「海の神か。なんだそれは。分身か?」
「ああ。城を離れるわけにはいかんからな」
「そうか。悪いな」
「悪いと思っているなら、もっと早く決着をつけてこんか。馬鹿者」
眉間に皺をよせ、サイモンを見上げる海の神。
サイモンはナイフを仕舞い、海の神を見る。「アリアとグレアは?」と問えば、「あやつらは無事じゃ。槍の攻撃も出来るだけ防いでおるしのう」と返えされる。投げ渡される縄で、サイモンはラードを縛り上げた。ラードは既に意識が混濁しているようで、なす術もなく拘束される。
「そうか。助かる」
「……そんなに気になるんじゃったらアリアたちのところに行けば良いじゃろう」
「行こうとしたら叩き落された」
「ざまあないのう」
ケタケタと笑う海の神。神とは思えない言葉だな。
サイモンが呆れに息を吐けば、「だが」と海の神が言葉を続ける。
「冗談で言っておるわけではないぞ。今グレアが頑張って逃げ回っているが、それもいつまで続くか。助けに行くのなら、早い方がいい」
「……君が助けるのが一番早いんじゃないか?」
「馬鹿言え。通りすがりの神より教えを乞うた師匠。……大切な愛弟子たちなのじゃろう? それに、あやつらが待っているのはお主の方じゃ」
まだ槍の攻撃は続いている。グレアがいつ転倒するかわからない。しがみ付いているアリアの体力も心配だ。
(だが今ここを離れてラードを手放しにするのは――)
サイモンがそう考えるのと同時に、バタバタと何かが走って来る音が聞こえる。「助太刀に参りましたぞ~!」と声を上げるのは、海ガニ兵士率いる警備隊だ。サイモンが捕まえていたラードの縄を、件の海ガニ兵が持つ。「任せてくれ!」と自信満々に言う姿は、兵士として立派だ。
「……すまん」
「礼は上手い酒とつまみで良いぞ」
「ああ。スクルードに言って、最上級のものを用意しよう」
サイモンは海の神に告げ、走り出した。
背中にかかる声に振り返ることもせず、ただ一心に、仲間の元へ。
――また、いなくなるのか。
ラードは霞む視界で、遠退くサイモンの背中を見る。叫んだ声が喉を裂き、全身を軋ませる。
(ムカつく。どいつもこいつも)
自分をコケにし、誰一人手を取ってくれやしない。憧れた人だって自分が入隊するのと同時に居なくなり、必死に遠征班に入ったかと思えば何年も何十年も会えない日々に、心はすり減っていく。
募る憧憬。
訪れた村ですれ違ったと知る度に増える、落胆。
何の努力もしていない人間がサイモンと出会ったと噂する度、込み上げる嫉妬心。
(俺が一番、敬愛しているのに)
英雄譚に出て来る『サイモン』という男は、強く、無口で、背中で語るような人間だったという。
多彩な武器を扱い、魔法も体術も自在に操る。戦いを愛し、戦いの女神に愛された男。王であるスクルードさえも苦戦するという彼の存在に、強さに、惚れた。憧れた。嫉妬した。
片田舎でゴロツキ相手にてっぺんを取って、イキっていた自分が恥ずかしくなった。小さな世界で満足している自分が馬鹿馬鹿しく思えた。騎士団に入ったのは、少しでも彼に近づくためだった。
騎士団を裏切ったのも、上司であるヤコブを騙し操ったのも。
(ここまで……追いかけて来たのに)
どうして今、彼は俺を見ていない?
どうして今、俺は地面に伏しているのだ?
どうして、彼は俺に背を向けている?
(いやだ……)
いやだ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――!!
戦ってくれ! 剣を向けてくれ! アンタの強さを俺に見せつけてくれ!!
(おれを、みとめてくれ……!)
出来ないのなら、認めてくれないのなら
やはり――英雄なんて、必要ない。
「……わ、せ」
「!」
「ぜん、ぶ」
壊してしまえ。
ラードの小さな声に、少女だけが反応した。
周りは捕獲した侵入者に沸き立っている。海の神にも、海ガニの兵隊にも、ラードの声は届かなかった。
少女は小さく頷く。顔を上げ、彼女は海の神の腕を振り切った。
「「「!?」」」
今まで無抵抗だった少女の抵抗に、海の神の手が離れてしまう。「嘘じゃろ!?」と声を上げる海の神。だが、少女の目には一つしか映っていない。
少女の手が驚く海ガニの兵士から水晶を奪う。巨大な彼等の足元を潜り抜け、走り続けた。
深淵の奥の更に奥で、少女は洞を見つける。小さな洞は少女の身体をすっぽりと隠してしまった。
「〝
少女は何度も唱えた。
同じ魔法を、何度も、何度も。
自らの小さな体にある魔力全てを注ぎ込み、水晶玉に魔法を託す。
「見つけたぞッ!!」
「っ、!」
「待て!」
逃げ出そうとする少女を、海ガニ兵たちが追いかける。小回りの利く体は、彼等の手を避けるのに有利だ。
「ぁ……」
――だが、魔力を使い切った身体では、意味がない。
少女は動けない体にべしゃりと転げた。水晶が手を離れてしまう。必死に手を伸ばすが、すぐに回収され少女も捕まってしまう。
(まって、まだ……)
「まさか逃げるとは……」
「いや、警戒を怠った妾の責任じゃ」
「どうしますか?」
「そうじゃのう。まだ子供だし、手荒な真似は――――!!?」
海の神が振り返る。
増幅していく魔力を感じ取ったのだろう。少女は天を見上げ――ほっと胸を撫で下ろした。
「よかった……」
魔法、ちゃんと出来てた。
少女は安堵に笑みを浮かべる。自分に与えられた、たった一つの能力。
例え体の中の魔力が空になったとしても、出来損ないの己を拾ってくれた彼の為にこの力を使えたことに、少女は心底満足していた。
命令は届いた。
天に浮かぶ黒い槍の大群に、ラードは込み上げる笑いを隠せなかった。
「はは……」
すごい。すごいぞ。
見ろ。一世一代の見せ場だ。
高揚に体が震える。興奮に傷口から血が零れ落ちる。薄れていく意識の中、視界だけがヤケにクリアに映っていた。
宙を掛けるサイモンの背中が見える。きっとその顔は焦りに満ちているはずだ。
(やっと……)
やっと、殺せる。
英雄といえども、あの距離だ。間に合うわけがない。間に合ったとしても、あの数、あの大きさの魔法に打ち勝てるわけがない。
「は、ははは……」
早く、早く死んでくれ。
英雄は死ななかった。なら――英雄の心を殺せば、俺は晴れて彼の心に留まることが出来る。
「死ねぇぇええ――――ッッ!!」
叫ぶ声が反響する。黒い槍が狙いを定め、一か所に落ちていく。
(これで終わりだ)
サイモンは追いつけない。目障りなあの二人は死ぬ。そうしてサイモンはラードを恨むしかなくなるのだ。
(楽しみだ)
英雄様は、一体どんな顔をして自分に恨みをぶつけて来るのだろう。
人々を救った英雄様だ。もしかしたら人を恨むなんてこと、初めての経験なんじゃないだろうか。
(考えるだけで、ゾクゾクする!!)
サイモンの背中が震える。肩に手を置いたサイモンは、マントを取り外した。身を軽くするためだろうか。無駄なのに。
(間に合わないとわかっても尚、走るのか)
英雄とは難儀な生き物だな。
「――――」
「……?」
朦朧とする意識の中、サイモンの声が聞こえたような気がした。気がしただけで、本当に聞こえたわけじゃない。だってこの距離だ。城よりは近いとはいえ、聞こえるわけがない。
嫌な予感がする。
何か、何か大きなものを覆されるかのような――――。
靡くマントが呼応するように白く輝く。白い刃のように輝くそれは、まるで空に浮かぶ三日月のように姿を変えた。
「……は」
サイモンはそれを投げ飛ばす。落ちる、巨大な黒い槍に向かって。
(そんな小さなもので……)
出来るわけがない。……そう思ったのも束の間。
どんどん大きさを増していく月に、息を飲む。瞬く間に巨大な月に変わったそれは、躊躇なく黒い槍を吹き飛ばした。
「な……」
粉々に砕かれる、黒い槍。
崩れ落ちていく黒い槍“だったもの”に、ラードは視界が塗り潰されていくのを感じる。
(し、っぱい……した、のか……?)
殺すことも出来なかった。
殺されることも出来なかった。
彼の大事なものを奪うことすら。
――自分には出来ない。
「さすがサイモンじゃな」
「!」
不意に聞こえた女の声。彼女の手には、少女が抱えられていた。
(もう、終わりなのか)
自分達は捕まってしまった。抵抗も出来ない。最後の手も全部なくなってしまった。
ラードは理解した瞬間、血の気が引いていくのを感じる。
――闇の魔法は、契約をすることで、自分の力よりもより大きな力を得ることが出来る。
その代わり魔法を失敗した、或いは誓いを立てた際の目的が破綻した場合、その代償は契約者に移る。
(あの水晶は反動を吸収するって言ってたけど……)
本当かどうかは、正直解らない。
ラードは震えた。今、満身創痍である自分は、契約をすることで予想以上の力を得ることが出来た。だが、その結果はどうだ。失敗。失敗だ。言い訳も出来ない。完敗だ。
恐る恐るラードの視線が、海ガニ兵士の持つ水晶に向けられる。水晶は未だ綺麗な円を保っている。だが、時間の問題だ。
(もしこのままの身体で代償を受けたなら、自分は……)
死――――!
ピキッ。
水晶の割れる音がする。ハッとして揺れる目で水晶を見れば、綺麗な円に亀裂が入っていた。
ラードの胸に絶望が襲い掛かる。ガタガタと体が震え、拘束していた海ガニ兵士たちが困惑に声を上げる。その間にも、ピキ、ピキと亀裂は大きくなっていく。
「あ、あ……!」
「おい! 動くな!!」
「クソッ、どうしたんだ突然!」
亀裂が進む。絶望が許容量を超えていく。
震えが大きくなっていく。上手く呼吸が出来ない。
(そいつが割れたら、俺たちは……俺は……!)
パキン。
水晶が真っ二つに割れた。――瞬間、全身を焼く痛みがラードを支配した。
「ッ――――!!!」
五感すべてが全身の痛みに注がれる。
気を失っても尚、痛みで何度も繰り返し起こされる気分は、地獄だった。
声も出ないまま、命が削り取られていくのがわかる。野心も、希望も、生きる意味も。絶望と地獄に塗り潰されていく。
「あ゛ぁぁあああ゛あ゛ぁぁ――――――――ッ!」
揺れる視界の中、最後に見えたのは――苦しみに悶える、小さな妹の姿だった。