どこかずっと、暗いところに堕ちていく感覚がした。
重力があるのかも分からないまま、身体はゆるやかに沈み続けていた。冷たいのに、痛くはない。むしろ、心地よい静寂すらあった。光がない。音もない。ただ、深い闇が果てしなく広がっている。
けれど、不思議と、怖くはなかった。
それはまるで、最初からそこに在ったような場所だったからかもしれない。
「なんで……?」
声が、ぽつりと漏れた。誰かに問いかけたわけじゃない。ただ、自分の中に生まれた違和感が、勝手に言葉になっただけだった。
どうしてこんなところにいるのだろう。
どこに向かっているのだろう。
桃花にはわからなかった。ただ一つ、確信していた。
いま、しなければならないことがある。
それは自分のためであって、自分のためではない。誰か、とても大切な人のために。まだ名前も口にしていないその人のために、自分は「戻らなければならない」と強く思った。
心臓が、どくん、とひとつ脈打つ。
そのとき、暗闇の奥から、やわらかな光がにじんだ。
「あれ……は……?」
輪郭も曖昧な、淡い光。その中心から、ふわりと何かが歩いてくる。細いシルエット。
見知らぬ女性だった。
揺れる長い髪、透けるような肌。どこかあどけなさを残した面差しに、微笑みが浮かんでいた。けれどその笑みには、ほんの少しだけ、寂しげな色が混じっていた。
「こんにちは、桃花さん」
声は、やわらかかった。水面を優しくなぞるような、そんな音色だった。
桃花は息をのんだ。言葉が、すぐには出なかった。
桃花には誰なのかもわからない。
けれど彼女は、すべてを知っているように、そっと微笑む。
「会いにきた。……ただ、伝えたかったの。あなたが来てくれて、よかったって」
「……どうして……?」
「わたしはもう、あの人の隣にはいられない。たとえ、想いがあったとしても、ね。もう、ぜんぶ……過去だから」
淡い光が、カナの足元からゆっくりと揺れていた。それはまるで、時間が静かにほどけていくようで。
「でも、あの人は、今を生きてる。……ちゃんと、前を向こうとしてるの。だから、お願い」
その言葉とともに、彼女が一歩、桃花に近づいた。
そして、まるで友人にそっと秘密を預けるように、小さく、けれど確かに言った。
「あの人を、よろしくね」
その言葉は優しかった。
桃花は思わず、何か言おうと口を開いた。けれど、その声が届くより早く、カナの身体はやわらかく光に包まれ始めた。
花びらが静かに散るように、ゆっくりと、透明になっていく。
「ありがとう」
カナが静かに消えていく方向とは、真逆の今、この瞬間に戻るための、眩しい光の中へ。
桃花の身体がふわりと浮かび上がる。吸い込まれるように、やわらかな風が肌を撫でていく。
「……カナ、さん……」
重力を取り戻す感覚とともに、彼女の視界は次第に白く満たされていく。
その向こうには、あの人がいる。
アルが待っている。
そう、だから。
「……戻らなくちゃ」
その一言が、すべてだった。
桃花は、光の中に身を委ねた。
窓の外には、まだ朝とも呼べないほどの柔らかい光が、病室の白いカーテンをほんのり透かしていた。
「……ん」
桃花は、ゆっくりとまぶたを開いた。静寂の中、機械の小さな電子音が一定のリズムで鳴っている。頭の奥が少し重たい。けれど、それ以上に、身体の芯にひんやりとした安堵が染み込んでいるようだった。
「……ここは……」
声は掠れていた。
「桃花っ!」
その瞬間、バサッと音を立てて飛び込んできた温もりがあった。柔らかくて、けれど全身で感情をぶつけてくるそれは、まぎれもなく綾乃だった。
「ほんっとに、もう! 無茶したからだよ!! あんた、どこまでバカなの!? 撮影って命がけでするもんじゃないでしょ!?」
言葉は怒りに満ちているのに、声が震えていた。抱きしめられたその腕に、かすかに涙の気配を感じて、桃花はゆっくりと笑った。
「……ごめんね、綾乃……でも……一枚でも多く撮れてたら、いいな、って……」
「バカ! もう……! 心配したんだからっ……!」
綾乃はそう言いながらも、抱きしめたまま離れなかった。優しくて温かい、そんな綾乃に桃花は思わず苦笑いをした。
その様子を、ベッドのすぐ横で見守っていた存在があった。
アルだった。
「アル……」
彼は一言も発せず、ただ静かに、微笑んでいた。けれどその目は、どこか揺れていた。桃花の視線が彼を捉えると、彼は椅子から静かに立ち上がった。
「大丈夫ですよ」
アルは綾乃に優しく言った。
「……僕が、ついていますから」
綾乃の眉がぴくりと跳ねた。アルの言葉の意味が、最初はうまく理解できなかったのだろう。けれど、ほんの一瞬だけ目を細めてから、じっと彼を見据える。
「……え、今なんて?」
声には明らかに戸惑いがにじんでいる。桃花の枕元でそのまま動こうとしないアルに、綾乃は思わず一歩、足を踏み出す。
「僕がついています、と言いました。桃花さんのそばにいます。彼女が完全に回復するまで、ここを離れるつもりはありません」
「はあ!? いやいや、ちょっと待って。その、仕事とか……」
「すでに対応済みです。印刷所や桃花の職場との連絡などに関しても、こちらですべてできますよ。もともと桃花の仕事ぶりは近くで見ていましたから」
さらりと告げるその口調には、一分の迷いもなかった。それが逆に、綾乃をたじろがせた。
「……本気、なんだ」
「はい、もちろん」
綾乃はちらりとベッドの桃花に視線を落とす。
桃花も目がさめたばかりで、今何が起こっているのかうまく理解していないらしい。