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第64話 混乱

 一体何が起きているんだ。

 雪緒は、もはや一階に居るのも嫌で外に飛び出すと、庭に増設されていたプレハブ小屋に転がり込んでいた。

 ここは、雪緒が思春期の頃に祖父が建ててくれた雪緒の逃げ場所だった。エアコンも入れてくれて、丁度家の影になる位置にあるのでプレハブ小屋とはいえそこまで暑くも寒くもなく、春風が祖父母に甘えている時には雪緒はここで一人本を読んだりゲームをしたりと、一人の時間を噛み締めていたのだ。

 ただ、雪緒が高校生も半ばになる頃には、ここはただの学習部屋となり眠るのは母屋の二階の自室になった。

 いきなり両親を失った多感な時期の少年を無理に構う事もせず、しかし突き放しもせず。そんな教育方針だった祖父母が作ってくれたこのプレハブ小屋がいいように作用していたのは、間違いがないだろう。

 今もこのプレハブ小屋は、雪緒が帰省してきた時に一人になりたくなったら逃げ込む場所になっていた。最近はとんとご無沙汰だったが、きちんと掃除はされていたのか埃っぽい感じもなく突然入り込んでも空気の悪さも無い。

 それには感謝するけれど、雪緒はドクドクとやかましい心臓をここで落ち着ける事が出来るのかと、酷く不安な気持ちになっていた。

 服はまだドロドロのままだったのでプレハブ小屋に置いてあった高校の頃のジャージに着替え、足に巻いていた包帯はゴミ箱に押し込む。湿布もドロドロになってしまっているが、流石に湿布の替えは置いてないのでどうしようも出来なかった。

 母屋に一体何が起きているのか、さっぱりわからない。

 いや、母屋だけの問題でもないだろう。

 自分の周りで何かが起きているのは間違いがないが、それが何でなのか、一体何があってこんな事になっているのかがまるでわからなかった。

 雪緒はえる体質だ。でも、だからといってこんな風に積極的に触れてこられるのは初めてのことだった。

 いや、本当に初めてだろうか?

 座椅子に座り込んで膝を抱え、前髪をぐしゃりと握り込む。頭が痛い。

 今のこの状況が初めてかどうか、雪緒には判断が出来なかった。子供の時の事なんかは流石に覚えていない、というレベルの話ではなく、最近どこか記憶がすっぽり抜けているような、パズルのピースが1個落ちてしまったような、そんな感覚があったのは確かなのだ。

 けれどその記憶らしき断片はどこにも見つからなくって、東京に居る時には「何か忘れている気がする」とは思えど、それが何なのかはまるで気にならなかった。

 きっとそんな風に忘れているのは、思い出せないのは、そこまで重要な記憶ではないのだろうと思ったから、というのはある。

 それに、夏場は本当に仕事が忙しいのだ。

 様々な世界観の作品が頭に殴り込みをかけてきて、その影響でどれがどの作品なのか、投稿作品で読んだものか本で読んだものかも曖昧になる、なんてことは最早季節の風物詩だった。

 だからこのモヤモヤもそんなものだろうと思っていて、けれどなんだか酷く重苦しい気持ちになったので久し振りに長期休暇を申請して帰省した。

 忘れたい事とか、忘れたほうがいい事とか、忘れてはいけない事とか。

 そんなものを考えるのももう面倒で、全部を投げ出して戻ってきたのに。

 それなのになんで、こんな事になっているんだろうか。

 ぼんやりと、プレハブ小屋に放置されている古いデスクトップ型のパソコンを起動する。母屋に戻れば携帯ももっと新しいノートパソコンもあるけれど、母屋に行くのはなんだか、嫌だったのだ。

 だが、ここに居る事を知らせておかないと、本当に祖母と春風が戻ってきた時に訝しがられるのは間違いない。

 嫌々ながらメッセージアプリを起動した雪緒は、携帯とアカウントを連携させて祖母と妹と自分の3人のグループを開いた。

 二人からの連絡は、一切来ていない。当たり前か、葬式の準備中だ。

 そこに今連絡を入れても大丈夫だろうか。ちょっとばかり不安になりながら、メッセージを打ち込むウィンドウに文字を入れては消し、入れては消しを繰り返す。


『ちょっと、離れの方に居る』


 そうして考え抜いて打ち込んだのは、そんな簡素な言葉。こんな文字でも打ち込むのに酷く時間がかかってしまって、既読がつくまえに消すかどうか悩んでしまう。

 なんだってそんな事を気にしているのかと自分でも不思議な気持ちになってしまうが、既読がひとつついた瞬間にその場で飛び上がりそうになったのできっとまだ、心が落ち着いていないのだろう。


『お兄、足はもう大丈夫なの?』

『まだ痛い。けど、歩けないほどじゃない』

『そっかぁ。なら、大丈夫かなぁ』


 返信をしてきたのは、やはり春風だった。

 祖母は一応携帯を持っているけれど、スマートフォンの打ち心地が慣れないのかメッセージで返信してくる事は稀だ。

 雪緒が連絡を入れて、春風が返信をする。祖母の連絡は電話ばかりで、折角無料の通話ツールがあるのにと何度も言っているのだけれど、年寄りに新しいことを覚えてもらうのはなかなか難しいようだ。


『何が大丈夫なんだよ』

『てか、なんで離れ? 一応お兄が返ってくる前に掃除はしといたけど』

『それはマジで感謝してる』

『お兄、そこお気に入りだもんね』

『おい、質問に答えろ』

『待ってよー 私もまだよくわかんないんだって』


 こうしてポンポン返信を出来ているという事は、そう忙しい状況でもないのだろうと、緊張しながら文字を打ち込んでいた雪緒はようやく胸をなでおろす。

 春風の返信は今どきの若者らしくそこそこ速いが、流石にキーボードを使っている雪緒ほどの速度ではない。それゆえに前後してしまう会話も楽しみながら、雪緒は妹が言葉を止めた内容が気になって、スタンプ爆撃をして先を促した。

 雪緒が子供の頃から買っている少年漫画雑誌の中の、特に大好きなヒーローバトルものの漫画のスタンプ。適当に右から左へとスタンプ一覧を適当にクリックしながら爆撃していくと、春風が「うるさーい!」と怒っているウサギのスタンプで反撃してきたので笑ってしまった。


『あのねぇ、お手伝いが欲しいんだって』

『今日火葬じゃなかったか? まだお手伝いいるの』

『うーんと、高梨さんちじゃなくてね』

『他のとこ? なんか、荷物運びとか?』

『そうじゃなくてね』


 あのね、お葬式のお手伝い。

 言い難かったのか、少しだけ間をおいて送られてきたメッセージに、タイピングをしていた雪緒の手が止まった。

 お葬式のお手伝い? それは、高梨さんチのトラばあちゃんのお葬式なんじゃないのか? そう思ってもう一度読み返しても、ハッキリと「高梨さんちじゃない」と、メッセージには書かれている。

 高梨さんの家じゃない、お葬式。それも、雪緒が知らない間に、新たに出た、お葬式……


「はぁ?!」


 思わず声を出してしまって、プレハブ小屋の中に反響する己の声にもびっくりしてしまう。

 そりゃあ、そりゃあ、夏や真冬は老人の死亡率が高い時期だ。急激な寒暖差は心臓や血管に負担がかかり、その結果ハイリスクの人々が亡くなってしまうのはこういう田舎町ではよくある事。

 だけれど、まさか2日の間に2人亡くなってしまうなんて、そんなのは聞いてない。

 ドキドキとまたやかましく鳴り始める心臓に、こちらまで心臓が悪くなってしまいそうな不安に襲われる。勿論そんな事はありえないのだが、思ってもいなかった返答にこちらからのメッセージの内容が思い浮かばない。


『大丈夫? お兄?』

『大丈夫。手伝いって、どこの家だ? そんな人手が足りんの?』

『うーん、なんかそうらしいんだよね。雪緒ちゃん無理かしらーってばっちゃたちが言ってるの』

『人手足りないなら、行くけどさ』

『なんか、いきなりだったらしいんだよね~。ほら、この辺なんか、最近車多いじゃない?』

『交通事故だって。覚えてる? 昔さ、お父さんとお母さんが小児科に運んであげた子のお母さん。お兄も一緒についてったんだよね?』

『亡くなったんだって。昨日の夜』


 もう画面を見ている事が出来なくて、雪緒は急いで外に飛び出すと家の裏手のコンクリートの壁に向かって、思い切り胃の中のものをぶちまけた。

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