パチンッ。
豪邸の庭園前で、一人の少女がレオナールの頬を強く叩いた。
少女の亜麻色髪の長髪が揺れる。
少女の翡翠色の瞳はジンジンとする自身の手を見つめ、兄、レオナールへ視線を移す。
レオナールの頬には少女が叩いた後がついている。
「あっ」
少女はそこで我に返る。
周囲を見ると、両親、姉、使用人たちが少女を見ている。
皆、少女の行動にあっけに取られている様子。
少女は皆の視線に耐えられず、逃げるように屋敷の中へ駆けた。
屋敷に入った少女は、自身の部屋に入り、内側から鍵をかける。
「フローラ! 僕が悪かった」
少しして、ドアの向こうからレオナールの声が聞こえる。
フローラと呼ばれた少女は、ソファに座り、ひざ掛けを頭からかぶり、レオナールの声を遮断する。
暫く、ドンドンとドアを叩く音が聞こえたが、無視し続けているとそれも収まった。
(わたし、お兄様を叩いてしまった……)
フローラは再び、レオナールを叩いた手を見つめる。熱を帯びており、腫れている気がした。
(どうして、あんなことを――)
フローラはレオナールを叩く前の出来事を思い出し、猛省する。
☆
わたしはフローラ・モンテッソ。
父は教育界の重鎮と言われているモンテッソ侯爵。
母も元公爵令嬢と有名貴族だ。
その二人の間に生まれた子供は、姉、兄、そしてわたし、フローラ。
姉は成人していて、大学を出たあと父の補佐をしている。母に似て美人だが、真面目な性格で隙がなく、何度見合いをしても男性側から「愛想がない」と断られてしまうそうだ。
母は姉に対して「もう少し愛想とか器量がよければねえ」と嘆いている。
跡継ぎである兄、レオナールは――。
「僕の花のように可憐で可愛い妹!! 学園から帰って来たよ」
学園祭が終わり、二週間の休暇があったそうで、モンテッソ侯爵領の屋敷に帰ってきていた。
「おかえりなさい、お兄様」
「うん、僕の見ないうちに可愛さに磨きがかかっているね」
大好きなレオナールの帰りに、フローラは満面の笑みで出迎えた。
フローラの笑みを見たレオナールはご機嫌だった。
レオナールはフローラを抱きしめる。
「レオナール!!」
家族皆が歓迎というわけではなく、父は合うなりレオナールを怒鳴りつけた。
母も姉もいつもはレオナールの帰省を喜んでいるのに、今日は複雑な表情を浮かべていた。
レオナールはフローラとの抱擁を解き、父の方へ身体を向ける。
「ソーンクラウン公爵令嬢と婚約破棄したいというのはどういうことだ!?」
(ミランダお姉さまと婚約破棄ですって!?)
父の発言にフローラは耳を疑う。
フローラはミランダの事を”お姉さま”と呼ぶほど慕っていたため、レオナールとの婚約破棄の話を聞き、とてもショックを受けた。
(卒業したら、ミランダお姉さまと屋敷で一緒に過ごせると思ってたのに)
フローラはレオナールとミランダが結婚し、彼女がモンテッソ侯爵邸に嫁いでくることを心待ちにしていた。
「父上、僕は真実の愛を見つけたのです」
「なにを馬鹿なことを!!」
「ミランダも最愛の人に出会えたようで、僕との婚約破棄を望んでおります」
「ミランダ嬢が!? そ、そいつは一体誰だ!!」
二人の話を聞いていたフローラは、レオナールとミランダの仲を切り裂いた人物に怒りを覚えていた。
数年かけて進んでいた婚約の話が一瞬にして無くなったのだ。
ミランダと共に屋敷で過ごせると思っていたフローラにとって、許しがたい。
「フェリックス・マクシミリアン先生です」
「ま、ままま……、マクシミリアン公爵子息だと!?」
レオナールが告げた人物を聞き、父は仰天していた。
開いた口がふさがらなくなっている。
マクシミリアン公爵は優秀な文官で、国で重宝されている人だと聞く。
その息子、フェリックス・マクシミリアンも同様の頭脳を持っており、容姿は皇帝の姉であるマクシミリアン公爵夫人に似て完璧だ。
(フェリックス様とは見合いの席やパーティでお会いしたことがあるけど……、全く相手にされなかったし、先方から断られたわね。嫌な思い出だわ)
フローラは一度、フェリックスと見合いの席で会ったことがある。
当時、十二歳だったフローラはフェリックスのことをつまらないお兄さんだと思っていた。
フローラの会話に付き合おうともせず、愛想笑いをするでもなく、時間が過ぎて行った記憶がある。
その後もパーティなどで度々フェリックスと顔を合わせたことがあったが、彼はパーティに全く関心がなく、毎回浮いていた。
(ミランダお姉さまがそんな御仁を愛しているですって!? 信じられない)
フローラはフェリックスのことをよく思っていない。
だからこそ、ミランダが魅力のないフェリックスのことを愛していることが信じられなかった。
「だ、だが! 生徒と教師の恋愛はいかんだろ!! 今すぐこのことをチェルンスター魔法学園に報告して――」
「父上の権限で、フェリックス先生の教員免許を奪おうと?」
「わしは教師だった身として――」
「生徒だった母上と結婚したのに?」
「うっ」
レオナールに痛いところを突かれ、父が黙ってしまう。
教師だった若い頃の父は生徒だった母に一目惚れし、見合いの席を設け、婚約したのだ。
二人の出会いも学園だったのである。
「わしの場合は、しっかり手順を踏んでだな」
ぼそぼそと父がレオナールに言い訳をする。
これはレオナールが勝ってしまう。
「お兄様、ミランダお姉さまとは婚約者として八年付き合っていらっしゃるでしょう? それなのに、婚約破棄と言われたらすぐに認めてしまうのは……、薄情ではありませんか」
フローラは父の代わりにレオナールと対峙する。
「怖い顔してるよ。可愛い顔が台無しだ」
「はぐらかさないで下さい。わたしは怒っているのです」
「……フローラはミランダに懐いていたからね。結婚間近でミランダをフェリックス先生に取られるのは嫌か」
フローラが感情をあらわにすると、レオナールはフローラの頭を優しく撫で、言い聞かせるように語りかけてきた。
「ごめんな。僕はミランダのこと、これっぽっちも好きじゃないんだ」
「えっ」
「あんな顔だけの女、婚約破棄できてせいせいする」
レオナールは婚約者として八年付き合ってきたミランダを愛していなかった。薄情な男だった。
「最低!! お兄様なんてだいっきらい!」
パチンッ。
フローラはレオナールの頬を思いきり叩いた。
☆
(部屋に引きこもってもなにも始まらないわ……)
部屋でいじけていたフローラは部屋を出る。
「あっ」
フローラの部屋の前にレオナールが両膝を抱える姿勢で床に座っていた。
「お兄様……」
「フローラ、出てきてくれたね」
「いつからそこに」
「君が部屋に引きこもってからずっとさ」
レオナールは部屋の前でずっとフローラが出てくるのを待っていたみたいだ。
「お前はミランダに懐いていたからな。ああ言ったら怒るよな。ひっぱたかれて当然だ」
「でしたら、ミランダお姉さまを説得して関係修復を――」
「それは出来ない。僕もミランダも同じ気持ちだ」
「そんな……」
フローラは再度、関係修復をレオナールに懇願するが、彼にきっぱりと断られた。
「お兄様もミランダお姉さまのように、愛する女性がいらっしゃるのですか?」
「ああ。クリスティーナだ。今の彼女は僕に関心がないようだが、口説き落として恋人にしてみせる。ゆくゆくは結婚したいと思っている」
「クリスティーナ……」
「クリスティーナは芯の強い女性でね――」
その後、フローラはレオナールからクリスティーナの話を延々とされた。
クリスティーナとの出会い、好きになったきっかけ、クリスティーナの良いところを延々と。
(ああ、お兄様。未練はまったくないのですね)
長い話を聞いたフローラは確信する。
レオナールにはミランダに対する未練は一切なく、クリスティーナという女性に夢中なのだと。
(わたしの思い描いていた未来が崩れてゆく……)
この時、フローラは絶望した。
(フェリックス・マクシミリアン……、クリスティーナ……)
ミランダを奪ったフェリックス、レオナールを魅了するクリスティーナ。
(絶対に許せない)
フローラの未来を壊した二人の名を、彼女は胸に刻んだ。
☆
レオナールが家族にミランダとの婚約破棄を宣言して、四か月が経った。
周年の集いが終わり、卒業式が終わったころである。
コンコン。
部屋に入ってきたのは父だった。
「聞いたぞ、お前、直前で進路を変えたそうだな」
入ってくるなり、父はフローラの進路変更に文句をつけてきた。
「ええ、お父様。ちゃんと受験して合格しましたわ」
「お前は魔法が下手だ。今からでも遅くない、チェルンスター魔法学園の入学を取り消し、女学校へ行きなさい!」
フローラが選んだのはチェルンスター魔法学園。レオナールが通っていた学校だ。
父が怒っているのは、合格届が来るまで、進路変更を黙っていたから。
直前まで父が分からなかったのは、母や姉の協力のおかげ。
「嫌です。わたしは魔法学園で魔法を学びます」
「レオナールといい、お前たちはどうしてわしの言うことが聞けないんだ!」
「……こればかりはお父様の願いでも、きけません」
フローラは今まで父の選んだ道を進んでいた。通う学校、付き合う友人、年上の婚約者と。
父の予定では、フローラは二年間、女学校で花嫁修行をしたのち、その婚約者と結婚することになっている。
だが、フローラは父に逆らい、女学校ではなく学園を選んだ。
それは――、レオナールを狂わせる女、クリスティーナとミランダと結婚する男、フェリックスに会うため。
二人の人生を滅茶苦茶にするためだ。
「お話はこれで終わりですか?」
「……勝手にしろ!! お前の顔など見たくもない」
バンッと扉が強い力で閉められる音がする。
フローラは大きな音にビクッと反応する。
(少しすればお父様のほうから音を上げるだろうからとお母様が仰っていたけど……、本当かしら?)
父に初めて反抗したフローラは、母の言葉に懐疑的だった。
「でも、これでチェルンスター魔法学園に入学出来るわ」
フローラはキャビネットを開け、奥に隠していた学園の制服を手に取る。
「……復讐するんだから」
フローラは制服にシワができるほどに強く握り、学園にいるクリスティーナとフェリックスに恨みを募らせるのだった。