうだ、拭き掃除をしておこう。ハッと思い立って、顔をあげる。
線香の長さはまだまだあるし、障子は三歩ほど歩けばすぐに触れられるような場所にあるから大丈夫だろうと、郁子に頼んで雑巾と水のバケツを貰ってぎゅっと絞る。
井戸水を汲んだバケツの水は冷たくってキーンとしていて、指先がすぐに赤く冷たくなっていった。
けれどそれが殊の外気持ちよくって、雪緒はホッと息を吐くと部屋の壁際ギリギリにそっと雑巾をかけ始める。箪笥だとか仏壇がある場所はそれを避けるようにして、部屋の四隅を、真四角に切り取るように拭いていく。
時には畳の目に合わない時もあったけれど、それでも何度かバケツの水を汚して雑巾を絞りながら、雪緒は部屋の壁沿いをスーッと無言で雑巾で拭っていった。
なんでそうしようと思ったのかはわからないが、なんだかそれをすべきだと、そう思ったのだ。
なんで「すべき」なのかは、やはりわからない。ただ、天然の水で部屋の四方をしっかり綺麗にして、軽く四隅に水をかける。そうする事で息がしやすくなるんじゃないかと、そう思っただけなのだ。
水はあっという間にどす黒くなって、絞った雑巾が黒くなっていないのが不思議なくらいだ。けれど、その色を見て「あぁ掃除してよかった」と思いながら、雪緒は最後の一角の掃除をしようと、外に面した障子に向かって歩を進めた。
それが悪かったのかは、わからない。
雪緒は、少しだけ痺れてしまった足を引き摺って最後の一角である障子に触れると、子供の頃にうっかりトラばあちゃんの家の障子を破いてしまった事を思い出しながら物思いに耽った。
といっても、ほんの数秒だ。指を突っ込んで穴を開けてしまった所にトラばあちゃんが綺麗な紅葉の葉っぱを障子紙で挟んで飾り障子のようにして直してくれた、その場所を見ていただけ。
なのに、その数秒が早かったか、雪緒が立ち上がったのとほぼ同時だったのか、判断がつかない瞬間に雪緒の背後でガターンッと激しい音がしたのだ。
何事かと振り返ろうとした雪緒は、足を一歩踏み出すのに失敗してその場に転げてしまう。
危うくまた障子をバリバリにしそうになったけれど、ギリギリのタイミングで障子を開いていたお陰で雪緒が縁側に転げただけで済んだ。
勢いよく縁側の固い木の床に転げたせいで、ぶつけた肩がジィンと痛む。
が、雪緒が縁側に転げた音を聞いて慌ててやってきてくれた高梨家の男性が、雪緒を助け起こすよりも前に甲高い悲鳴を挙げたので雪緒はまたひっくり返りそうになってしまった。
だが、それも出来ない。
身体が動かないのだ。
いや、動かないというのも少し違う。足が床に縫い止められたように動かす事が出来ない、のだ。
何事かと変な方向に曲げてしまいそうになった足を見た雪緒は言葉を失い、男性の悲鳴を聞いてやってきた郁子たちも悲鳴をあげてその場に座り込む。
「な、なん……なん、で……」
カスカスの声しか出ない雪緒は、悲鳴をあげることも出来なかった。
さっきの大きな音の正体。それは、どうしてか棺台の上から落ちてしまった棺がひっくり返った音、だった。棺台から落ちた棺からは、バラバラとドライアイスがぶちまけられ、棺の中に入れられていたドライフラワーなんかも散らばって無惨な有り様だ。
だが、その中で一番恐ろしかったのは、まだ釘打ちのされていなかった棺の中から放り出されたトラばあちゃんが、雪緒の足首をガッと掴んでいた事、だった。
動けなかったのは、掴まれていたからだったのだ。
喉の奥から声にならない声がヒュウヒュウと気管を通って吐き出されて、酷い頭痛がする。
棺から放り出されたトラばあちゃんは、真っ直ぐに雪緒の方を見上げながら、腕を伸ばして雪緒の足首を掴んでいた。
綺麗に整えられて納棺されたはずなのに、まるで今まさに動いたかのような体勢に、続々とやってきた親族たちも驚愕の悲鳴をあげる。
だって、有り得ないじゃないか。
納棺されたご遺体は普通、死後硬直で固まっているはず。死後硬直が終わっていたとしても、こんな風に、棺がひっくり返った程度で首を真上に向けて、腕を真っ直ぐ上に上げ何かを掴むだなんて、そんな事があるわけがない。
しかも、すぐ近くに居たわけでもないのに、だ。
雪緒と棺とは、ハッキリとした距離があった。
棺と雪緒の間には線香を置くための焼香台があり、今はその焼香台もひっくり返って火がついたままだった線香がジリジリと畳を焦がしている。
それを、危ない、と、誰かが言うこともなくシーンと静まり返っている。
急いでご遺体を戻さないと、とか、そういう事すらも、誰も言わない。
だって、明らかに異様な光景だったのだ。
雪緒は、浅くなる呼吸を必死に繰り返しながら、足首に回されているトラばあちゃんの指をなんとか引き剥がそうと軽く触れた。
しかし、すでに亡くなっている身体の感触は生きている人間のソレとは違って、ぶに、と、張りがあるのに中身がない水風船のようなその感触に、手を離してしまう。
掴まれている箇所が痛い。凄い力で握られているのか、しわくちゃになってしまっているズボンが皮膚に食い込んでいて、それだけでなく掴んでいる指が爪も立てていて、それがまた、痛い。
痛いと思うのが、怖かった。
だってこんな力いっぱい握られているというのは、偶然ではありえないじゃないか。
明確に意志を持っていないと、こんなふうに指先に力を入れるなんて事は、出来ないはず。
でも、でも――だって、トラばあちゃんはもう、死んでいるのに?
「ば、ばっちゃんったら、ほんに雪緒ぢゃんの事が好ぎなんだがら」
「んだども、ひ、引き剥がさんといげねぇ」
その状況を見てカラカラの声を絞り出したのは、郁子とトラばあちゃんの孫だという男性だった。