『いい? ユキくん。ユキくんのおめめはね、内緒にしてるものが見えるおめめなんだ』
ある日そんな事を言った母を、幼い雪緒はきょとんとしながら見上げたものだった。
まだ妹も生まれていない頃だっただろうと思う。そんな頃だったから雪緒も現実と「みてはいけないもの」の差もわからなくって、よく母に「怖い怖い」と泣きついていたものだっけ。
そんな自分を心配したのか、母はよくこの田舎のご先祖様のお墓に連れて行ってくれて、「雪緒を守ってください」と手を合わせていた。
それはそれは真剣に、祈りを捧げていたのだ。
『きっとね、色んな人がユキくんのおめめのこと、うそつきだって言うと思うの』
母の手はあたたかくて、父に抱き締められながら母のお話を聞いている時間が、雪緒は本当に本当に、大好きだった。
妹が産まれてからもその時間は、雪緒にとっては恐怖を忘れられる、大事な時間だったのだ。
『でもね、いつか、いつか――誰かがその目を疑わずに、最初から信じてくれたのなら』
――その人はね、ユキくんの一生の財産になる人よ。
母は、愛おしそうに、大事そうに雪緒の頬を撫でながら、そう言った。
「あ、起きた! おばあちゃーん! お兄ちゃん起きたー!」
「……あ?」
「おにい、大丈夫? 疲れてたなら無理しなくてよかったのに」
「……なに? なにが?」
「覚えてないの?」
ぼんやりと、光の先を目指すように目覚めた雪緒は、目を開けた途端に入り込んできた妹の顔にしばらくの間現実を思い出せなかった。
寝転がっているのは、実家の居間だ。腹の上にかけられているタオルケットは、雪緒が幼い頃に使っていたやつだろう。クタクタになっているけれど、使い心地がいい。
起き上がろうにもどうにも身体が重くってそのまま寝転んでいると、妹の声に呼ばれて祖母が吸い飲みを手に慌ててやってきた。
祖母が言うには、なんでも自分は熱中症で倒れて運ばれてきた、らしい。
鷹田家の葬式に参列しようとしていた客が道路に倒れている雪緒を発見して、通報したものだと聞いた。
その後はもう大変で、三件目の葬式は出してはならぬとご近所の人が雪緒を医者に連れて行ったり祖母と春風を呼んだり、その地域全体で雪緒を助けてくれたのだそうだ。
点滴だ注射だ入院だとドタバタと助けてくれたご近所さんに送られて家に戻った雪緒は、その後も日が落ちてまた日が上がった今まで、すっかり眠りこけていた、と。
まさか丸一日経過していたとは……顔から火が出るとはこの事か。
あまりの恥ずかしさに目眩がしてきたが、しかし顔を隠そうにも腕が上がらないし、顔も熱があるのか酷く熱い。
祖母が差し出してくれた吸い飲みの中身は常温のスポーツドリンクだったけれど、それが大層旨くて驚いた。
「おにいの治療費も、そのお客さんがもってくれたんだって!」
「は? 返さないと……」
「そうなんだけど、その人お葬式までは観光するって、捕まらないって……おにいが起きたら教えてくれって言われたって、鷹田さんが」
「えぇ……」
妹が熱を測る手が、ひんやりと心地よい。
道っぱたで吐いて倒れた雪緒を助けてくれたというそのお客さんは、随分とお人好しのようだと呆れてしまう。普通、どこの誰かが分かっていたら治療費はツケが利く。都会だったらそんなわけにもいかないけれど、この地域の診療所ではそれだって当たり前だ。
それなのにわざわざ首を突っ込んで、しかも金を払って消えるなんて……変な人だ。
よほど、倒れていた時の自分が酷い有様だったのだろうか。
祖母の渡してくれた吸い飲みを全部飲み干してからやっと起き上がった雪緒は、まだクラクラする頭をおさえて外を見た。
時刻は、もう少しで昼になる頃だろうか。
祖母と春風は雪緒が倒れたからと、葬式の準備のお手伝いを免除になったのだそうだ。しかしふたりとも喪服を着ていて、きっとこの後の通夜には参列をするのだろう。
自分はどうしようか。
起き上がったはいいものの、スッキリしない頭でぼんやりと考える。
ただの熱中症だったのなら、丸一日寝ていれば大丈夫だろう。少し熱があるようだが、感染症でもないしお焼香をするくらいなら問題ない。はず。
「今日は……どこのお通夜なんだっけ」
「今日は行くのは……鷹田さんだけど。おにいも来るの?」
「鷹田さんならなおさら行かないとだろ。途中で離脱しちゃったし……金も返さないと」
「無理してまた倒れても知らんよっ」
「挨拶してお焼香したらすぐ戻って来るって」
とりあえずは風呂に入らねば。
ふらふらと立ち上がると、身体全体が鉛のように重くてびっくりしてしまう。まるで風邪で発熱した時のようだと感じた雪緒は、祖母が買っておいてくれていたスポーツドリンクを一気飲みした。
さっき用意してくれていた常温のものも美味かったが、氷を入れてキンキンに冷やしたものは余計に美味く感じる。
身体が火照っているからこそ、余計だ。
何しろ身体が乾いていたのか、身体がまるでスポンジのように水分を吸収しているような気持ちになって、一気飲みしたら驚くほど身体が楽になる。
「ばーちゃん、これ美味しい。どこのスポドリ?」
「それさぁ、アンタのこと拾ってくれた人さもらったお水なんだよ。レモンさ、塩っこど砂糖ちょっこし入れっと、脱水にちょうどいいんだってよ。んで、それ作ってけだんだよねぇ」
「お……じゃあ経口補水液だったのかな」
祖母が冷蔵庫から持ってきてくれたのは、ラベルのないただの水が入っていたのだろうペットボトルだ。
匂いを嗅いでみるとほのかなレモンの香りがしたので、祖母か、その助けてくれた人とやらがレモンだの塩だのを入れて作ってくれたのだろう。
経口補水液を旨いと感じるのはヤバい、と聞いていたので自分の脱水の酷さを実感するが、それよりもこんなラベルのない水を持ち歩いていた人の持っていたものを飲んで大丈夫だったのかと、思ってしまう。
助けてくれて、保険証もなかっただろうし決して安くはない治療費を建て替えてくれた人なんだから、とは思うが、ラベルのないペットボトルというのはどうにも怪しく思えてしまう。
のに、どうしてか「この水は大丈夫」という気持ちにもなってしまって、雪緒は残っていた手作りの経口補水液を一気に煽った。
喉を通り過ぎていく水の冷たさが心地よく、胃液で焼けた喉にピリピリくる塩っけとレモンの刺激が気持ち悪さを洗い流してくれる。
それだけなら決して美味しくないだろうに、たっぷりはいっているのだろう砂糖の甘みのお陰で飲みにくくもなくって、雪緒はすっかり無くなってしまった水が酷く惜しくなってしまった。
「おにい、そんな喉乾いてたの?」
「みたいだな」
「もう1本、ただのお水もくれだがらさ。そっちは、ゆっくり飲むんだよ」
「ただの水? どれ?」
それ、と指さされたのは、冷蔵庫の脇の棚に置いてある1本のペットボトルだった。500ミリリットルサイズのペットボトルには、まるで入っていないようにも見える透明な水が入っていて、冷やされてもいないのに触れれば指先が冷やされたような気持ちになる。
こんな所においていて大丈夫か? という気持ちと、この水なら大丈夫だ、という気持ちと。
心の中で一気に湧き上がってくる不思議な気持ちに、雪緒はどうしてか酷く泣きたいような情念に囚われた。
きっとあんなものをみたからだ。
あんな、みたくもなかったものを、突きつけられたせい
そう思って、そう信じて、胸の中がぎゅうとなる感覚に、必死に堪える。
風呂に入ろう。
そして一口だけ、この水を飲もう。
どうしてかは自分でもわからないけれど、「大事にしなければいけない」という気持ちでペットボトルを撫でると、ふと、雪緒は手首についていた黒い輪っかに気がついた。
なんだろう、と思えば、赤と黒の糸のようなもので作られた紐のブレスレット……のようなものだ。
触ると滑らかだが、細くてただの糸にしか感じられない。この細さなら、ついていても今まで気付きはしなかっただろうなと思うが、しかしその糸の下にある赤いものに気付くと、「これは外してはいけないものだ」という謎の核心も、湧いてくる。
雪緒の手首には、まるで誰かに握り込まれたかのような赤い跡が残っていた。
足首にあるソレのように、ハッキリくっきりと残った赤い痣は、人間の指よりもずっと細いなにかで掴まれたような、そんな細さだ。
まるで、そう、骨に掴まれたような、そんな細さ。
だが手首に残る糸がその痣にしっかりと絡みついていて、しっかりと食らいついているようで、雪緒はまたなにがなんだかわからなくなってしまった。