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第101話 一緒に話す

 アルはほんの少しだけ目を細め、ゆっくりとうなずいた。


「……わかりました。あなたが、僕のすべてを写し終えるその瞬間まで。ちゃんと、待ちます」


 そう言って、そっと彼女の手に触れた。指先が、ほんの少しだけ触れ合う。その温度が、お互いの胸に、深く染み込んでいく。

 桃花は目を閉じる。再び、眠気がその意識をやさしく包み込んでいく。

 けれど、今度は安心のなかでの眠りだった。すぐ隣に、ちゃんと、見守ってくれる存在がいるとわかっているから。

 アルは、その手をしっかりと握ったまま、そっと息を吐いた。

 それは、彼にとっても救いだったのかもしれない。

 窓の外には、雲間から覗く月が、淡く病室を照らしていた。その光は、どこかやさしく、二人の姿をそっと包み込んでいた。

 そして、アルはひとり、心の奥で誓った。

 彼女の「完成」を、どんな誰よりも近くで、最後まで、見届けると。





 朝は、驚くほど穏やかに訪れた。

 桃花が目を覚ましたとき、病室のカーテン越しにはやわらかな陽光が差し込み、窓際の椅子にはいつものように静かにアルが腰かけていた。昨夜と何一つ変わらない構図のはずなのに、なぜか胸の奥に、満たされた感情があった。


「おはようございます」


 アルの声は変わらず落ち着いていて、けれどどこかあたたかい。それがまた落ち着いた。


「……うん。おはよう、アル」


 桃花は、ようやく少ししっかりとした声で答えた。身体に重さはあったが、意識は明瞭だった。

 医師の回診は思ったよりあっさりしていた。身体には特に大きな異常もなく、ただ一時的な過労と脱水による意識消失だという診断だった。絶対安静を一日、という指示のもと、桃花はその日を病室で静かに過ごすこととなった。

 ベッドの上でアルと少し話をしたり、綾乃から届いた差し入れの果物をふたりで分け合って食べたり。特別なことは何もない一日だったが、それだけに、桃花の心にはやわらかい余韻が広がっていた。

 そして翌朝。

 午前の診察を終えると、医師から「問題なし」との言葉が下され、そのまま退院の手続きが取られた。


「じゃあ、これで……」


 病院の玄関に立ち、桃花は外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。車の音、人の声。日常のざわめきが、どこか懐かしく感じられる。


「ありがとう、ございます……あの、アル?」


 ふと隣を見ると、アルが少し離れた場所でスマートフォンを操作していた。通話を終えると、彼はにっこりと微笑んだ。


「では、桃花さん。帰りましょうか」

「え、帰りましょうって……」


 次の瞬間、目の前に黒塗りのハイヤーが音もなく滑り込んできた。助手席のドアが自動で開き、背後のドライバーが一礼する。

 物語に出てくるような、初老の執事の男だった。


「……な、なに……え……?」


 桃花は思わず呆気にとられたように立ち尽くした。


「……もしかして、手配したの、アル?」

「もちろん。あなたを無事に家まで送り届けることも、僕の仕事のひとつですから」


 冗談のようにさらりと言ってのけるその声音に、桃花は思わずため息をついた。


「いや、でも、こんなの……普通じゃないですよね?!」

「でしょうね」


 アルはくすりと笑うと、軽く顎を上げてドアの方を促す。けれどその瞳は、なぜか少しだけ意味ありげに揺れていた。


「……どうしてここまでするんですか?」


 桃花の問いに、アルはふと、わずかに視線を遠くに向けた。そして、答えた。


「……じゃあ、僕の秘密も、その時に教えますね」


 桃花の目がわずかに揺れる。


「え……」

「だって、桃花だけ秘密なのはズルいじゃないですか」


 その言葉には、何か大きな意味があることを、彼女は直感的に感じ取ってしまった。ただの気まぐれや、気遣いだけではない。もっと奥に、深く長く積もった何かがあるのだと。


「その時、って?」

「……あなたが、僕を最後まで写し終えた時です」


 そう告げると、アルは何事もなかったかのように微笑み、ドアを開けたまま、彼女を待つ。

 桃花は一瞬だけ迷った。けれど、ふと、昨夜の約束の言葉が胸をよぎる。


(写真集が、完成するまでは……)


 その言葉の続きを、今の自分が握っている。

 彼女は、ゆっくりと頷いた。


「……じゃあ、何も聞かずに乗りますね」


 ドアの向こうへと歩み寄り、アルの隣に腰かけると、車内には上質な革の香りと、柔らかな静寂が満ちていた。

 車が静かに発進する。

 窓の外、風景は流れていく。


(こういうの……現代もののゲームでもないかもしれない)


 そんなことを考えていると、桃花にアルはちらりと彼女を見やった。

 そして、そっと囁いてくる。


「桃花さんは、いつもどんな夢を見ますか?」


 唐突に、けれど柔らかく、アルがそう尋ねた。

 車内は静かだった。窓の外に広がる街並みのざわめきも、車の遮音性に包まれて、ほとんど届いてこない。まるで異空間のような静けさの中で、その一言だけが、まっすぐに桃花の胸へと届いた。


「え……?」


 思わず聞き返した桃花に、アルは微笑を浮かべたまま、正面を向いて答えた。


「人は、眠っている間、心の底に隠した願いや、不安や、まだ手放せていない記憶を見るといいます。だから、桃花の寝顔を見ていて、あなたがどんな夢を見るのか……ずっと、気になっていたんです」

「……夢なんて……そんな、特別なものじゃないです。ふつうに、日常のこととか……誰かの顔とか……よくわからないのも、混じってて……」


 ぽつりぽつりと答えるうちに、桃花は少し頬を赤らめていた。こんなふうに、自分の夢について話すことなど、今まで一度もなかった。ましてや、誰かに「どんな夢を見るのか」なんて問われたことも。

 それに、あれがカナだったのか、それははっきりとは言えない。だからアルに伝えられない気がした。


「……でも」


 そこで、ふと言葉を切って、桃花は自分の手のひらをじっと見つめる。


「……最近は、夢の中でもカメラを持ってます」


 その言葉に、アルの表情がかすかに変わった。静かに、しかし確かに瞳の奥が揺れる。


「夢の中で、何を撮ってるんですか?」

「……あなた、を」


 車内の空気が、ほんの少し、色を変えたように感じられた。照明のない車の天井に、窓から射す光がやわらかく揺れている。


「夢の中で、あなたは……いつも、少し悲しそうな顔をしてるんです。でも、振り向いたら、笑ってくれる。だから、忘れたくなくて。ずっと、撮っていたくなる」


 そう言った桃花の声は、少し震えていた。自分でも気づかないうちに、胸の奥にしまっていた想いが、ことばになってこぼれ落ちていた。

 アルは、それを否定しなかった。

 ただ、静かに目を閉じて、一呼吸。

 そして、ゆっくりと開いた瞳で、今度はまっすぐに桃花を見つめた。


「……嬉しいです」


 その言葉は、あまりにも静かだった。けれど確かに、深く沁みわたる音色を持っていた。


「あなたの夢の中に、僕がいる。それは、たぶん、何よりの救いです」


 窓の外では、街の景色が流れていく。こんな二人のことなど、誰も知らないに違いない。


「……秘密って、たくさんありますよね」


 ふいに桃花が、ぽつりと呟いた。


「自分の中に隠してる気持ちとか、言えないこととか、怖くて口にできないこととか……。だから、たぶん私も、あなたと同じです」


 それは、約束でも宣言でもない。けれど、確かに響く告白だった。


「私は、あなたの『全部』を撮りたい。でも、それって……ちゃんと、自分も全部見せなきゃ、きっと撮れない気がするから」


 アルはしばらく黙っていた。けれど、その沈黙が、拒絶ではないことは、彼の横顔がすべてを物語っていた。

 そして、彼はそっと、手を伸ばした。桃花の手の上に、自分の手を重ねる。その手は、温かかった。


「……その時が来たら、全部話します。僕の秘密も、過去も、夢も、……そして、願いも」


 まるで誓いのような言葉だった。けれど、それ以上、言葉は続かない。ただそのぬくもりだけが、ふたりのあいだに流れていた。

 車はやがて、桃花の住むマンションの前にたどり着いた。

 それがもう少し短ければいいな、とぼんやりと桃花は思った。



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