アルはほんの少しだけ目を細め、ゆっくりとうなずいた。
「……わかりました。あなたが、僕のすべてを写し終えるその瞬間まで。ちゃんと、待ちます」
そう言って、そっと彼女の手に触れた。指先が、ほんの少しだけ触れ合う。その温度が、お互いの胸に、深く染み込んでいく。
桃花は目を閉じる。再び、眠気がその意識をやさしく包み込んでいく。
けれど、今度は安心のなかでの眠りだった。すぐ隣に、ちゃんと、見守ってくれる存在がいるとわかっているから。
アルは、その手をしっかりと握ったまま、そっと息を吐いた。
それは、彼にとっても救いだったのかもしれない。
窓の外には、雲間から覗く月が、淡く病室を照らしていた。その光は、どこかやさしく、二人の姿をそっと包み込んでいた。
そして、アルはひとり、心の奥で誓った。
彼女の「完成」を、どんな誰よりも近くで、最後まで、見届けると。
朝は、驚くほど穏やかに訪れた。
桃花が目を覚ましたとき、病室のカーテン越しにはやわらかな陽光が差し込み、窓際の椅子にはいつものように静かにアルが腰かけていた。昨夜と何一つ変わらない構図のはずなのに、なぜか胸の奥に、満たされた感情があった。
「おはようございます」
アルの声は変わらず落ち着いていて、けれどどこかあたたかい。それがまた落ち着いた。
「……うん。おはよう、アル」
桃花は、ようやく少ししっかりとした声で答えた。身体に重さはあったが、意識は明瞭だった。
医師の回診は思ったよりあっさりしていた。身体には特に大きな異常もなく、ただ一時的な過労と脱水による意識消失だという診断だった。絶対安静を一日、という指示のもと、桃花はその日を病室で静かに過ごすこととなった。
ベッドの上でアルと少し話をしたり、綾乃から届いた差し入れの果物をふたりで分け合って食べたり。特別なことは何もない一日だったが、それだけに、桃花の心にはやわらかい余韻が広がっていた。
そして翌朝。
午前の診察を終えると、医師から「問題なし」との言葉が下され、そのまま退院の手続きが取られた。
「じゃあ、これで……」
病院の玄関に立ち、桃花は外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。車の音、人の声。日常のざわめきが、どこか懐かしく感じられる。
「ありがとう、ございます……あの、アル?」
ふと隣を見ると、アルが少し離れた場所でスマートフォンを操作していた。通話を終えると、彼はにっこりと微笑んだ。
「では、桃花さん。帰りましょうか」
「え、帰りましょうって……」
次の瞬間、目の前に黒塗りのハイヤーが音もなく滑り込んできた。助手席のドアが自動で開き、背後のドライバーが一礼する。
物語に出てくるような、初老の執事の男だった。
「……な、なに……え……?」
桃花は思わず呆気にとられたように立ち尽くした。
「……もしかして、手配したの、アル?」
「もちろん。あなたを無事に家まで送り届けることも、僕の仕事のひとつですから」
冗談のようにさらりと言ってのけるその声音に、桃花は思わずため息をついた。
「いや、でも、こんなの……普通じゃないですよね?!」
「でしょうね」
アルはくすりと笑うと、軽く顎を上げてドアの方を促す。けれどその瞳は、なぜか少しだけ意味ありげに揺れていた。
「……どうしてここまでするんですか?」
桃花の問いに、アルはふと、わずかに視線を遠くに向けた。そして、答えた。
「……じゃあ、僕の秘密も、その時に教えますね」
桃花の目がわずかに揺れる。
「え……」
「だって、桃花だけ秘密なのはズルいじゃないですか」
その言葉には、何か大きな意味があることを、彼女は直感的に感じ取ってしまった。ただの気まぐれや、気遣いだけではない。もっと奥に、深く長く積もった何かがあるのだと。
「その時、って?」
「……あなたが、僕を最後まで写し終えた時です」
そう告げると、アルは何事もなかったかのように微笑み、ドアを開けたまま、彼女を待つ。
桃花は一瞬だけ迷った。けれど、ふと、昨夜の約束の言葉が胸をよぎる。
(写真集が、完成するまでは……)
その言葉の続きを、今の自分が握っている。
彼女は、ゆっくりと頷いた。
「……じゃあ、何も聞かずに乗りますね」
ドアの向こうへと歩み寄り、アルの隣に腰かけると、車内には上質な革の香りと、柔らかな静寂が満ちていた。
車が静かに発進する。
窓の外、風景は流れていく。
(こういうの……現代もののゲームでもないかもしれない)
そんなことを考えていると、桃花にアルはちらりと彼女を見やった。
そして、そっと囁いてくる。
「桃花さんは、いつもどんな夢を見ますか?」
唐突に、けれど柔らかく、アルがそう尋ねた。
車内は静かだった。窓の外に広がる街並みのざわめきも、車の遮音性に包まれて、ほとんど届いてこない。まるで異空間のような静けさの中で、その一言だけが、まっすぐに桃花の胸へと届いた。
「え……?」
思わず聞き返した桃花に、アルは微笑を浮かべたまま、正面を向いて答えた。
「人は、眠っている間、心の底に隠した願いや、不安や、まだ手放せていない記憶を見るといいます。だから、桃花の寝顔を見ていて、あなたがどんな夢を見るのか……ずっと、気になっていたんです」
「……夢なんて……そんな、特別なものじゃないです。ふつうに、日常のこととか……誰かの顔とか……よくわからないのも、混じってて……」
ぽつりぽつりと答えるうちに、桃花は少し頬を赤らめていた。こんなふうに、自分の夢について話すことなど、今まで一度もなかった。ましてや、誰かに「どんな夢を見るのか」なんて問われたことも。
それに、あれがカナだったのか、それははっきりとは言えない。だからアルに伝えられない気がした。
「……でも」
そこで、ふと言葉を切って、桃花は自分の手のひらをじっと見つめる。
「……最近は、夢の中でもカメラを持ってます」
その言葉に、アルの表情がかすかに変わった。静かに、しかし確かに瞳の奥が揺れる。
「夢の中で、何を撮ってるんですか?」
「……あなた、を」
車内の空気が、ほんの少し、色を変えたように感じられた。照明のない車の天井に、窓から射す光がやわらかく揺れている。
「夢の中で、あなたは……いつも、少し悲しそうな顔をしてるんです。でも、振り向いたら、笑ってくれる。だから、忘れたくなくて。ずっと、撮っていたくなる」
そう言った桃花の声は、少し震えていた。自分でも気づかないうちに、胸の奥にしまっていた想いが、ことばになってこぼれ落ちていた。
アルは、それを否定しなかった。
ただ、静かに目を閉じて、一呼吸。
そして、ゆっくりと開いた瞳で、今度はまっすぐに桃花を見つめた。
「……嬉しいです」
その言葉は、あまりにも静かだった。けれど確かに、深く沁みわたる音色を持っていた。
「あなたの夢の中に、僕がいる。それは、たぶん、何よりの救いです」
窓の外では、街の景色が流れていく。こんな二人のことなど、誰も知らないに違いない。
「……秘密って、たくさんありますよね」
ふいに桃花が、ぽつりと呟いた。
「自分の中に隠してる気持ちとか、言えないこととか、怖くて口にできないこととか……。だから、たぶん私も、あなたと同じです」
それは、約束でも宣言でもない。けれど、確かに響く告白だった。
「私は、あなたの『全部』を撮りたい。でも、それって……ちゃんと、自分も全部見せなきゃ、きっと撮れない気がするから」
アルはしばらく黙っていた。けれど、その沈黙が、拒絶ではないことは、彼の横顔がすべてを物語っていた。
そして、彼はそっと、手を伸ばした。桃花の手の上に、自分の手を重ねる。その手は、温かかった。
「……その時が来たら、全部話します。僕の秘密も、過去も、夢も、……そして、願いも」
まるで誓いのような言葉だった。けれど、それ以上、言葉は続かない。ただそのぬくもりだけが、ふたりのあいだに流れていた。
車はやがて、桃花の住むマンションの前にたどり着いた。
それがもう少し短ければいいな、とぼんやりと桃花は思った。