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第62話 東京にて

 にゃぁーん、にゃぁーんと、やかましく鳴く黒猫たちを無視しながら、その男は無言でパイ生地を捏ね続けていた。

 練り練り、練り練り。

 別にそこまでぎゅうぎゅうと力を入れて捏ねなくてもいいのだけれど、無心になりたい時にはやはりこうしてパンだのパイ生地だのを捏ねるのはいい。そんな事を思いながら、キッチンの外に追い出されている猫たちの声を無視して今日何個目になるのかわからないタネをボゥルに放り込む。

 こんなにパイ生地を用意したとしても、全て使う予定は今のところない。

 常連はもう来なくなったし、来る客と言えば飛び込みの客や〝人間ではない〟客くらいのもの。口コミで来てくれる客は夏場には多くなるから用意しておくに越したことはないのだが、来る客の全てがアップルパイを注文してくるとは限らないのでやはり作りすぎたかと、手を洗いながら考える。

 しかし、生地つくりをやめてしまったら頭を空っぽに出来ない。

 鍋磨きも昨日全てやってしまったし、シンクは一昨日やってピッカピカだ。これ以上掃除する所なんかは、カフェ側には一ミリもなさそうで。


『そんなにうだうだするくらいなら、やらなきゃよかったのに』


 に"ゃ~。不満げな猫の声が人間の声に聞こえ始めて、男は眉間に深いシワを刻んだ。睨みつける先には、黒猫が五匹。首輪のついている猫たちはひと睨みすればぴゅーっと逃げていくのだけれど、首輪のない黒猫だけは呆れ顔のまま逃げていきもしない。

 猫にだって表情筋があるのだと知ったのは、この猫のせいだ。猫は犬よりも表情が乏しいと聞いた事があるが、とんでもない。

 目は口ほどに物を言う、ではないけれど、猫だってその表情は豊かだ。

 特に、不満げだったり苛ついている時なんかは顕著にその表情がハッキリと見えてくる。きっと、猫側にも言いたいことがいっぱいあるから、こちらも表情が見えるようになってくるのかもしれない。

「やった事に関しては後悔してませんよ」

『後悔以外はしてるって事?』

「やかましい」

『ニンゲンってやっぱりバカなのね』

「やかましいですよ。今日はおやつ抜きがいいんですか」

 にゃ~にゃ~と呆れたように言う猫は、おやつ抜きと言われると尻尾をパタンパタンとさせて不満を現す。

 こうしてこちらを「ニンゲン」と呼ぶ類の猫であっても、やはりあのスティック状の液状おやつには弱いようだ。

 後悔以外をしているのか、と言われれば、まぁ「そうですね」としか言えないので、言わない。

 彼の――鷹羽雪緒の記憶を閉じ込めた事に関しての後悔はしていない。何しろ、彼は相当影響されやすい体質なのか、オカルト的なものに深く触れた結果、酷く精神の調子を崩してしまっていたのだ。

 本人はきっと気付いていなかっただろうが、出会った時よりも言葉遣いが乱暴になりかけていた。

 それだけじゃなく、足元を真っ赤に染めるくらいの血液や汚物、縊死死体なんかを見ても顔色一つ変えず、なんなら退屈そうな顔すら見せたのだ。

 そんな反応を見せる人間を、彼は今まで見たことがなかった。

 この【黒猫茶屋】を見つけて入ってくる人間は大体何らかの霊的影響力を持つ人間だが、彼は特に影響されやすい体質だったのだろうと思う。

 この【黒猫茶屋】に通い詰めていたのも、良くなかったのかもしれない。

 整えようとしていたパイ生地をぎゅうと握って、知れず眉間のシワが深くなる。

 この店に来る人間は助けを求めている者ばかりだ。あの犬飼とキクの二人のように、何らかの理由でもってここの噂を聞きつけて助けを求めてくる。

 だから、問題が過ぎ去ればここに来なくなるし、それは「そういうもの」だと受け入れていた。

 寂しくなんかはない。人の出会いは一期一会だ。いつだって最後に自分だけがここに残される事にも、いい加減慣れていた。

 けれど、鷹羽は自分からこの店を見つけてドアを開き、「やってますか?」と声をかけてきた。

 猫たちに招かれたわけでも、ネットの噂でここを見つけたわけでもなく、ただ偶然穴場を見つけたと言った表情で。

 だからついつい、受け入れすぎてしまった自覚はある。巻き込んでしまったのは自分だという事も、理解している。

 ここは駆け込み寺だ。霊的なものに困った人だけが来る、場所。

 それなのに、前のマスターが適当に決めたメニューを旨い旨いと食べてくれるから、つい何度も来る事を許してしまった。彼もまた困った〝目〟を持っているのだからと、それを免罪符にして受け入れてしまった。

 手水舎の水で作ったわらび餅やりんごのコンポート。それから冷やしただけのそれを飲ませる事で、出来るだけこの店から受けるだろう霊的なものの影響力は排除してきた、つもりだ。

 けれど、やはりダメで――だから、彼を遠ざけた。

 彼が毎日ここに通ってきた側の扉を封じて、一番霊的な存在が活発な夏の時期を乗り越えたらきっと彼も元の「鷹羽雪緒」に戻れるだろうと、そう信じて、送り出した。

 もう二度と戻って来るなと、願って扉を閉ざした。

 後悔はしていない。絶対に。

 この店を受け継ぐ事が決まった時から、友人だとか家族だとか、そういうものとは縁遠くなることは覚悟をしていたのだ。

 先代マスターは「望めばいい」と言ってくれたが、そもそもそれまでの人生もろくでもなかったから、友人も家族もどっちも要らないと、思ってて。

 だからきっと平気だろうと、思っていたのに。

『強い友情は恋愛感情にも似てるって、誰かが言ってたにゃ~』

「誰です。お前にそんなしょーもない事を教えたのは」

『犬飼おにーちゃん。名前は嫌いだけど、いい子だったにゃ~。また来ればいいのに』

「こんな所、来ない方がいいに決まってるでしょ」

 あぁそうか、犬飼か。確かに彼なら「強い友情」と「恋愛感情」の間でウロウロしていそうだ。

 もうすでに連絡先も削除しているし、なんならブロックもしているので彼らのその先の進展はわからない。だが、どちらを選ぶにしても後悔しない選択をしてくれればいいと、何となく思った。

 彼らはまだ若い。

 選べる枝の先は無限に広がっているのだ。


「ねぇ、さみしい?」


 スルリと、黒い猫は小さな女の子に姿を変えて足元にすり寄ってきた。本当にズルい事だ。こんな姿で目をうるうるさせながらそんな事を聞かれたら、無下にする方が酷い人間のように見えてしまうのに。

 それがわかっているから、この姿を覚えたのかもしれないけれど。


「寂しいよ」


 後悔はしてない。けれど、感情はそれだけじゃない。

 寂しいという感情はとっくに捨てたはずだったのに、彼と、この子と、犬飼と、キクと。5人でドタバタしていた夏の日が思ったよりも楽しくて、きっとそれが寂しいのだ。

 そのうち忘れる。いつものように、なんでもなくなる。

 そう思っているのだけれど、まだ「なんでもない」までは言っていなくて、残った寂しさが心臓を内側からチクチク針で刺してくる。

 いい年して、愚かなことだ。

「じゃあね、じゃあね。イイことを教えてあげる。にゃん」

「別にその身体でにゃんとか言わなくていいんだよ」

「いいの! あのね、あのね、お兄さん今ね、涼しい所に居るみたい」

 にゃーん! と猫の真似をして、小さな少女が言う。千百合、と名付けたのは、先代マスターだった。

 「百合は俺らにとっては縁起の良い花だから、それが千本あったら無敵じゃね?」なんてバカな理由でつけられた名前だったが、本人も気に入っているようだったのでそう名付けた。それだけの名前。

『百合の花には君を導いてくれる力もあるかもね』

 なんて不確かな言葉に、なんだそりゃ、と思ったのを覚えている。けれど、確かに、この子は――千百合は、いつだって自分の傍に居て導いて、護ってくれていた。

 自分みたいな人間のどこがいいのか、自分ではさっぱりわからないのだけれど。


「たかばおにーちゃん、多分ちょっと、あぶないとおもうよ」


 そんなだから、彼女のその言葉を疑う事なんて、ほんの一瞬でも有り得ないのだ。

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