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第91話 キスの後

 桃花は、撮影のために確保された控え室の椅子に身を沈めると、無意識に唇に触れた。そこにはまだ、微かに残る感触があった。アルの、桃花の唇に触れた、その確かに温度のある感覚だった。


「な、なんで……? あんな、こと……だって、おかしいってわかっているのに」


 指先に伝わる温もりに、思わず胸の奥がざわつく。わずかに開いた口から熱い息が漏れるのを止めようとするが、なかなかうまくいかない。呼吸が整わない。頭の中がぐるぐると回る。

 かろうじて抱えたカメラを落とさなかったのは、きっと桃花のファッションフォトグラファーとしての最後の矜持だったのだろうと思う。


「撮影、だったのに……」


 絞り出すような声が漏れた。そう、あれはあくまで演技だったはずだ。アルはただ、桃花の「作品」の一部として、完璧に役を演じてくれただけ。それだけのこと。そう思おうとするのに、胸の奥で跳ねる心臓がそれを否定する。


「でも……あんな……あ……」


 視線を落とすと、指先がわずかに震えているのがわかった。それを見た瞬間、頬に熱がこもる。まるで体の内側から火照るように、じんわりと紅潮していくのを止められない。


(嘘……まだ、こんな……)


 こんなに乱れたままでいるなんて。どんなに撮影に没頭していたとはいえ、こんなことは今までなかった。彼の顔が近づいた瞬間、どこかで理性が切れたのかもしれない。


「……っ!」


 思い出すだけで心臓が跳ねる。まぶたを閉じれば、アルの瞳がすぐそこにある錯覚に囚われる。冷たくも妖しい光を宿した瞳。誘うように微笑んで、まるで獲物を弄ぶような甘い声で、囁かれたあの言葉。


『これでも?』


 それはゲームの中では何度も見てきたもの。だが、それが現実でできる人間が存在しているだなんて、桃花は思ってもみなかったのだ。


(ダメだ……!)


 首を横に振る。意識を切り替えないと、撮影のことに集中しないと。でも、わかっている。どれだけ自分に言い聞かせたところで、身体が、感覚が、まだアルの熱を覚えてしまっている。

 喉の奥が乾くような感覚がする。無理やり息を整えようと深く吸い込むが、かえって胸が詰まるようだった。

 コン、コン。

 そうして必死に自分を抑え込もうとしていると、控え室のドアが軽くノックされる。

 その音に、桃花の全身がびくりと跳ねた。指先が反射的に服の裾を握りしめる。まるで今、何かを見透かされたような気がして、鼓動がさらに早まる。


「桃花?」


 低く落ち着いた声。なのに、その声を聞いただけで背筋がぞくりと震える。

 すぐにわかってしまう。アルだった。


(今……ここに来るの?)


 視界が一瞬揺らぐ。深呼吸する間もなく、ドアがゆっくりと開いた。


「……っ!」


 そこに立っていたのは、先ほどまでカメラ越しに見ていた、あの「魔王」だった。異形の衣装を纏い、妖しく微笑むアル。その姿がそのまま、桃花の目の前にある。

 まるで、夢の中から抜け出してきたような、そんな錯覚に陥る。

 それが櫻木昴の実力なのだとわかっていても、その一挙手一投足が人ではないような雰囲気を纏っていて、無機質な白い壁紙からあまりに浮いていた。


「ど、どうしてここに……?」

「……様子を見に来ました。桃花がどうしているか、心配になったので」


 彼は穏やかに微笑んでいる。けれど、その瞳はどこか探るような色を帯びているようにも見えた。


「すみません……少し、休憩したくて……」


 ようやく絞り出した声は、想像以上にかすれていた。キスのことは口には出さない。だが、息がまだ乱れているせいかもしれない。なんだか妙に居心地が悪い気がする。

 アルはそんな桃花を見つめ、ふっと微笑んだ。半分だけ顔が引きつる。人ではないのだと思えてしまう。


「そうですね……少し熱がこもっていますよ」


 そう言いながら、彼の指先が伸びる。ふわりと、頬に触れられそうになった瞬間だった。


「っ!!」


 桃花は反射的に体を引いた。だが、その動揺こそが、すべてを悟らせる行動だった。

 アルはその反応を見て、口元にうっすらと笑みを浮かべた。


「……なるほど」

「……な、なにが……?」

「いえ。ただ、少し可愛らしいなと思っただけです」

「……っ!」


 一瞬で頬に熱が広がる。アルは微笑みながら、手を引っ込めると、そのまま扉の枠に軽くもたれかかった。


「もう少し、落ち着かれたら、また続きを撮りましょう。……でも」


 言葉を区切り、ゆっくりと視線を落とす。その目はまるで、すべてを見透かすような色をしていた。


「次は、もっと深いところまで、撮らせてもらえますか?」

「……っ!」


 息を呑む。意味深な言葉。だが、今は何も言い返せなかった。

アルはそれを見て、満足したように微笑むと、軽やかに控え室を後にする。

 彼が去った後、桃花はひとり、胸に手を当てて息を整えようとした。だが、まだ、呼吸は落ち着かない。


(もう……本当に……どうしたらいいの……?)


 手のひらに伝わる鼓動は、まるでカメラのシャッター音のように、鳴り続けていた。



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