それは、もしかしたら人が「魂」と呼ぶものなのかもしれない。
そう思いながら夢中でシャッターを切った。
どれぐらいの時間がたったのだろうか。シャッター音が、やがて止まった。
沈黙が訪れる。すべてを写しきったあとにだけ訪れる、満ち足りた静けさ。
「はあ……あ……あ……」
桃花は、カメラをそっと下ろしていた。両腕が、ほんの少し震えていた。
体ではなく、心が震えていたのだ。
視線の先、光の中に立つアルが、柔らかく息を吐いた。まるで、桃花の想いに呼応するように。
鱗の光は徐々に落ち着き、彼の輪郭が影と溶け合っていく。
「あの、……アル」
言葉がうまく出てこない。桃花のもてるそのすべてを、アルに対してぶつけてしまっていたのだから、それ以上の言葉を発することができなくなってしまっていた。そんなことよりも、今はただ、もう少しだけ写真を撮りたい。それなのにこれ以上取ったところできっと、もうその光は陰りを見せてしまうだけなのだとわかってしまっている。
そして、アルはゆっくりと歩み寄る。
その足音はやさしく、ひとつ、またひとつと近づくたびに、桃花の胸の奥が不思議なほど静かになっていく。
そして、まだカメラを持ち上げるべきか悩んでいる桃花の目の前でピタリと止まった。
「……ありがとう、桃花」
その声は、低く、あたたかく、どこか寂しげで。
けれど、揺るぎなかった。
「僕をまだ、こうして、見てくれる人がいたんですね」
その時、ふと、アルがかつて恋をしていた女性のことを思い出した。
(あの人も、こんな風に光に触れたのだろうか)
カナと呼ばれた女の子。アイドルとして一生懸命に努力していたことと、それから、一生懸命努力したところで、度重なる誹謗中傷に耐えきれずに、結局最後は自らの終わりを選んでしまったことしか知らない。
それなのに、こんなに綺麗なアルを目の前にして、その気持ちがどうしてだったのか、今ならば桃花にも理解できる気がした。
(こんなに綺麗な人の隣にいるなら、自分も輝かなくちゃいけないって。そう思ったんだ)
それはきっと、理性や善悪を超えたようなものだった。
もっと根本的な感情に、「恋」という感情が交じり合ってしまった。
そんな感情な気がした。
アルは、一歩だけ踏み出した。
その指先が、迷いなく桃花のもとへと伸びる。
すべてを受け止めてくれた彼女に、何かを返したいと、ただそれだけを願って、彼はそっとその手を差し出した。それが何であるかはまだ分からなくても、それでも、と。
まるで祝福でも与えるかのように、彼女の額にアルの指先が触れたときだった。
「……っ」
その時。
桃花の体が、ふ、と前に傾いた。
「……あ!」
その光景は、まるで映像の一時停止のように、アルの瞳に焼き付いていく。落ちていく彼女。まるでそれはあの時のように。重力に従って、そのままどこまでもどこまでも墜ちていくかのような。とっさに手を伸ばす。
次の瞬間、桃花の膝が力を失い、ふわりと床へ沈むように崩れ落ちる。
「桃花!」
伸ばしていた手が、反射的に彼女の体を受け止めた。カメラが軽く床に滑り落ち、控えめな音を立てて静かに止まる。かろうじて壊れてはいないようだ。
アルは彼女を抱き止めたまま、そっとその顔を覗き込む。
目は閉じられていて、まつげがわずかに震えている。額には薄く汗が滲み、唇は少しだけ開いていた。
「……無理、しすぎたんですね」
その声は、驚きよりも、どこか納得したような響きを帯びていた。
桃花の全身からは、限界まで張り詰めていた気配が、まるで解けるように抜け落ちていた。
あまりにも全力で、真っ直ぐに、ひたむきにアルを、そして作品を、見つめすぎてしまったのだ。
その証拠に、彼女の顔には、どこか安らいだ微笑が浮かんでいた。
やりきった者だけが見せる、達成と満足の表情。アルはふと、小さく息をついた。
それは、安堵とも、感動ともつかない吐息だった。
それでも、その目には確かな温かさが宿っていた。
そして、小さく笑った。
「……本当に、すごい人だ」
彼は静かに彼女の背を支えながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。
指先に迷いはない。彼女自身を守らなくてはいけない。
彼女が、自分を救い出すようにシャッターを切ってくれたように。ダイヤルを押す指先は冷静だった。
『……救急ですか? 人が、倒れて……ええ、突然です。深く眠っているような状態で、呼吸は……あります。すぐに来ていただけますか。』
通報を終えたあとも、アルは桃花の額に浮かぶ汗を、やわらかなハンカチでそっと拭ってやった。
まるで壊れ物に触れるように。
「お、おい、大丈夫なんか?」
京志郎がそんな桃花とアルの顔を見つめて、焦ったように尋ねてくる。それに対してアルは静かにうなずいた。
「それほど心配しなくても大丈夫でしょう。呼吸もありますし、脈もはっきりしています。ですが、ここ最近は夜遅くまで頑張っていましたし、その疲れが来てしまったんでしょうね」
「……なんでそんなことお前が知ってんねん」
その表情は、まるで微笑むように穏やかだった。
京志郎はそんなアルに呆れたように、ため息をついた。そんなところまで知っているということは、確実にこの男は桃花の傍にいたのだろう。そんな無粋なこと言わなくても、彼にもわかってしまったのである。
それを特に気にした様子もなく、アルは声をかけ続けた。
「もう、無理はしないでください。僕は、ちゃんと……ここにいますから」
桃花に届かない言葉を、彼は心の中でそっと繰り返した。
「とりあえず、私は他のスタッフのことも呼んでくるから!! ちょっと様子見といて!!」
綾乃が焦ったように、部屋から出て行った。
桃花と付き合いが長いはずの彼女もここまで驚いているということは、こういう状態になったことはあまりないのかもしれないと、彼は想像してしまう。
こんな一面もあったなんて。遊園地で写真撮影した時から、かなり真剣に集中しすぎるだと思っていた。それはただ、作品の材料としてのアルを見ていたからなのだろう、と思った。自分のことをカナのように、身を滅ぼしてまで好きだと思ってくれるようなことはないだろうと。そう、タカをくくっていたのである。
「それなのに、こうなってみて、初めて気が付かされることがあるんですね」
だが、ここまで無茶をしたということは、文字通り「命がけ」で撮影してくれたということに他ならない。
周囲のスタッフがようやく事態に気づき、駆け寄ってくる。何人かは、あまりにも美しい姿をしたアルの姿にぎょっとしていたし、そうでなくても、何が起こったのか分かっているスタッフは少なかった。
多分、飯田編集長も今回のことは桃花が中心になって動くべきだと判断したから、ほかの人たちの手伝いに関しては最低限に抑えるように指示していたのだろう。
「これは……それに、どうして、こんな状態で……」
話を聞つけたのだろう。一番先にやって来た飯田編集長が呆然とアルと桃花を見比べている。
それでもアルは、彼女を他の誰にも渡さなかった。
「ちょっと、望月さん倒れたって! 個別で撮影中じゃなかったの?!」
「ほら、救急車が来たから!! 早く道あけて!!」
彼女の背を支え、彼女の温度をそのまま腕の中に抱いていた。
やがて、救急のサイレンが近づいてくる音が、スタジオの外からかすかに聞こえてきた。
アルは彼女の耳元に、そっと囁いた。
「大丈夫。今度は、僕があなたを見守ります」
それは、約束にも似た優しい言葉だった。