「ば、ばっちゃんったら、ほんに雪緒ぢゃんの事が好ぎなんだがら」
「んだども、ひ、引き剥がさんといげねぇ」
その状況を見てカラカラの声を絞り出したのは、郁子とトラばあちゃんの孫だという男性だった。
孫でも、雪緒よりも年上だ。緊張しきった面持ちで何度も唾液を飲み込みながら、なんとか雪緒の近くに座り込んでトラばあちゃんの指を剥がそうとしてくれる。
一本一本、凄い力で食い込んでいる指を引き剥がしてくれた。
中指を剥がそうとする時に、ペキッ、と、軽い何かが折れる音がしたのは雪緒も、男孫のその人も、言わなかった。
そんな事を気にしていられる状況ではなかった、からだ。
それからは、皆再び黙々と動き始めた。棺を戻し、葬儀社の人を呼んでトラばあちゃんを棺の中に戻してもらい、解けかけていたドライアイスをまた抱かせる。この気温で、密閉されていない空間にご遺体を置いておくわけには、いかない。
焼香台を改めて整え直し、線香を立て直す。少し焦げた畳は、その上に座布団を置いて誤魔化す事になった。ドライアイスで白くなった所は、そのうち溶けて消えるだろう。
雪緒は、それらには参加せずに呆然と見守る。
呆然と、郁子が自分の足首に湿布を貼って、どす黒く残ってしまった指の痕跡を隠してくれている光景を見守ることしか、出来なかった。
「ほんに、なんでこったなこどになったのがしら……」
ごめんね、雪緒ちゃん。
真っ青な顔で謝ってくる郁子に頭を下げて、雪緒は一足先に帰宅する事になった。丁度妹と祖母が合流したというのもあるが、どうにも酷く足首が痛むのだ。
トラばあちゃんが棺台から落ちた理由も、何故雪緒の足を掴んだのかも、わからない。死後硬直で固まっていたはずの身体が何故足を掴む事が出来たのか。そして、掴んだ後のあの指の力の強さ――
ヒョコ、と足を引きずりながら、雪緒は背筋に嫌な汗がじわりと浮かぶのを感じていた。
もうすでに死んでいるはずのご遺体が、人の足を掴めるものだろうか。そもそも、あんなに強い力が出るものだろうか?
なによりあの時、トラばあちゃんの顔は真っ黒な穴だった。一体どんな表情で、どんな形相で自分の足を掴んでいたのか、雪緒にはわからない。
だが、トラばあちゃんに足を掴まれた瞬間から、郁子たちの顔にあった黒い穴は見えなくなった。まるでそういうナニカが人から人へ移動しているかのような嫌な感じに、雪緒は眉間を揉んでしまう。
考えたくないのに色々と分析しそうになって――しなければいけないような気がして、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
事情を知らない春風が、あまりに真っ白になっている兄の顔に「どうしたの」と驚いた顔をしていたけれど、理由を説明する事は誰にも出来なかった。
だって、あまりにも非現実的すぎるだろう。話した所で、信じてもらえる自信がない。
そもそも、話していいのかもわからない。もしかしたら、トラばあちゃんの見送りがおかしな方向に行ってしまうかもしれないのだ。
あの優しかったトラばあちゃんが、化け物のような扱いをされてしまうのだけは、雪緒には絶対に受け入れられなかった。
祖母と妹が来てくれて良かったと、じんわりと額に滲む汗を拭いながら思う。
同じ家から代打が来てくれたとなれば、役に立たない雪緒が場を辞去しても問題にはならないだろう。
本当はトラばあちゃんをきちんと見送りたかったが、この場合はもう仕方がない。フラフラとカブのハンドルを握りながら、雪緒は深く深く溜め息を吐き出した。
何となく、カブを走らせて家に戻る気になれない。
というよりも、なんだか全てに疲れてしまっていた。一日はまだ始まったばかりだというのに、ここ数日の謎の現象で精神がすっかり疲れてしまっている。
おかしなものが視えるのは、日常のはずだ。
いつから日常になったのか――あれだけ嫌だったものを何で受け入れ始めたのか。そんなのはもうどうでもいい。考えても仕方がない事なのだ。ただ雪緒は「
雪緒はあまりにも普通に、ただただ日常のように、あぁいったものが視えていて、ほとんど無意識のようにあぁいうものをどうするかという対処を学んでいたのだろう。
知識としては、井戸水の事だとかそういうのが顕著じゃないだろうか。部屋の四方を綺麗な水で拭うとか、今まではあんな事はしなかった。
しようとも思わなかったのか、ただその知識を持っていなかったのか――それは、わからないのだけれど。
あぁなんで、なんでこんな事になっているのだろうか。
軽く頭痛がして、カブのキーをさす手が震える。冷え切っていた指先に、なかなか体温が戻っていかないような、そんな感覚だ。指先がジンジンして、ほんの少し痒い気もしてくる。
なんなんだ。
これは、一体なんなんだよ……
「にゃあん」
「……っ!」
カブのキーを手元に引き戻して深呼吸をしようとした雪緒は、不意に聞こえてきた猫の声に驚いておかしな息の吐き方をしてしまった。
ヒュッと吸い込んだ息がおかしなところに入ってしまって、むせる。何でこういう唾液が変な所に入るといつもより苦しく感じるんだろうか。
咳き込みつつそんな事を考えていると、高梨家の立派な生け垣の上に黒い猫が寝転んでいた。いくら猫とはいえ、生け垣の上に居るのはどうなんだ。
ぼんやりと黒い猫を見つめていると、尻尾をゆらゆらと揺らしてまたもう一度、猫が鳴く。
その声になんだか安心して、雪緒はもにょっと口元を笑みの形に歪めた。猫が何かをしてくれたわけではないけれど、なんだか一瞬で思考が「日常」に戻れたような、そんな気がしたのだ。
「ありがとな」
「にゃぁ~~」
可愛らしい鈴の転がるような甘え声に、思わず顔がほころんでしまう。咳もすっかり止まっていて、今度はすんなりカブのキーがささってくれた。
相変わらず足首が痛いので踏ん張れそうにはないが、ノロノロ歩くよりもカブでサッサと帰ったほうが楽なのは間違いないだろう。
こういう時は持っているのがバイクじゃなくてよかったと思ってしまって、雪緒は軽く猫に手を振ってからカブを転がして高梨家の敷地から出ていった。
こんな足では、カブに乗るのも一苦労だ。なんだかやけに足が痛くて重くて、足を一度地面から離すともう一度足をつく時に痛むのではないかと思うと怖くもなる。
が、そんな子どものような事は言っていられない。一度家に戻って、もう一度しっかり足を見て、必要なら少し行った所にある診療所に行って診てもらわないといけないのだ。
診療所は勿論東京のクリニックの設備には遠く及ばないけれど、あの診療所の先生と看護師さんは人柄が良いと評判だ。雪緒が居た時も落ち込む事の多かった雪緒に寄り添って親身に話を聞いてくれたりもしたし、今まだあの先生が現役ならば躊躇するような場所でもなかった。
しかし、湿布をとって確認するのはなんか嫌だな……
難しい顔をして、カブに乗ってすぐに到着する自宅の車庫までカブに乗ったまま入っていく。普段ならこんな横着をしたら祖母に叱られてしまうけれど、今祖母は高梨家に手伝いに行っているのだから文句を言う人は誰も居まい。
「こら、雪緒!カブで庭まで入るなって何度言ったらわがるんだい!」
「……は?」
だが、雪緒の思惑が外れて、掃き出し窓が思い切り開かれて家の中から祖母が顔を出してピシャッと雪緒を叱りつける。
これには、雪緒はまた言葉を失ってしまった。
そこに居るのは間違いなく雪緒の祖母、その人だ。まだ喪服は必要ないからだろうか、黒っぽい上下を着てはいるがそれは動きやすそうで、これから手伝いに行くのだろうと思わせる服装をしている。
なんで……?
その言葉が出てこなくって、雪緒は祖母の顔を見る事が、出来なかった。