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第92話 再開しましょう

 そんな浮かれた気分を落ち着けるのに、桃花は必死だった。


(落ち着かないと……失敗したらアルがどうなるかわかって……私はここにいるんだから)


桃花は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出していく。何度かそれを繰り返して、心を落ち着けようとする。頬に残る熱を振り払うように、手のひらでそっと撫でる。


(落ち着いて……私はカメラマンとして、ここに来ているんだから。これは仕事……そう、仕事……!)


そう自分に言い聞かせるが、胸の奥で鳴る鼓動はなかなか収まらない。だが、意識を切り替えなければならなかった。このままでは、撮影どころではなくなってしまう。プロとして、それは許されない。

 それがどういう感情なのか理解してしまえば、自分が動けなくなってしまいそうだったからだ。


「……私は……アルを助けたい……だから、今は……カメラマン以上になってはいけない」


言い聞かせながらカメラをしっかりと握りしめる。ファインダー越しにモデルの姿を捉えることだけに集中すればいい。今は、それだけを考えなければいけない。

決意を固めるようにもう一度深呼吸をして、桃花は席を立った。足元は少しふわついていたが、それを悟られないようにまっすぐ歩き出す。

控え室のドアを開けると、すぐそこにアルの姿があった。

魔族の王子の格好で、まるでそこだけ異世界のようなその姿にぎょっとした。


「……アル!?」


 驚きに息を詰める。まるで彼は、桃花が出てくるのを予測していたかのように、静かにそこに立っていた。


「……大丈夫ですか?」


アルはいつも通りの穏やかな笑みを浮かべながら、柔らかい声で問いかける。その声音にはどこか試すような色も含まれている気がした。

桃花は一瞬言葉に詰まりそうになるが、すぐに無理やり唇を動かした。


「ええ……問題ありません」


自分でもわかるほど、声が少し硬い。だが、それを誤魔化すように、カメラを持ち上げた。


「それより、続きを撮影しましょう。……まだ、いいカットを撮り足りていません」


アルの目がわずかに細められる。微笑は崩さないまま、その表情にはどこか愉快そうなものが滲んでいる。


「……ふふ、わかりました」


その言葉と共に、彼はゆっくりと歩き出す。長い衣装の裾が揺れ、まるで幻想の中の存在のように優雅な動きだった。

桃花もそれに続くように、スタジオへと向かう。

 ふわりと揺れるマントに、整った顔立ち。そのどれもが桃花には魅力的に見える。しかし、それに魅了されてばかりではいけないということもわかっている。


「……それに、やっぱり」

「やっぱり?」


 アルを見上げてわずかに言葉を漏らせば聞き逃してくれなかった。アルが笑顔のまま首をかしげてくる。それに桃花は誤魔化すように言った。


「い、いえ、なんでもないです」

「……そうは、見えませんが?」

「……なんだか、スタジオだからこそ、際立つメイクをしてくれたんだなって。浮世離れした場所に似つかわしい、そんな綺麗な王子様に、コンクリートの白い壁は似合わないって思ったんです」


桃花は、ふと浮かんだ考えをそのまま口にしてしまった。気取ったものではなく、率直な感想だった。だが、言った瞬間に、はっとしてアルを見上げる。彼は、驚いたように一瞬だけ目を見開いた。だが、それはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの余裕をまとった微笑に変わる。


「……そういうことを言ってくれるから、桃花に任せたかったんですよ」


その声は、どこか満足げで、しかしどこか寂しさを含んでいるようにも聞こえた。


「え?」


思わず聞き返すと、アルはゆっくりと足を止めた。そして、まるで何かを探るような目で桃花を見つめる。


「……王子様には、もっとふさわしい舞台があるはずだ。そう思ってくれたんでしょう?」

「……ええ、まあ。やっぱり、背景ひとつで雰囲気は全然違いますし……」

「そうですね。舞台が変われば、見えるものも、感じるものも変わる。それがわかっているからこそ、桃花の写真はただの綺麗なものでは終わらないんでしょう」


そう言って、アルは微笑む。その笑顔は、先ほどのような演技じみたものではなく、ほんの少しだけ、本音がのぞいたような柔らかいものだった。

桃花は、一瞬息を呑む。


(私に……任せたかった?)


その言葉の意味を考える前に、アルは軽く肩をすくめると、また歩き出した。まるで今の言葉など、何でもないことのように。


「さあ、続きを撮りましょう。……桃花にはどれくらいできるかについて、ちゃんと証明してもらわないと」

「……っ! 言いましたね?」


思わずムキになり、カメラに触れる。


「……言っておきますけれど、白ホリ撮影もしますから。それはちゃんと、コンクリートの壁紙でも似合うように撮れるんですからね」

「それは楽しみですね」


アルはくすりと笑い、そのままスタジオへと向かっていった。

桃花はその背中を追いながら、自分の胸の奥に広がる妙な感覚を振り払おうとする。


(……今のは、どういう意味だったんだろう?)


だが、考えても答えは出ない。

だからこそ、まずはシャッターを切ることに集中するしかない。

桃花は深く息を吸い込み、アルの背を追いながら、再びスタジオへと足を踏み入れた。



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