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第61話 仏間

 ハッと目を開いた時、雪緒は今自分がどこに居るのかを、一瞬理解する事が出来なかった。

 通り過ぎていく白い街灯の光。視界を焼いた黄色みを帯びたトラックのライト。ストロベリーキャンディのうっすらとしたピンク色。

 それから、両親の身体を染めていた真っ赤な血の色。

 まるで色だけ抜き出したようにそれらを思い出して、雪緒は跳ね回る心臓をおさえるように胸に手を当てた。ドクドクとやかましく鳴る心臓は今にも飛び出てしまいそうで、胸に当てた手にもその動きがわかるようだった。

 なんだったんだ。ゆっくりと息を吐き出して、ゆっくりと吸い込んで、心臓の動きを元通りにしようと試みる。それでも落ち着くまでには少しかかって、落ち着くのを待つ間に雪緒は視線を周囲に巡らせた。

 自分の部屋じゃない。居間だ。

 少し視線を動かせばすぐに入ってくる卓袱台の上には常温の麦茶が入ったボトルとコップが置いてあり、あぁそうだ眠る前に麦茶を飲んだんだっけと、やっと思い出す。

 日差しはもう赤くなっていて、そろそろ向こうの山に日が落ちそうな頃合いだった。

 服はまだ高梨家に手伝いに行った時のままで、居間で寝たせいで流れた汗でしっとり重くなっている。

 喉が渇いた。のそのそ起き上がり、まだうるさい心臓を外からドンドンと叩いてから、コップに麦茶を入れて一気に飲み干す。冷たくない常温の麦茶は喉にも胃にも優しくて、ようやっと一息つけた。

 なんでこんな所で転がって寝ているんだっけ。腹の上にかけられたバスタオルは、きっと祖母がかけてくれたものだろうけれど、ここで寝る事になった理由が思い出せない。

 確かに疲れ切ってはいたけれど、そんな、寝転がった瞬間すら思い出せないくらいにいきなり寝てしまうなんて、思わなかった。

 少しの間またぼんやりとしてからもう一杯麦茶を飲んで、仏間にフラフラと入っていく。

 理由なんかは特にない。ただ、嗅ぎ慣れた線香の匂いにつられて行って、そのまま両親と祖父の分の線香に火をつけて立てた。

 あんな夢を見たからナーバスになっているだけだ。

 自分にそう言い聞かせるけれど、どうにも落ち込んだ脳みそが元に戻ってくれる気配がない。

 足首もまだ痛く、立ち上がるのにも一苦労だ。はぁ、と溜め息を吐いて、仏壇のすぐ前にあるフカフカの座布団に座ったまま足を伸ばして、湿布の貼られた足首を見る。

 湿布は手形を隠すためのものだったはずだが、こうしてみるとほんの少しはみ出ていて、それが少し不気味だ。

 風呂に入ってから湿布を貼り直そうか。はぁーと溜め息を吐いてから、雪緒は冷蔵庫の中に冷湿布があったかだけを確認して、風呂に入る事にした。

 普段であれば妹と風呂の順番を争ったりもするのだけれど、妹と祖母は今夜は遅くなるだろうしさっさと入ってしまってもいいだろう。

 掴まれた足を引き摺りながら庭に出て洗濯物を取り込み、着替えはその中から適当にチョイスすればいいだろうと横着をする。庭に出るだけならまだしも、着替えを取りに行くためだけに階段を上がるのはちょっと、面倒だったのだ。

 シャワーを浴びるのも、正直面倒だった。

 風呂に入るのに湿布を剥がして手形を直視するのも嫌だったし、風呂に入る事で血流がよくなって痛みがぶり返すだろうというのも嫌だった。

 中学生の頃、体育の授業でバスケットボールをした時に変な風に足を挫いてしばらくは風呂に入るだけで足が痛んだこともあったのだ。あの時の事を思い出すだけで、何となく腹の奥がモヤモヤする。

 しかし居間の雪緒はいい大人だ。自分の体臭もちょっと気になるお年頃だし、何よりこのベタベタの冷や汗を身体にくっつけたまま眠りたくはない。

 すっかり汗でじっとりした服を洗濯機に放り込んで、一応脱水槽に他の人の服が入っていないのを確認してから風呂に入る。懐かしい青いタイルの風呂場は、最近リフォームしたとかで綺麗なものだ。

 ちょっと前まではグルグル回すレバーで着火しなければお湯が出なかった事を考えると、近代化したものだと思う。

 一瞬、湯船に湯も張っておけばよかったかなと思ったが、どうせこの足では長時間はいることなんかは出来ないだろうと、一応浴槽を洗うだけはして自分はサッサとシャワーで風呂を済ませた。

 この時間はまだ蒸す。冷たいシャワーでサッと汗を流して、メントール入りのシャンプーで頭を洗ったほうが、さっぱりして気持ちがいい。

「……ん?」

 所要時間はほんの5分程度だろうか。烏の行水と言ってもいいくらいの速度で風呂から上がった雪緒は、湿布を取りに台所へ向かおうとしてピタリと足を止めた。

 仏間に、誰か居る。

 風呂に入っている間に誰か戻ってきたのだろうかと覗いてみれば、あの後ろ姿は春風のものだろう。

 白いTシャツに七分丈のジーンズなんて、手伝いには向いているものの葬儀には向かない格好な気がするが、帰宅してすぐに着替えたのだろうか。


「……って……るよ……」


 はて、と思いながら仏間を横切ると、春風が仏壇に手を合わせながら何かをブツブツと言っていることに気がついた。

 元々春風は仏壇の両親と祖父の写真に向けて色々と報告するタイプの子だが、こんなに静かに何かを話しているのは珍しい。

 やはり子供の頃から馴染みのあるご近所さんの急逝には思う所があるのだろうか。まだ多感な時期だしな、としみじみとした雪緒は、タオルで髪をガシガシと拭きながら妹の背中を見守った。

 報告が終わったら一緒に夕飯を食べるのもいい。そう、思ったのだ。


「パパ……ママ、もうすぐだからね……」


 もうすぐ?

 さっきよりもハッキリと聞こえた妹の言葉に、首を傾げる。そもそも妹は、両親の事をパパとママと呼んでいただろうか。

 物心付く前に亡くなった両親だから、春風は「お父さん、お母さん」とか、そういう呼び方にも馴染みがない様子だったのを覚えている。

 まだ小さなころに、近所の同じくらいの年齢の子が両親と「パパ、ママ」と呼んでいるのを聞いて「いいなぁ」と言っていたのは覚えているが、雪緒がまだこの家に居る間は少なくとも「お父さん、お母さん」だったはず。

 それがこのタイミングで変わるものだろうか。

 いやまぁ、何となく変えたとかそういう可能性は大いにあるのだけれど、何となく違和感で首の後ろがモヤモヤした。

「もうすぐ……もうすぐ迎えに来るよ」

「……なにがだ?」

 ボソボソと話している春風の話の内容がさっぱり理解出来なくて、雪緒は首を傾げながらついに声をかけてしまった。

 兄の存在にはとっくに気付いていたのか、春風はゆっくりと振り返って、微笑む。

 手を合わせたまま雪緒を見て笑う春風の目は、何となくいつもよりも大人びているようにも見える。しかしソレ以外には、特に変わったことがあるようにも見えなくて首を傾げてしまう。

「何が迎えに来るんだ?」

「んふふ……」

「なんだよ」

「なんでもないよ」

 ニヤニヤと笑っている妹に不気味さを感じて、雪緒は「夕飯そうめんでいいよな」とだけ言って仏間を離れた。

 何となく、そのまま春風の顔を見ているのが嫌で、恐ろしく感じて、逃げてしまったのかもしれない。

 何より、足首が酷く痛んで立っていられなかったのだ。やはり風呂に入って血行が良くなったからなのか、それとも何か、想像もしたくないものが作用しているのか。

 わからない。

 わからないが、なんだか苛ついた。折角実家に戻ってきてまでこんな変なことに悩まされるのかと、居間すぐに誰かにこの怒りをぶちまけたくて仕方がない。

 まぁ、こんな話を聞いてくれる友人なんて、雪緒には居ないのだけれど。

「お兄だよ」

「は?」

 いつの間にか背後まで来ていた妹を、しゃがんだまま見上げる。

 折角冷蔵庫から出したばかりのひんやりした湿布が、目測を見誤ってぺとっと手の甲に貼り付いた。


「迎えに来るの、お兄のことだよ」


 春風は、ニヤニヤと笑ったまま出ていってしまった。

 一体何の事を言っているのか、何が迎えに来るというのか。

 それを聞くために引き留めようとした時には、すでに春風の姿は玄関の外の暗闇に隠れて見えなくなってしまっていた。

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