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第60話 夢中

 真っ暗な視界の中を、規則的な距離感で光が通り抜けていく。ぼんやりとしていた雪緒がその光を街灯であると理解したのは、隣りに座っている女性がしくしくと泣き始めてからだ。

 慌てて、眠りかけていた頭を叩き起こして泣いている女性の手に手を重ねる。女性の手は、彼女が抱き締めている子どもの体温が移ったかのようにあったかくて――熱くて。なんだか少し、心配になってしまった。

 けれど、「大丈夫だよ」なんて事は間違っても言う事が出来ない。だって、本当に大丈夫かなんていうのはわからないのだ。

 雪緒は医者じゃない。子どもは熱を出しやすいものだというのは妹を見ていてよくわかっているつもりだけれど、妹とは年齢も性別も違う子どもがそうとは限らない。

 だから、雪緒は隣に座っている女性に時折水のペットボトルを差し出したりしながら、父の運転している車が早く病院につくように祈っていた。

 雪緒の家の近くにも診療所はあるけれど、そこはどちらかというと整形外科系なので子どもの内疾患を診てもらうには別のクリニックに行く必要がある。これが、雪緒たちの家の近くに同年代の子どもが居ない理由なんじゃないかなぁと、雪緒は思っていた。

 日本には離島に住んでいて、病院に行くにもドクターヘリに来てもらわないといけないという地域はある。そういう所に比べたら、車で行けるだけ恵まれているだろうけれど、雪緒の家は小学校に行くのにも不便な所なのだ。

 中学校からは自転車で行く事が許されるようになるので小学校の頃のように授業開始2時間前に家を出てトコトコ歩く、なんて事をしないでいいのはラッキーだとは思う。

 同じ県の中でももっと近くに小学校がある市町村なんかいくらでもあるのに、なんだって地元に限ってこんななんだろうか。

 早く大人になりたいなぁ。

 雪緒は、両親に付き合って小児科に向かうたびにそんな事を思っていた。

 そのまま何個街灯を見送ったかとっくにわからなくなった頃に、目指していた小児クリニックに到着して、雪緒の隣に座っていた女性は大急ぎで外に出ていく。手を擦ったり背中を擦ったりしていた雪緒の存在なんか、完全に無視だ。

 まぁ、自分の子供は心配なものだろうし別にいいんだけど。

 そんな事を思っていると、助手席に座っていた母が「雪緒、ごめんね。もうちょっと待っててね」と言って、いくつかの飴玉をくれた。雪緒の好きな、棒付きの薄っぺらいキャンディもあって、少しだけテンションが上がる。

 いつもならこんな時間に飴なんか食べさせてもらえないけれど、今日は特別なんだろう。

 別にご褒美目当てでついてきたわけではないものの、後ろの席で頑張ってあの人を支えていたのを見てくれていたような気がして嬉しくて、雪緒は飴玉数個と棒付きのキャンディを嬉々として受け取った。

 ミルク味がふたっつと、四角いちょっと大人なキャラメル味の飴と、まぁるいハッカ味の飴と、ソーダ味のどんぐり飴。それから、棒付きキャンディはいちご味だった。

 ほんのり香ってくるいちご味のキャンディの匂いが嬉しくて、車の外に出る両親を見送ってから「どれを食べようかな」とウキウキしながら両手のひらのキャンディを見た。ここはやはり、2個あるミルク味から食べるべきだろうか。

 よし、ミルクだ。

 そう決めて、ミルク味の飴を右手でぎゅっと握りしめ、残りのキャンディをポケットに押し込んだ、その時だ。

 突然雪緒の視界が白く、明るくなり、パァーッと甲高い音が尾を引いて聞こえて――それから、グシャン、と、何かが爆発するような音がして、耳がキーンと、なった。

 キーンキーンと、祖父が乗っている古い車がスピードを出しすぎた時に聞こえてくる甲高い音が頭の中で何度も何度も繰り返し聞こえて、他の音がよく聞こえない。

 ようやく聞こえてきたのは何度も何度も、繰り返し繰り返し悲鳴をあげる、隣の座っていた女の人の悲鳴と、泣き声。彼女の腕の中で泣きわめく赤ん坊。まだかかったままの、車のエンジンの音。

 それから、壁に突っ込んでも止まらない大型トラックのデカいタイヤがから回っている嫌な音。

 その光景は、雪緒にとってはまるで異世界の事のようで、なにがなんだかよくわからなかった。何が起きているのか。何が起きたのか。

 どうして自分がここに居るのかも、わからない。


『ゆきお』


 車の中に居るのに、トラックが突っ込んだ壁とトラックの前部の隙間が、やけにハッキリと視える。

 そこには両親が、手で整えられた餅のようにうすっぺたく、びっくりするくらいの小ささでそこに居た。なのに、目はぎょろぎょろしていて、潰れた頭から流れ出しているどす黒い血が白目を赤く染めているのに、妙にギラギラと、視えていた。


『こっちへおいで』


 穏やかな母親の声とは裏腹に、ギャリギャリとまだトラックのタイヤが空転している。そのせいなのかどうか、母の向こうに居る父の頭がばきょっと割れて、上に向かってピンク色で柔らかな何かが噴き上がったのが見えた。


『こちらへおいで』


 今度は父が、そう言った。母と頭半分くらい身長差があった父の顔も何故かこちらを向いていて、壁とトラックに押しつぶされた顔面が徐々に真っ赤になっていくのも、はっきり視える。鼻からどろっとピンクのものが溢れて、続けて凄い量の血がばしゃばしゃと壁を叩く。

 それなのに両親は、真っ赤ではあるが骨も折れていない無事な腕をこちらに伸ばして「こちらへおいで」と言う。

 そのあたりでようやく、雪緒はこれが夢だと気がついた。

 だってあの日、雪緒の目からは両親の死に様なんかは見えなかった。勿論「こちらへおいで」とも言われていない。

 車から外に出ようとした雪緒はクリニックの看護師さんに「外に出てはいけない」と止められて、車ごと移動させられて。ようやく外に出られたのは一晩ぐっすりと眠った翌朝の事だった。

 それも自分から出たわけじゃない。目が覚めたら朝で、クリニックの病院のベッドだったのだ。

 そんな自分の第一声は、「おとうさんとおかあさんは?」だったのを、今でも覚えている。そんな自分を、クリニックの男性看護師さんが無言でぎゅっと抱き締めてくれたのも、覚えている。

 だからこんな風に、両親が自分を見て死んでいく光景を見ていたワケがないのだ。

 まして、トラックはエンジンを止めないままにずっと両親を押し潰そうとしている。こんなのは、おかしい。

 だって、よく見たら、トラックには誰も乗っていない。

 妙に冷静になって食べようとしていた飴玉を全部ポケットに押し込んだ雪緒は、のそのそと座席を移動して外に出ようとロックを解除した。当時はまだ珍しかったチャイルドロックも、大人の知識があれば解除は簡単だ。

 ガコッ、と、ロックが外れたのを確認して、ドアに手をかける。

 が、


「ダメだよ」


 外に出ようとした雪緒の肩を、誰かが掴んだ。さっきまであの女の人が座っていたすぐ隣の座席。そこに、座っている誰かが、外に出ようとした雪緒を阻止して、動けない。


「外に出ちゃいけない」

「なんで?」

「外に出たら、いけないよ」

「どうして?」


 その人影は、どんな姿なのかハッキリとしない。男の人なんだろうとは思うのだけれど、車のエンジンが止まってしまったからかライトが消えてしまって、その顔も、服装すらハッキリとはわからないのだ。

 ただその人は、まるで人形のように同じ言葉を繰り返す。

 外に出てはいけない。

 それだけだ。

 どうして外に出ちゃいけないのかと、何度雪緒が聞いてもその人が言う事は変わらない。なんで、どうして、あんた誰。様々な言葉でその人に問いかけるが、戻って来る返事は同じものだ。

 外に出てはいけない。

 ただ、それだけ。

 視線を上げれば、両親の視線が未だに自分に向けられているのがわかる。さっきよりも身体がひしゃげてしまったせいか、こちらを見ている眼球も今にも破裂してしまいそうで、もう少ししたら、両親とは目が合わなくなってしまうかもしれない。

 焦って雪緒が前の席に乗り出そうとすると、今度は雪緒の目を薄っぺらい手が覆って、視界を遮られてしまった。


「いけないよ」


 その人は、また同じことを繰り返す。

 なんで? 聞いても、返事は同じだ。

 いけないよ。

 その声は、まるで鈴を転がすように聞き心地がよく、けれどとても、不気味だった。

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