「くっそー……」
肩で荒く息をしながら、キャンはもう一人の自分を睨む。結局、起死回生の一手など思い浮かばぬまま、先程からずっと相手の攻撃を唯々躱し続けているのであった。
もう一人の自分も同じく疲労は溜まっているように見えるが、それでも剣を握っている分のハンデは一切感じられない。
それどころか、相手は一方的に剣で攻撃を与えようとしてくるのに、こちらは躱すことで精一杯。動きの主導権を完全に相手に握られてしまい、余計な動作を強制され、キャンはますます疲弊していく。
「このままじゃダメだ」
一旦大きく後ろに下がり、キャンは相手と十分な間合いを取った。短く息を吐き、両頬を叩いて気合を入れ直す。
その様子をもう一人のキャンは剣を構えたまま眺めていた。
「ヘッ、何回気合入れても同じだぜ。剣も握れねーニセモノ勇者がオレに勝てるわけねーだろ!」
剣を持つキャンが地を蹴り、一直線に駆け、跳んだ。両手で構えた剣を頭の上まで振りかぶり、地上のキャンを見下ろす。その顔には勝ち誇った笑みが浮かんでいる。
「最強の技で決めてやるぜ! くらえっ、
最強の必殺剣が地上のキャンに迫る。だが、キャンは動こうとしない。
「何だよ諦めたのかぁ!?」
頭上から響く煽り声にもキャンは反応しない。ただ、これから降り注ごうとする相手の刃をじっと見据えている。その目は、諦めというにはあまりにも力強く、落ち着き払っていた。
もう一人のキャンもさすがに異変に気がついた。かといって、今更技の勢いを止めるわけにはいかない。一か八か、全力で突っ込んでみるだけだ。
「うおおおおお!!」
感じた違和感を払拭しようと、もう一人のキャンは大声で気持ちを奮い立たせる。その刃は、もう間もなく地上のキャンに届こうとしていた。
その時、キャンが動いた。
姿勢を低く、重心を下げ、両手で床に爪を立てる。ラケルタの森でバルバルが見せた、四つ足の姿勢だ。そのまま前方に駆け出し、相手の攻撃の下を潜り抜ける。
虚を突かれたもう一人のキャンは誰もいなくなった地点にそのまま突っ込んだ。着地こそ何とかできたものの、バランスを大きく崩したその剣は床材と床材の隙間に嵌り込んでしまい、簡単には抜けそうにない。
その背後に、四つ足のキャンが迫る。
「やべぇ……!」
もう一人のキャンは剣を諦め、後ろに跳んで回避しようとした。ところが、四つ足のキャンが速すぎて回避が間に合わない。
四つ足のキャンはもう一人のキャンに飛びかかり、その喉元を狙って一息に咬みついた。
「いっっっってぇーーーー!!」
キャンの咬みつきはすんでのところで躱され、その牙は相手の首ではなく肩に突き刺さった。
咬みつかれたもう一人のキャンは痛みに悶え、キャンの腹を思い切り蹴飛ばした。そのまま上半身を起こしつつ無我夢中で後退り、恐る恐る首筋から肩に触れて傷の具合を確かめる。多少の出血があるようで、触れると鋭い痛みが走った。だが、幸いにも傷はそこまで深くないようだ。
一方、蹴飛ばされたキャンもふらつきはしたもののすぐ体勢を整えた。その表情が、みるみるうちに歪んでいく。
「うええええっ、気持ち悪~! 口ん中に毛入った~! ぺっぺっ!」
キャンは口の中に入った毛を吐き出そうと、必死で唾を吐き続けている。その様子を見たもう一人のキャンは、痛む肩を押さえながら涙目で睨みつける。
「自分で咬みついといて何やってんだよ……」
「うるせー、そこまで考えてねーっつーの! ぺっぺっ!」
このオレ、アホすぎないか? もう一人のキャンは自分自身に呆れ返っていた。
咬みついた方のキャンはやっとの思いで口の中の毛を吐き出し、大きく溜息を吐いている。
「くっそー、見かけだけマネしてもダメかー。けど、コツは掴んだぜ」
そう言うとにやりと不敵に口角を上げ、再び四つ足の姿勢を取った。もう一人のキャンは急いで立ち上がり、突撃に備える。ただでさえ剣を失った状態なのだ。またあの速さで来られては敵わない。
「
キャンが余裕たっぷりに告げた言葉に、もう一人のキャンは耳を疑った。こいつは今、オレに剣を抜けって言ったのか?
「な……何言って」
「抜けよ。オレ、ぜってー負けねーし」
キャンの言葉がもう一人のキャンの神経を逆撫でする。……上等だ。そこまで言うなら、この剣で叩っ斬ってやる。
もう一人のキャンは床に刺さったままの剣を握り、全身の力を込めて何とか引っこ抜くことに成功した。少しだけ腰を落とし、抜いたばかりの剣を構えると、その切っ先を真っ直ぐキャンの方へ向ける。
「後悔すんなよ……?」
「ぜってーしねーから安心しろって」
先に仕掛けたのはもう一人のキャンだ。正面から真っ直ぐキャンに斬りかかる。ところがキャンは四つ足の姿勢のまま動こうとしない。ギリギリまで引き付けるつもりなのだろうか。
「その手には乗らねーっ!」
もう一人のキャンも動かない相手を警戒し、ステップを交えて素早く左右に移動している。これでもう一人のキャンがどこから攻撃してくるのかキャンにはわからないはずだ。
「行くぜ!」
そのまま一息に距離を詰めると、もう一人のキャンはキャンの背後から素早くその後ろ脚に斬りかかった。
「……甘いなっ」
キャンは背後からの攻撃をまるで見えているかのようにひらりと躱した。もう一人のキャンの剣が空を斬る。その隙をついて、キャンはもう一人のキャンの顔面目掛け頭突きを喰らわせる。その頭突きはもう一人のキャンの鼻に直撃し、痛みのあまりもう一人のキャンは情けない悲鳴を上げて蹲った。
「どーしたどーした!? 剣持ってるのにそんなもんなのかー!?」
キャンが四つ足の姿勢のまま自分の尻尾を追うようにグルグル回り、ここぞとばかりに煽り倒している。もう一人のキャンは顔を真っ赤にして剣を構え直し、再び突っ込んでいった。
だが、何度斬りかかっても同じだった。もう一人のキャンの攻撃は全て見切られ、仕掛ければ仕掛けるほど反撃を喰らってしまう。いつの間にか、剣を持っているはずの自分が窮地に追い込まれ、剣を持たず四つ足の姿勢のキャンが涼しい顔をしていた。
「なんでだ……どーして……」
「そんなの簡単じゃん。お前はオレなんだから、どう動くかなんて落ち着いて見りゃ簡単にわかるっつーの」
「そんなっ……でも……!」
「オレの動きはわかんねーだろ」
キャンが得意げに告げる。まさにその通り、もう一人のキャンにはキャンの動きが全く読めなかった。悔しそうに奥歯を噛み締めるもう一人のキャンに、キャンは淡々と事実を語る。
「これはバルバルのオッサンの動き。オレのもんじゃねー、ただのモノマネだ。だから、あの戦いを見てねーお前にはぜってー見切れねー」
もう一人のキャンは動揺している。
「オレなのにオレの知らねー動きをするって、そんなのアリかよ」
焦ったように俯きブツブツと何か呟いているもう一人のキャンには目もくれず、キャンは静かに目を閉じた。瞼の裏に、あのラケルタの森での二人の男の戦いが鮮明に蘇る。激しく斬り結び、互いの身体を傷つけ、最後には命を奪った、あの戦い。
同じ人物が同じ世界に存在することはできない。この試練の間から外に出られるのは、どちらか一人だけだ。「打ち克て」と試練の間の声は言った。相手を倒し、キャンは外に出なくてはならない。
とさり、と鳴った音にキャンは目を開け振り返る。もう一人のキャンが床に膝をつき、がっくりと項垂れていた。握られていた剣が滑り落ち、カラン、と乾いた音を立てる。
「オレの……負けだ」
先程までの戦いでもう一人のキャンは負けを悟ったらしい。どう足掻いても動きを読まれてしまうのだ。心が折れてしまうのも無理はないだろう。
「殺せよ」
もう一人のキャンの言葉がキャンに重く圧し掛かる。キャンは震える手で、腰に差した剣の柄にそっと触れた。バルバルがルナーダにとどめを刺したあの場面が浮かぶ。
「……早くしろって」
躊躇ったまま行動に移せないキャンの様子に、もう一人のキャンは次第に苛立ってきたようだ。決着をつけなければ、この間から出ることは叶わない。
ところが、キャンは剣から手を離した。
「やだね!!」
身体の前で両腕を組み、フンッと鼻を鳴らして見せるキャンに、もう一人のキャンは呆然としている。
「お前、バカ?」
「バカじゃねーし! バカって言う方がバカなんだし! オレがバカならお前もバカだし!」
そのあまりにも子どもじみた言い草に、もう一人のキャンも徐々に本来の調子を取り戻していく。
「じゃあお前はバカだな! バーカ!」
「ハァー!? オレはお前なんだからバカはお前じゃん!」
「バーカバーカ! せっかく勝ったのにトドメ刺さねーヤツなんかバーーーーカ!!」
「じゃあ勝手にいじけて殺せとか言ってくるお前はもっとバーーーーーーカ!!」
すっかりヒートアップしたキャンたちは今にも取っ組み合いでも始めてしまいそうな勢いだ。低い唸り声を上げながら睨み合う二人だったが、やがて「あーもう!」と大声を出してキャンがその場を離れた。
「とにかく、オレはトドメとかそういうことしないの! しないって決めた!」
「いーのか? この部屋から出れねーぞ?」
キャンは少し離れた位置からくるりと振り向き、もう一人のキャンを指差して宣言する。
「勇者は! ムエキなセッショーはしないのであーる!」
「お前それ意味わかってねーだろ」
勇者の決め台詞は、もう一人の自分によって冷静に突っ込まれてしまった。必死に反論しようとするキャンを手で制し、もう一人のキャンは、背を向けたままキャンに語り掛ける。
「受け取れ。ホンモノの勇者しか持てねー剣だ」
そう言うと、もう一人のキャンは持っていた剣を床に突き立て、そのままどんどん前方へ歩いていく。
「ちょっ、どこ行くんだよ!? ってかこの剣、いいのか!? おーい!」
キャンの呼びかけにも、もう一人のキャンは止まろうとしない。
「お前がホンモノだ。その剣持ってとっとと出てけ、バーカ」
そう言い残すと、もう一人のキャンの姿はどんどん離れていき、やがて霞んで見えなくなった。
残された剣は、淡く光を帯びているように見える。キャンは迷わずそれを手に取った。
「! 軽い……」
その剣は、見た目はキャンの持っていた剣とほとんど変わらないにもかかわらず非常に軽かった。振ったり、掲げたり、思うがままに振り回しても全く疲れない。
次の瞬間、その剣が弾け、光の粒となってキャンの腰に差さった剣に吸い込まれていった。
「これは……」
試しにその剣を抜いてみる。軽い。どうやら武器の性能が元々持っていた剣に引き継がれたようだ。
「よっしゃー! 勇者の聖剣、ゲットだぜー!」
高々と剣を掲げたキャンの背後に、赤の間から出るための扉が音もなく出現した。