桃花は、撮影のために確保された控え室の椅子に身を沈めると、無意識に唇に触れた。そこにはまだ、微かに残る感触があった。アルの、桃花の唇に触れた、その確かに温度のある感覚だった。
「な、なんで……? あんな、こと……だって、おかしいってわかっているのに」
指先に伝わる温もりに、思わず胸の奥がざわつく。わずかに開いた口から熱い息が漏れるのを止めようとするが、なかなかうまくいかない。呼吸が整わない。頭の中がぐるぐると回る。
かろうじて抱えたカメラを落とさなかったのは、きっと桃花のファッションフォトグラファーとしての最後の矜持だったのだろうと思う。
「撮影、だったのに……」
絞り出すような声が漏れた。そう、あれはあくまで演技だったはずだ。アルはただ、桃花の「作品」の一部として、完璧に役を演じてくれただけ。それだけのこと。そう思おうとするのに、胸の奥で跳ねる心臓がそれを否定する。
「でも……あんな……あ……」
視線を落とすと、指先がわずかに震えているのがわかった。それを見た瞬間、頬に熱がこもる。まるで体の内側から火照るように、じんわりと紅潮していくのを止められない。
(嘘……まだ、こんな……)
こんなに乱れたままでいるなんて。どんなに撮影に没頭していたとはいえ、こんなことは今までなかった。彼の顔が近づいた瞬間、どこかで理性が切れたのかもしれない。
「……っ!」
思い出すだけで心臓が跳ねる。まぶたを閉じれば、アルの瞳がすぐそこにある錯覚に囚われる。冷たくも妖しい光を宿した瞳。誘うように微笑んで、まるで獲物を弄ぶような甘い声で、囁かれたあの言葉。
『これでも?』
それはゲームの中では何度も見てきたもの。だが、それが現実でできる人間が存在しているだなんて、桃花は思ってもみなかったのだ。
(ダメだ……!)
首を横に振る。意識を切り替えないと、撮影のことに集中しないと。でも、わかっている。どれだけ自分に言い聞かせたところで、身体が、感覚が、まだアルの熱を覚えてしまっている。
喉の奥が乾くような感覚がする。無理やり息を整えようと深く吸い込むが、かえって胸が詰まるようだった。
コン、コン。
そうして必死に自分を抑え込もうとしていると、控え室のドアが軽くノックされる。
その音に、桃花の全身がびくりと跳ねた。指先が反射的に服の裾を握りしめる。まるで今、何かを見透かされたような気がして、鼓動がさらに早まる。
「桃花?」
低く落ち着いた声。なのに、その声を聞いただけで背筋がぞくりと震える。
すぐにわかってしまう。アルだった。
(今……ここに来るの?)
視界が一瞬揺らぐ。深呼吸する間もなく、ドアがゆっくりと開いた。
「……っ!」
そこに立っていたのは、先ほどまでカメラ越しに見ていた、あの「魔王」だった。異形の衣装を纏い、妖しく微笑むアル。その姿がそのまま、桃花の目の前にある。
まるで、夢の中から抜け出してきたような、そんな錯覚に陥る。
それが櫻木昴の実力なのだとわかっていても、その一挙手一投足が人ではないような雰囲気を纏っていて、無機質な白い壁紙からあまりに浮いていた。
「ど、どうしてここに……?」
「……様子を見に来ました。桃花がどうしているか、心配になったので」
彼は穏やかに微笑んでいる。けれど、その瞳はどこか探るような色を帯びているようにも見えた。
「すみません……少し、休憩したくて……」
ようやく絞り出した声は、想像以上にかすれていた。キスのことは口には出さない。だが、息がまだ乱れているせいかもしれない。なんだか妙に居心地が悪い気がする。
アルはそんな桃花を見つめ、ふっと微笑んだ。半分だけ顔が引きつる。人ではないのだと思えてしまう。
「そうですね……少し熱がこもっていますよ」
そう言いながら、彼の指先が伸びる。ふわりと、頬に触れられそうになった瞬間だった。
「っ!!」
桃花は反射的に体を引いた。だが、その動揺こそが、すべてを悟らせる行動だった。
アルはその反応を見て、口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「……なるほど」
「……な、なにが……?」
「いえ。ただ、少し可愛らしいなと思っただけです」
「……っ!」
一瞬で頬に熱が広がる。アルは微笑みながら、手を引っ込めると、そのまま扉の枠に軽くもたれかかった。
「もう少し、落ち着かれたら、また続きを撮りましょう。……でも」
言葉を区切り、ゆっくりと視線を落とす。その目はまるで、すべてを見透かすような色をしていた。
「次は、もっと深いところまで、撮らせてもらえますか?」
「……っ!」
息を呑む。意味深な言葉。だが、今は何も言い返せなかった。
アルはそれを見て、満足したように微笑むと、軽やかに控え室を後にする。
彼が去った後、桃花はひとり、胸に手を当てて息を整えようとした。だが、まだ、呼吸は落ち着かない。
(もう……本当に……どうしたらいいの……?)
手のひらに伝わる鼓動は、まるでカメラのシャッター音のように、鳴り続けていた。