ピリリリリリリリ
ピリリリリリリリ
ピリリリリリリリ
翌朝、いつも通りにアラームで起こされた雪緒は、妹からの文句が出ないうちにアラームを止めて起き上がった。
階下から人の気配はあるものの、妹が上がってくる気配はない。
あぁ、夜のうちに帰ってきていたのか。当たり前に階下から人の気配がする事を受け入れていた雪緒は、ふと昨日あった事を思い出して、祖母と妹が夜のうちに帰ってきていた事に安心した。
もしかしたら二人は自分の代わりに夜伽をしていたのかもしれないと思ったが、そこまでは求められなかったようだ。雪緒とて可愛がられていた男の子、という事で選ばれたと聞いているし、春風には自分が居たからトラばあちゃんと付き合いがそこまで深くなかったのだろう。
そう思うと、夜伽をするでもなく帰宅してしまった事が申し訳なく感じてしまって、雪緒はササッと寝巻きから着替えると、寝汗でじっとりしている寝間着を抱えて階段を降りた。
二人が何時に帰ってきたのかは知らないが、少なくとも疲れ切ってとっとと眠ってしまった雪緒よりも後に眠りについたのは間違いない。
そんな二人に、朝の家事全てを預けてしまうのは酷だろう。春風はともかく、祖母はもういいトシだ。
まだ痛む足を引き摺りながら、ゆっくりゆっくり、階段を降りる。この痛みはなんなんだろうか。掴まれただけでここまで痛みが残るものなのか?
首を傾げながら階段を降りきると、どうやら春風と祖母は仏間に居るらしいという事に気がついた。
ちょっと、ドキッとしてしまう。昨日、夕飯の時間帯に一度家に戻ってきていた春風は、何かおかしな雰囲気だった。言葉はハッキリしているのに、なんだか彼女らしくない、おかしな表情をしていたような、気がする。
いや、正確に言うと、表情の事は覚えていない。彼女がどんな表情をしていたのか、どんな雰囲気であんな言葉を言ったのか、どれもこれも定かではなかった。
『もうすぐ……もうすぐ迎えに来るよ』
春風の昨日の言葉を思い出して、背筋に冷たいものが走る。なぜだか、今仏間で話をしている祖母と春風に声をかけてはいけないような気がして、雪緒はそろりそろりと仏間の前を通って居間へと向かう。
いつもであればとっくに用意されていてもおかしくない朝食はまるで用意されていなくって、卵のひとつも割られてはいなかった。珍しい、と思うが、きっと二人も遅くに帰ってきて朝寝坊をしたのかもしれないと思う事にして、またちらりと、襖の閉じられた仏間へ視線を向ける。
何か作っておいてやろうと思うのだけれど、少しでも食器を手に取ったり調理器具を動かしたりしたら二人に気付かれてしまいそうで、今台所に入るべきかも悩んでしまう。
どうしたものか。
少し考えてから、とりあえず掴んだままだった己の寝間着を洗濯機に放り込もうと、再びソロソロと仏間の前を通って脱衣所へ向かった。
脱衣所の洗濯機の中には、昨日雪緒が脱いだ服だけが入っている。普段風呂のために服を脱いですぐに洗濯機に汚れ物を押し込むのがみんなのいつものルーティーンなのに、今日はまだ雪緒だけだ。
夜遅くに戻ってきたからまだ風呂に入っていないのか? 訝しんで、いやいや、いくら夜とはいえこの真夏だ。シャワーも浴びずに眠るなんて気持ち悪くてたまらないはず。
では何故、汚れ物が自分のものだけなのだろう。
もしかして、朝に帰ってきたのだろうか? だとしても、仏間に直行して障子や襖を閉じきり、二人だけでヒソヒソ話しているというのも、違和感でしかない。
声を掛けるべきだろうか。ソロソロと部屋から出てきたからまだ自分が起きてきたことに気付いていないのかもしれないし、やはりいつもの春風の元気な声がなければ、一日が始まった気がしない。
雪緒は、まだ仏間から話し声がしてきている事を確認してから脱衣所から出る。一声かけて、なんなら朝食は自分が作ると言ってやればいい。ただそれだけの事だ。
怖がることなんか、なにもない。
なにもない、のに。
ビシャッ、
廊下に出て、縁側の方から仏間に向かおうとした雪緒は、何かを素足で思い切り踏んでしまったような感覚にピタリと足を止めた。
何だ。もしかして水でもぶちまけてたか、と、足元を見ると、それは朝陽の中で鮮やかにぬめる赤い液体だった。
生臭さは感じない、のに、それが血液であると雪緒は本能的に察する。
両親が死んだ時に地面を真っ赤に汚していた液体や、〝あの姉妹〟の姉が殺されていた倉庫で足元を汚した液体とまったく、同じだから、わかる。
思い切り一歩をひいたら、痛めた足が軸足になったせいで無様に尻もちをついてしまった。ドタンッと大きな音がしたけれど、声は出ない。
喉が張り付いたようにヒューヒューという変な息しか出てこなくって、そのせいで酷く、喉が痛む。
見た夢が、まるで現実に出てきてしまったかのように、赤い色がやけにリアルに感じられる。両親の身体から溢れ出していた血が、頭を内側からチクチクと突き刺してくるような痛みを感じる。
あぁ、あぁ、両親だけじゃない。あの人もだ。いや、誰だ? なんだか、こんな風に足元が真っ赤になる場所に行った事がある気がするのに、それもつい最近行った気がするのに、頭が痛くてよく思い出せない。
なんだ? 一体なんなんだ?
両手を床につけばぬるりとしていて、水に溶いていない水彩絵の具よりも重くもったりしているその液体から目が離せない。
こんなもの、昨日の夜にはなかったのに。
なんでこんなものが、縁側を汚しているんだ? なんで?
「……っ!!」
グラグラと頭が働かなくなって来るのを自覚した雪緒は、掃き出し窓を思い切り開くと裸足のまま外に走り出した。
井戸水。
おかしな事があったら井戸水に頼る。
それだけがずっと頭の中にあって、それだけが救いで、雪緒はほんの数歩しかない距離を走る間にもみだれてしまった息を必死で飲み込んで井戸水のポンプに縋り付いた。
ひんやりとしたポンプは井戸水がすぐ近くにある事を思い出させてくれて、煮えそうになっていた頭に少しだけ冷静さを引き戻してくれる。
『ユキくん』
しかし、雪緒はポンプを思い切り引き下ろす前に聞こえてきた声に腕をビクリと跳ねさせて、止めた。
井戸水のポンプの前にあるのは、車庫だ。出入り口こそポンプの方に向いてはいないけれど、少し顔を上げれば両親や祖父が大事にしていたクラウンが目の前に現れる。
雪緒も大好きな、いつか運転出来ればいいと子供の頃には思っていた、今は時代遅れなんて言われてしまう、四角い車。
その車の中に人影がある事に気がついて、雪緒はまたその場に尻もちをついてしまった。
『ユキくん、おいで』
折角着替えた新しいハーフパンツが、湿った土で汚れるのがわかる。このまま行けば下着にまで染み込んでしまうだろう漏れ出た井戸水を気にする様子は、今の雪緒にはない。
クラウンの運転席には、サングラスを掛けているのだろう男性の姿が見える。男だとわかったのは、やけにハッキリと見える喉仏のせいだ。
父は、喉仏がやけに出っ張っているのをやけに気にしていた。
助手席に居る女性は、サンバイザーを下ろして手には今どき少なくなってしまったマップ本を持っている。ゆっくりとこっちを見る顔は運転席にいる男性よりも頬がまろい。
母は、いつもまぁるい自分の頬を気にしていた。
『おいで、ユキくん』
その光景は、いつもの両親の姿と寸分の違いもないものだった。母はいつもひと足早く車に乗って、母に「おいで」と言われると雪緒は急いで助手席側の後部ドアから車に乗っていたものだった。
あれ、あぁ、そうだ、あの日。
あの日は、助手席の後ろの席にあの母子が座ったから、雪緒は運転席側に回って、運転席側の後部ドアからドアに乗ったのだ。
そう、そうだった。今はどうでもいいことなのに、どうして、そんな事を思い出すんだろう。
雪緒は転げるように立ち上がると、ズキズキと痛む足を無視して縁側に駆け上がった。これだけドタバタしていれば、仏間に居る祖母と妹だって自分が起きたことに気付くだろう。
何をしているんだと怒られるかもしれないし、洗濯物が増えた事にも文句を言われるかもしれない。
けれど、それでいい。
そんな日常が、今は恋しい。
「ばぁちゃん! 春風!」
縁側に流れる赤い液体を踏み散らして仏間の障子に手をかけて、出なかった声を張り上げてそれを、開く。
しかし仏間は昨日雪緒が線香をあげるために戸を開いたままの状態で、部屋の中には誰の姿も、なかった。