あの日。伊藤拓真が七歳だった時のこと。
家族は三人だった。サラリーマンをしていたお調子者の父と、料理が上手で厳しくも優しかった母と、小学校に上がり、初夏に誕生日を迎えたばかりの拓真の三人だった。
あの日は、父と母と、三人でスーパーに買い物に出掛けていた。夕飯がカレーに決まったのは、スーパーに行くまでの道のりでのことだった。
スーパーと住んでいた団地は近かった。歩いて十分もかからない。だから三人で仲良く手を繋いで、歩いたりもした。拓真は真ん中で、右が母、左が父。それが定位置だった。
スーパーに入り、買い物を進めている中で、拓真は一人の青年と目が合った。その場では、すぐにそんな青年のことなんて忘れてしまっていた。そんな赤の他人より、家族との会話の方がよっぽど楽しかったのだ。
そして帰宅し、予定通り母はカレーを作ってくれた。大人と子どもで味を分けることなく、みんなが甘口のカレーを食べるのだ。
「おいしー!」
「こら拓真、人参もちゃんと食べて」
「好き嫌いしたら、父さんみたいに大きくなれないぞお」
「でも、おとーさんはピーマンきらいっていってたよね」
「あなた?」
「拓真! それは男同士の内緒だって約束したじゃないか!」
そんな当たり前で、幸福で、温かい会話が満ち溢れる家庭。三人で暮らすには少しばかり窮屈な家だったが、それでも幸せが詰まっていた。
夕飯を終え、風呂に入り、時刻が二十時を過ぎた頃。これから拓真が先に寝ようかというときだった。
「あら、こんな時間に誰かしら。ちょっとあなた、出てくれない?」
玄関のチャイムが鳴った。洗い物をしていた母は、父に出るよう頼んだ。拓真は、居間で絵本を読んで、母を待っていた。毎晩、母が寝かしつけてくれていたのだ。
「くそう、ビールを出したばっかりだってのに……はいはーい」
父は、入浴後の楽しみのために、冷蔵庫から酒を取り出したばかりだった。それでも母の言うことに逆らえず、玄関へと向かう。何の警戒もせずに。
「はい、どちらさんで……」
父の声が途絶えた。その後すぐに、何か大きな物音が聞こえたのだ。
「このっ……がっ!」
そして、普段は決して荒げない父の声が続けて聞こえてきた。バタン、と金属製の重たい扉が閉まる音がして、拓真はそっと居間から顔を出した。
「おとーさん?」
細い廊下から覗きこみ、玄関を見る。廊下に倒れ込んだ父の背中を、何度も両手で叩きつけている知らない人がいた。父の身体からは赤い液体が流れ、それが飛び散って壁に斑模様を作り出している。
「キャアアアアアッ!」
金切り声が聞こえた。母の声だ。その声に驚いた拓真が振り向くと、ドタドタと廊下を歩く音がした。黒いフードを深く被った人が父を乗り越え、母へと一直線に向かっていた。
「あなたっ……いやあっ! なんなのっ、やめっ……」
逃げる場所もなく、そんな時間もなく、母は髪の毛を掴まれると、そのまま何度も壁に頭を叩きつけられた。ゴッ、ゴッ、と頭蓋骨が鈍い音を奏でているのが、何度も聞こえてきた。
「だぐっ、まっ……にげっ、えっ、げっ」
赤くなりながら、母は拓真に手を伸ばした。それを邪魔するかのように、フードの人は母の胸倉を掴んで押し倒し、馬乗りになる。
「いやあっ! やべでっ! あなだっ、あなだあああっ! たしゅげっ、へぇっ」
母の暴れる足だけが見えていた。バタバタと上下し、左右に揺れていたものの、だんだんと動きが鈍くなっていく。
フードを被った人は、父にしていたのと同じことを、母にもしていた。両手を高く上げ、振り下ろす。先ほどはよく見えていなかったが、両手で持っているのはナイフだった。母の赤い液体とナイフの刀身が台所の照明に反射して、きらりと輝くのが見えた。
何度も、何度も、何度も、両手が振り下ろされる。やがて母の声は聞こえなくなった。
拓真はただ見ているだけで、その場から動けなかった。父も、母も、動かない。唯一動くフードを被った人は、フー、と長く息をつくと、フードを外した。
その人が振り向くと、拓真は目が合ったことに怯えた。その目があまりにも黒くて、恐ろしかったのだ。
緩く髪の毛が波立ち、不健康そうな顔立ちのその人は、男だった。立ち上がると、まるで高層ビルのように背が高く感じられた。拓真の元にまで歩いてきた男に、拓真は手に持っていた絵本を強く握りしめる。
男の手には、ナイフがあった。まだ温かい母の赤い液体が滴り落ちるが、拓真は男から目を逸らせなかった。
幼くても男が父と母に対し、何をしたのかは理解できる。父と母がどうなったのかも、うっすらと理解している。それでもこの時の拓真は、ただただ怯え、男を見上げることしかできなかった。
男は、拓真に微笑みながら言い捨てる。
「かわいそうに」
そして、そのまま伊藤家から立ち去って行った。
嵐のように訪れた惨劇の中、幼い拓真は胸の中で太鼓のような音がしていることに気付き、そのまま自分の身体を抱きしめた。そうしないと、すぐにでも自分の身体が吹き飛んでしまいそうだった。
「たく……ま……」
そうしていると、父の弱々しい声が聞こえた。ハッと気が付いた拓真は、すぐに玄関に倒れ込んでいる父の元へ向かった。
「おとーさん……?」
「拓真……いたいこと……されてない、か……?」
父に近づきたくても、近づけなかった。赤い液体の中に倒れている父に、怖いという気持ちが大きくなってしまい、近寄れなかったのだ。
「なにもいたく……ないよ……」
「そう、か……よかった……」
伏せていた父は、身体を震わせながら顔を上げた。拓真のことを見ると、父はニッ、と笑った。いつもなら見える白い歯は、赤く汚れていた。
「拓真だけでも……無事なら、よかっ……がふっ……」
咽る父の口からは、何度も赤い液体がこぼれた。びちゃびちゃとこぼれる赤い液体は、廊下をさらに赤く染め上げていく。
「たくまぁ……父さんの、手……にぎって、くれない、か……」
震えながらも伸ばされる父の手。赤く染まっているその手が、ひどく恐ろしいもののように思えて、拓真は後ずさってしまった。
「ああ……ごめん、なあ……こわいよなあ……」
また咽る父。何度も赤い液体を吐き、父はやがて手を下ろした。それでもその手は、拓真へと伸ばされている。
「ごめんなあ……ごめ……な……」
父が、動かなくなった。
「……おとーさん?」
返事はない。父へ手を伸ばそうにも、身体がそれを拒絶していた。
「おとーさん……おかーさん……おとーさん、おとーさん……」
視界が滲み始め、さらに嗚咽も出始めた。
「おとーさん、おかーさん……にんじん、たべるから……うごいて……おとーさん……ねえ……おとーさん……」
扉の外が騒がしくなり、キィ、と控えめに扉が開けられる。近所に住む中年の夫妻が玄関を覗き込み、悲鳴を上げられた気がしたが、そこから先の記憶はほとんどない。
まだ本格的な夏が訪れる前のこと。
伊藤家から、二つもの大きな温もりが失われたのだった。