壁を叩くような音が響く。
海の神の言葉に勢いよく席を立ったのは、カイリだった。怒りの形相をした彼は、強く海の神を睨みつけている。
ガタガタと物が揺れ出し、至る所からミシミシと音が響く。物が宙を浮き、ぶつかり合っている。
――ポルターガイスト。
話には聞いたことはあったが、サイモンも見るのは初めてだった。
「何が気の毒や! 俺たちはお前らに危害を加えた覚えはあらへんぞ!!」
「カイリ、落ち着け!」
「俺等はただ……っ、ただこの近くを通っただけや! それなのに何十年も凍らされたんや! その時の俺等の気持ちが、お前らにわかるんか!?」
カイリの怒声に合せ、周囲の物が揺れる。音がより大きくなり、何もしていないのに物がひしゃげ、ガラスが割れる。
海の神はじっとカイリを見上げていた。カイリは震える自身の手を見つめる。
「寒くて寒くて、身体の芯が静かに冷えていく感覚が今でも残ってんねん。海の状況も、周りの状況もわかるのに、自分の体だけが動かへん。生きているはずやのに死んでいる感覚やった」
「カイリさん……」
「何よりセンパイたちがいなくなる度、何も出来ない自分が嫌んなる! 聞こえないはずの断末魔が頭に残るんや! 何を恨めばええんかも、何に救いを求めればええんかもわからん。地獄みたいな時間をお前は俺たちにしでかしといて、〝気の毒〟!? 頭沸いとんとちゃうか!?」
カイリの怒りは尤もだった。
サイモンは海の神を見る。さすがの彼女も言葉が出ないのか、俯いている。――だが、サイモンには疑問があった。
「それ、本当にこいつがやったのか?」
「ああ゛!? なんや、今更庇うんか!」
「そうじゃない」
そうじゃないが、すっきりしないのだ。
サイモンは激怒するカイリに淡々と説明する。
「お前も見たはずだ。こいつの神域が扉の奥だけに広がっていたことは」
「それがなんなん」
「おかしいと思わないか?」
隠された扉は海の中の、珊瑚の群生地にあった。珊瑚を取ろうとしていれば間違えて神域に入ることもあるかもしれないが、通りがかっただけ――しかも船の上からなんて、入れるかと言われれば疑問が残る。
「お前は神域に入ったからと言っていたが、そもそも神域に入ってすらいなかった。もちろん、周りの珊瑚も獲っていないから、迷い込むこともその煽りを受けたこともないだろう。なら、残された可能性は?」
「はあ? んなもん、神さんの気まぐれでどうとでもなるやろ。俺らの事なんか一切考えてへん。兄さんも言っとったやろ。〝神様と人間の感覚は違う〟って」
カイリの言葉にサイモンは頷く。――確かにその通りだし、サイモン自身長く生きていても、そう思う。だが。
「ああ。でも、それが相手をないがしろにしていい理由にはならないぞ」
「それは……」
「そもそもだ。人懐っこいコイツがそんなことをすると思うか? 寧ろ襲撃して遊ぶんじゃないか、コイツは。さっきのも見てただろ。基本的に愉快犯だぞ? 凍らせて放置なんてもったいないこと、絶対しないだろ」
「……最早庇われとるんか貶されとるんか、わからんな」
海の神の呟きは聞こえなかったことにした。
サイモンはカイリをじっと見つめる。カイリはぐっと言葉に詰まると「た、確かにそうかもしれん……俺なら乗り込んで遊ぶやろうし」と悔しそうに拳を握りしめていた。……なんだかよくわからないが、変な納得の仕方をしている。それに気づいたものの、サイモンは何も言わなかった。
海の神も不服そうな顔をしているが、収まっていくポルターガイストに文句は飲み込むことにしたらしい。非常に助かる。神様でもたまには空気を読めるんだな。
「ほな、俺らがこうなったんは誰のせいなんや?」
「恐らくだが、他の魔法使いが仕掛けた罠にハマったか、或いはそういった魔法道具を持っていたか……粗悪な物なら誤爆するなんてことはよくあるからな」
「ふぅん。じゃあ神さんがやったことやないと、兄ちゃんは言いたいんやな?」
「ああ。それは九割型保証する」
「そこは十割ちゃうんや」
むすっと頬を膨らませ、口を尖らせるカイリに、サイモンは頷く。
その時の海の神の状況を知らないサイモンには、十割を断言することはできない。しかし、可能性は限りなく低いと思っているのは本当だ。
海の神が立ち上がる。カイリの元に向かうと、正面から対峙した。
「この状況で妾の言葉なんぞ信用ならんと思うが、妾はここ数百年、地上に出とらん。だから……酷な言い方になるかもしれんが、お主らの事は記憶にないんじゃ。すまぬ」
「っ、そんなん、覚えてないだけやろ」
「そうかもしれん。だが、妾は凍らせた人間の顔を全て覚えておる。それが罰を与える側の責務であると、妾は思っているんでな。同様に、妾の監視下である海で起きた状況の把握も妾の仕事だと思っておる」
カイリの息を飲む声が聞こえる。
海の神は彼に向かって手を差し出した。
「ここに約束しよう。お主たちを襲った魔法とやらの正体を、その犯人を、妾は絶対に突き止めると」
「……そないなこと出来るんか」
「わからん。だが、何もしないよりはマシじゃろ?」
にっと笑みを浮かべる海の神。どこまでも明るいその表情に、カイリは身構えていたからだから静かに力を抜いた。その顔はさっきの怒りはどこへやら、責任感の強さへの呆れと疑い、そしてほんの少しの期待が浮かんでいた。
「そ。んじゃ、よろしゅう」
「ああ。承知した」
海の神の手をカイリが握る。満足げな顔をする海の神は、その場でくるりと回る。手を繋いだままだったカイリが驚いているが、彼女は構わずくるくる回り続けた。
不気味な笑いが響く。
「グフフフフっ」
「どうしたその笑い。怖いぞ」
「失敬な! 新しい友達が出来て嬉しいんじゃ!」
「喜びの舞くらいしてもいいじゃろ!」と言われ、サイモンは眉を寄せる。踊るのは構わないから、それよりもその笑い方をどうにかして欲しい。
(モンスターの鳴き声かと思ったじゃないか)
サイモンは内心で呟く。何はともあれ、落ち着くところに落ち着いたらしい。大きく息を吐いて、サイモンは肩の荷を下ろした。
――その数分後。
彼女の喜びの舞に城ごと巻き込まれるとは、サイモンも思っていなかった。
場所を変え、大宴会へと発展した喜びの舞とやらが終わった頃には、サイモンの体内時計は深夜を報せていた。
神の神域である此処は時間の概念がない。疲れたサイモンが廊下に出れば、着いた時と変わらない風景が見えた。
(思った以上に時間を食ったな……)
暇を持て余した神の事を侮っていた。
サイモンは廊下に腰を下ろし、ぼうっと天井を見つめる。アリアたちは未だ宴会場にいるのか、楽しそうな声が聞こえる。
「主役がこんなところで油売ってていいのか?」
「その言葉、そっくりそのまま返すぞ」
ふふ、と小さな笑みを浮かべる海の神に、サイモンは視線を下げる。隣に座る海の神はほんのりと酒の匂いがする。……酒を飲めるくらい元気なら見に来る必要はなかったんじゃないだろうか。
(いや、元気とはちょっと違うのか)
思っていたのと状況は違ったが、荒れていたのは本当だったようだし、宴会での周りの喜びようも縁起とは思えなかった。泣いて喜ぶ彼等を思い出してしまえば、無駄だったなんて言えない。
「こうして話すのも、久しぶりじゃのう。どうじゃ、最近は」
「そんな話をしに来たんじゃないだろ?」
「なんじゃ。つまらんのー」
「ちょっとした雑談じゃろて」という海の神。その雑談からどれだけ脱線すると思っているのか。サイモンは小さく息を吐いた。
二人しかいない空間に、沈黙が走る。……こんな時、よく率先して話をしていたのはスクルードだった。
(……懐かしいな)
もう何十年も会っていない親友の顔を思い出しながら、サイモンは目を閉じる。隣にいるの海の神だけが静かに息をしている。
「お主の仲間、いい子達じゃのう。妾も話を聞いて、久しぶりに感動したぞ」
「まあな」
アリアもグレアも、すぐに欠点が浮かばないくらい、いい子だ。「自分にはもったいない」と告げれば「そうじゃな」と返された。一切躊躇いのない返答に、サイモンは一瞬時が止まるのを感じる。
「今のお主の顔を見ていると、あの子達と居た時を思い出すのう」
「あの子達?」
「スクルードとトトじゃったか?」
「もう一人女がおった気がするが、名前はなんじゃったかのう」と呟く海の神を横に、サイモンは息を飲む。
差し出されるグラスを受け取り、すぐに中身を煽った。冷たい水が喉を通って、少しだけすっきりする。
――海の神と初めて出会ったのは、六百年以上前の事。
スクルードと共に亀を助けたサイモンたちは、仲間を引き連れてこの竜宮城へとやって来た。その時はもう少し城もお淑やかだったが、あの時は初めてのことにとにかく驚いていたのを覚えている。
戦争ばかりの外とは違い、煌びやかな世界はあの時から変わらない。
「……あの時は楽しかったな」
「お主とスクルードが追い剥ぎに遭った話を聞いた時は、腹がよじれるかと思ったぞ」
「忘れてくれ」
サイモンは苦く笑みを浮かべる。
確かに、海の神と出会う前に行った町でサイモンはスクルードと共に、追い剥ぎに遭った。親し気に話しかけて来る村人に気を許した結果だったのだが、まさかそのまま無人島にまで流されるとは思わなかった。そのお陰で海の神と会うことも出来たのだが、黒歴史なのは間違いない。
(こうやって考えると、アイツとの旅はハプニングだらけだったな)
ふっと吹き出して、サイモンは静かに目を伏せる。
「スクルードは……あいつは、無事なのか?」
「……さあな。それは流石に妾にもわからん。だが、天の神との連絡が途絶えたのは妾も同じじゃ」
「そうか」
サイモンは俯く。
――スクルードは全神から愛された、唯一の人間だ。その中でも天の神に強く愛され、その恩恵を一身に受けている。それは人類にとっては誇りであり、与えられる恩恵は本人に限らず〝祝福〟として全人類に渡されていた。何百年もの間、変わらずに。
(……俺も、アイツが変わらない限りは、変わらないものだと思っていた)
しかしそれは、他人の手によって強制的に変えられてしまった。しかも本人だけではなく、神さえも脅かされているとなれば……助ける手立てはあるのだろうか。もしかしたら、もう――。
(っ、駄目だ。考えるな)
サイモンは首を振って思考を払う。余計なことを考えている暇があるなら自分が出来ることをしろというのは、騎士団に居た頃に自分が口酸っぱく言っていた言葉だ。
あの頃は未だ戦争の名残が多く残っていて、戦うことも多かったから、死なないための暗示みたいなものだった。
今は戦時ではないものの、状況は似通ってきている。
(これ以上、アイツの世界を崩させるわけにはいかない)
「……お主は本当に責任感が強い男じゃのう」
「そんなんじゃない」
「そうか。それじゃあ、そういうことにしておこうかのう」
ぐっと自分の分を煽る海の神。サイモンは彼女の言葉に眉を寄せた。
ぷはーっと声を上げる海の神は、いつの間にか持ってきたつまみを口に含む。「いるか?」と差し出された――その時だった。
グシャッ。
「……は?」
「っ」
生々しい音が聞こえる。
海の神の白い肌が赤く染まり、赤い飛沫がサイモンの目元へと飛ぶ。視線を下ろせば、彼女の小さな体の腹部に鋭い刃が突き立てられていた。
(な、んだ)
――これは。
どういうことだ。
混乱が全身を駆け巡る。何が起きたのか理解が出来なくて、サイモンはゆっくりと視線を上げた。
海の神の向こうに見えた鮮やかな赤い髪は――カイリだった。