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第100話 約束をしよう

「でも……私が残って」


 だからこそ、引き下がろうとしない。だが、アルも引かない。


「須田さんも、しばらくお休みください。スタジオの片付けも手配しましたし、写真のデータは後ほど僕が確認して、急ぎで必要があれば編集部に送ります。綾乃さんがいなければならない場面は、もうしばらくありません」


 その言葉に、綾乃はぐっと詰まる。まるで、すべてが読まれていたようで。


「……抜け目ないな、本当に……」

「僕は桃花さんのことになると、少しだけ執着が強くなるのかもしれません」


 軽く笑ったアルの瞳は、どこまでも真剣だった。

 どんなことがあっても彼女の隣にいたい。そんな、祈りにも似た意志がそこにはあった。

 綾乃は深く、息を吐いた。


「……なら、任せます。でも、なにかあったらすぐ呼んで。彼女は……無理をする人だから」

「はい。重々、承知しています」


 綾乃が病室を出ると、室内には再び静寂が戻ってきた。機械の音だけが、微かに時を刻んでいる。

 アルは椅子に戻り、そっと桃花の手を取った。温もりが、まだそこにあった。心臓の鼓動は確かに感じられた。


「……生きていてくれて、ありがとう」

「……そんなに心配させちゃいましたか?」


「もちろん。桃花の事なら、何でも心配になるんですよ。だから、できれば、あまり無理をしないでくださいね」


 アルはニコニコと笑っていた。

 だが、どこかそこにいつもの余裕がないように見えたのは、きっと気のせいではないのだろう。

 それなのに、あまり起きてられなくて。桃花はまた眠ってしまっていた。





 夜が更け、病室の灯りがひとつ、またひとつと落とされていく。

 天井の白い蛍光灯がすっと静かに消え、残るのはベッドの横に設置された小さな読書灯と、窓の外から忍び込む淡い月の光だけだった。どこか遠くで、機械が静かに電子音を刻んでいる。


「……」


 アルは窓際のソファに腰をおろし、まるで誰にも気づかれないように、静かにそこにいた。目を閉じてはいたけれど、眠っているわけではない。まぶたの裏に浮かぶのは、つい先ほどの彼女の寝顔だった。

 病室には、ほとんど風の気配すらなかった。けれど、彼の中には止まらぬ波があった。冷たく、けれど優しく、何度も胸の内側を撫でてくる波。その正体は感情だった。言葉にはならない想いが、胸の奥で静かに揺れている。

 やがて、ベッドの上で、シーツが小さく音を立てた。


「ん……」


 ほんのわずか、桃花のまぶたがかすかに持ち上がる。


「……アル?」


 かすれた声。けれど、ちゃんと意識は戻っていた。

 アルはすぐに立ち上がる。椅子の背に置いてあった毛布が音もなく滑り落ちた。彼はベッドの横まで近づくと、丁寧に温めていた水のボトルを手渡した。


「はい。ここにいますよ」


 その声は、凍えた夜にささやくように静かで、やわらかかった。

 水を一口飲み、桃花は目を細める。喉を通るぬるま湯の優しさに、少しだけ肩の力が抜けた。


「……ごめんね。びっくりさせたよね」

「ええ、驚きました。でもそれ以上に……あなたが、まだここにいることに、心から感謝しています」


 アルは彼女の手を取らなかった。ただ、少し距離を保ったまま、その姿を静かに見守っていた。まるで彼女の体の輪郭を崩してしまわぬように。

 ふと、彼の目が揺れた。月光がその瞳を淡く照らし、表面に沈んだ感情の波紋を反射させた。


「……桃花。ひとつ、言っておきたいことがあるんです」

「なに?」


 桃花が目を細める。彼の声には、微かに震えるような陰が含まれていた。まるで、どこか遠い記憶から引き出したような。

 それを指摘はせずに、静かに尋ねてみる。


「人間って……どれだけ絶望しても、人を好きになることを、止められないんですね。あの時は……もう二度と、誰かを好きにならなくてもいいと、本気でそう考えていた。」


 その言葉は、苦笑にも似ていた。けれど、笑ってなどいなかった。瞳の奥には、澄み渡った悲しみがあった。

 それが誰に対しての悲しみなのか、今の桃花にはよくわかった気がした。多分、こんな顔をアルに支える人は、後にも先にも、たった一人しかいないのだろう。それは桃花にもよくわかってしまった。


「希望が見えなくても、答えがなくても、どんなに傷ついても……それでも、心は誰かを想ってしまうんです」


 それは、祈りのようだった。誰にも向けられていないようで、たしかに目の前の彼女だけを見ている言葉だった。

 桃花は、息をのんだ。まぶたを伏せ、唇をかすかにかみしめた。

 心臓がひとつ、静かに跳ねた。

 自分の中で、何かが揺れた。けれど、だからこそ、半端に返事をしてはいけないのだとよくわかっていた。

 やがて、ゆっくりと桃花は顔を上げた。声は少しだけ震えていた。


「……アル。それ、今じゃなくていい、ですか?」


 アルは一瞬だけ目を見開いた。だがすぐに、それが拒絶ではないことを理解した。彼女の声は、あまりにも真っ直ぐだったから。


「僕を待たせるんですか? ひどい人だ」

「うん……ひどいよ」


 桃花もわかっている。

 ただ、一生懸命に彼を愛そうとして、それに付き合う自分になろうとするだけだったら、きっと同じように潰れてしまう。桃花に求められているのは、そんなことではないのだ。もっと違うこと。アルの傍にいられる自分だと、自分自身で確信することが必要なのだとわかっている。


「写真集が、完成するまでは……ね? まだ、終わってないの。あなたの一番美しい瞬間を、私はまだ……閉じ込めきれてない」


 言葉の端に、微かに熱が滲んでいた。


「だから……そのときまで、待っててくれる?」


 沈黙が落ちる。けれど、それは重いものではなかった。二人の間に流れる時間は、凪のように穏やかで、あたたかかった。


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